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『古事記』『日本書紀』と史実

『古事記』『日本書紀』などに記されている神話について、次のような意見がある。

『古事記』『日本書紀』などに記されているいわゆる日本神話が、史的事実とは、まったく関係がないことは、すでに、証明ずみであり、神話から邪馬台国の所在をさぐろうとするのは、邪馬台国問題じたいの研究史からみるとき、学問の逆行である。

しかし、「日本神話が、史的事実とまったく関係がないことは、すでに証明ずみである」とする意 見は、かならずしも、すべての歴史学者によって、うけいれられているわけではないと思われる。

たとえぱ、 東京大学の東洋史家、和田清博士
記紀には、出雲や、南九州の熊襲などを平定した物語りはあっても、北九州を平らげた話だ けがない。かえって、神武東征の話があって、九州からヤマトにすすんだことになっている。

これから考えれば、神武天皇の話が、どれだけ史実を伝えたものかは不明としても、すくなくとも、その話のすじの中には、北九州の勢力が、大和にうちいっただけの記憶は、とどめているのではあるまいか。(『東洋史上より見たる古代日本』)
『魏志倭人伝』の旅程の新しいよみ方で知られる東京大学の榎一雄博士
皇室の発祥の地が、南九州であると伝えられているのは、ヒムカ(日向)という地名や、日本 古代の文化の上で、九州のもっていた優位性のためではなくて、実際に九州に起源があつた からであろう。

天孫が日向に降臨したという物語りや神武天皇東征の物語りは、大和朝廷の有 力者が皇室の起源の不明なのに乗じて捏造したものではなく、皇室が九州に発祥し、大陸文化 の刺激を受げて大をなし、それから大和に移ったという事実があり、それに基づいて、記紀編 纂のころ、今のような形にまとめられたのであろう。(『邪馬台国』至文堂刊)
東洋大学で教鞭をとられた日本史の市村其三郎博士は、神話には、史実を背景とする もののあることを説かれ、さらにつぎのようにのぺておられる。
「古事記・日本書紀の古伝説のなかに、ヒミコ女王の該当者を求めるとすれぱ、ヒルメノミコト女王(天照大御神)の他はないのです。日本書紀によると日本最初の国王は、天皇家の祖先に あたるヒルメノミコト女王であったと伝えられています。
ただ日本書紀はこれを神話的にとり あつかってしまったので、女王の実在を疑う学者もこれまではあったようですが、これがヒミ コ女王と同一人であるということになれぱ、ヒルメノミコト女王は実在の方となり、一切の疑 問は氷解されることでしょう。」

「ヒミコとヒルメノミコトとをくらべると、語音もまったく似ているでしょう。これは女王の 名の呼び方が、日本人と中国人との間でちがっていたものであるか、それとも女王の尊称が二 通りあったものであるか、判別しかねるのですが、いずれにしても別人ではないでしょう。」

「こればかりではありません。ヒミコ女王治下の日本国も、神武天皇にはじまる日本国も、正 式の国号はともに倭国であって、奈良時代になって初めて、倭国は日本という国号に改められ ています(魏志倭人伝では、女王国を倭国と記し、女王卑弥呼を倭女王と記しています。また、大和朝廷の正式国号が、倭国であったことは、日本・中国・朝鮮の文献が証明しています)。」

「古代日本の歴史は、女王国の段階を経て、はじめて大和朝廷に進んでいるわけです。神武天 皇はどうみてもヒミコ女王の何代目かの子孫ということになりましょう。
日本書紀にのってい る神武天皇の東征の詔というのをみると、神武天皇はヒルメノミコト女王の子孫だと明記し てあるのです。」(以上、刀江書院刊『民族日本史』)
東京大学の日本史学者、坂本太郎は、帝記を造作とする津田左右吉の見解を批判してのべている。
「帝紀は、古来の伝承を筆録したものである。古代の歴代の天皇の都の所在地は、後世の人が、頭のなかで考えて定めたとしては、不自然である。

第五代から見える外戚としての豪族が、尾張連、穂積臣など、天武朝以後、とくに有力な氏もないことは、それらが、後世的な作為によるものではないことを証する。

天皇の姪とか、庶母とかの近親を、天皇の妃と記して平気なのは、近親との婚姻を不倫とする中国の習俗に無関心であることを示す。これも、古伝に忠実であることを証する。 帝紀の所伝が、古伝であることは動かない。」 (「古代の帝紀は後世の造作ではない」『季刊邪馬台国』26号)
このような意見に近い意見は、このほかに東洋史学者の植村清二氏、法制史家の牧健二博士も のぺておられる。さらに、騎馬民族説で知られる江上波夫氏も、『古事記』『日本書紀』の所伝は、そうとうに歴史性に富んだものであろうとする立場をとっておられる。

また、『魏志倭人伝』の卑弥呼についての叙述が、『古事記』『日本書紀』の天照大御神についての叙述ときわめてよく似ていることについては、すでに、白鳥庫吉博士や、和辻哲郎博士も、指摘しておられるところである。

以上のように、「日本神話が、史的事実と何らかの関係がある」とする歴史学者はすくなくない。記紀の神話をまったく否定して歴史をえがこうとするのは、正しい研究の態度とはいいがたい。



また、つぎのような意見もある。

『古事記』『日本書紀』ができたのは、八世紀の初頭である。いっぽう『魏志倭人伝』は、三世紀初頭のわが国のありさまを記している。その間には、500年近いへだたりがある。500年あとの史料をもってしては、いかにしても、500年まえの史実を、さぐりえないのではなかろうか。

この意見にたいして、安本美典教授は、つぎの三つの点から反論する。

第一に、
記紀ができたのは、たしかに、八世紀の初頭である。しかし、そのもととなる帝紀 (皇室系図)、旧辞(古い物語り)などができたのは、さらに昔にさかのぽりうる。

記紀に記されてい るたとえぱ仁徳天皇などが、中国の歴史書にみえる、いわゆる「倭の五王」のひとりで、実在の 人物であることについては、学界で、異論はみられない。そして、この実在のたしかな仁徳天皇 は、五世紀初頭のひとであると考えられる。『魏志倭人伝』に記されている時代と、二百年てい どのへだたりしかない。

さらに仁徳天皇より六代まえの天皇であると記紀のつたえる第十代崇神 天皇についても、その実在をみとめるのが、学界の大勢とみてよいであろう。崇神天皇の時代と、 『魏志倭人伝』の時代とでは、大きめにみても、百数十年のへだたりしかないと考えられる。
第二に、
私と結論こそちがえ、『古事記』『日本書紀』によって、三世紀ごろの、わが国のあり さまを知りうるとされている歴史学者が、相当数、存在するという事実である。

たとえぱ、日本大学の肥後和男教授や東京教育大学の和歌森太郎教授は、邪馬台国の女王卑弥 呼を、記紀にあらわれる倭迩述日百襲姫であるとしておられる。このばあいも、記紀の記載によ って、500年まえの史実をさぐっておられることには、ちがいがない。

また、東京大学の井上光貞氏は、その著『神話から歴史へ』(中央公論杜刊「日本の歴史1」)の なかで、崇神天皇の実在の可能性をとかれたのち、崇神天皇を、270年-290年ごろの人と 考えておられる(私は、崇神天皇を、360年前後の人と考える)。
すなわち、井上氏は、記紀が、その成立の時期より、400年以上まえの事跡を、伝えていると考えておられる のである。
第三に、
外国の事例でみるとき、それまでの伝承を、大規模に編纂する事業がおこなわれたぱ あい、500年はおろか、1000年ていどの過去の史実を記していた例が、かなりみられるという事実 である。

  • 前漢の司馬遷が、中国最初の正史である『史記』を編んだのは、西暦紀元前100年のころであっ た。 『史記』の「殷本記」は、西紀前1100年ごろに滅んだ古代殷王朝について、かなりくわしく記し ている。1000年あとの史料が、1000年まえの史実を語っているのである。
    かつて、殷王統は、星体神話にすぎないといわれていた。しかし、甲骨文字が解読され、殷墟 が発掘された現在、殷王統の存在を、否定する学者はいない。

  • また、ドイツのシュリーマンがギリシア神話を代表する『イリアス』『オデュッセイア』など の記述を信じて発掘をおこない、トロヤ戦争の故地を発見し、古代エーゲ文明を、明るみにだし たことは、あまりにもよく知られている。
    『イリアス』および『オデュッセイア』は、西紀前700年〜800年ごろのホメロスの手にな るとされている。いっぽう、トロヤ戦争によりトロヤが火につつまれて落城したのは、西紀前 1200〜1300年ごろのことである。

    ホメロスの詩のテキストは、紀元前三〜四世紀には、なお固定していなかった。今日まで流布 本として伝えられているテキストは、紀元前215年に生まれたアレクサンドリアの文献学者、 アリスタルコスが、それまでの多くの研究を集成して、校訂し、定めたものである。

    史的な事実があってから、ホメロスまででさえ、およそ、500年の歳月が流れている。そして ホメロスから、テキストが定まるまでには、さらに、500年以上の歳月がすぎている。ここでも 1000年以上あとのテキストが1000年以上まえの史実を語っているのである。

    ホメロスは、盲目であったと伝えられる。また、ホメロスの詩は、竪琴をたずさえた吟遊詩人 たちによって伝えられたともいわれる。史実は、口から口ヘという形でも、後世に伝わりうるも ののようである。

  • いまひとつ、聖書の例をあげておこう。 聖書のうち、旧約聖書編纂の事業は、西紀二世紀の中ごろ、一代の碩学といわれるラビ・アキ バによっておこなわれた。ラビ・アキバは、厖大な材料を収集、整理し、今日の旧約聖書を確定 した。

    聖書はひとつの伝説集にすぎないとされていた19世紀に、旧約聖書の記述を信じて、メソポ タミアのティグリス、ユーフラテスの二つの河の流域で発掘をおこなった人がいた。フラソスの 工ミール・ボッタやレアードである。そして、多くの遺跡や楔形文字のきざまれた粘土板が見い だされた。楔形文字で記された文書の解読や、その後の考古学的あるいは文献学的な研究の結果、 旧約聖書も多くの史実をふくむことがあきらかにされている。

    たとえぱ、旧約聖書は、エジプトに移住したイスラエルの民が、エジプト人によって迫害をう け、モーセにひきいられて、「出エジプト」を敢行したと記している。このイスラエル人が、出 エジプトをおこなった年代は、紀元前、1250年ごろと考えて、間違いないようである。

    旧約聖書のばあいも、史的な事実があってから、テキストが定まるまでのあいだに、長い歳月 が、すぎさっているようである。1000年をこえる人間のいとなみが、神と人間との物語りのなかに、 織りこまれているようである。
以上のべたもののほかにも、神話や伝説がかなりの史実をふくんでいた事例は、きわめて多い。
ツェーラム著『神・墓・学者』(村田数之亮訳、中央公論社刊)などは、そのような事例の氾濫であ るといえる。

世界的にみたばあい、『古事記』『日本書紀』の神話ていどの質と量とをもつテキストが、史的 事実を、まったくふくんでいなかった例は、むしろ、めずらしいといえるようである。

まして、これらの日本神話は、天地の開闢、国生み、天照大御神の活躍、国ゆずり、天孫降臨 と、きわめて歴史的な展開をとるという特徴をもっている。神々は系譜的に時代を追って出現し、 太古の出来事から、いつか、人代の出来事に接続している。

しかも、1000年、2000年まえの史実が日本神話のなかに影を落しているであろうことを、 のべているのではない。たかだか、西紀三世紀ごろの史実が、日本神話に影を落しているであろ うことを、のぺているにすぎないのである。

私たちは、活字などの、現代文化を信奉するのあまり、人間が活字などをもたないばあいにも、 なおかつ時間をこえて知識を伝達しうる能力のあることを、小さくみすぎてはいないであろうか。

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