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卑弥呼の墓・宮殿を捏造するな
誤りと偽りの「邪馬台国=畿内説」

tennouryou

「箸墓古墳=卑弥呼の墓説」にだまされるな!
大きな建物が出土すると、なぜたちまちそれが卑弥呼の宮殿になるのか?

炭素14年代測定法を利用した研究・報道の虚偽を暴き、科学的根拠に基づいた事実から、あるべき方向性を指し示す。


本書 はじめに(長いので最初の方の紹介です)
考古学は、旧石器捏造事件から、なにも学ばなかったのか?

国立歴史民俗博物館研究グループの、炭素14年代測定法による「箸墓=卑弥呼の墓説」の、学界での評価

 「箸墓(はしはか)は卑弥呼(ひみこ)の墓である。」こんな説を、『朝日新聞』 の渡辺延志(のぶゆき)記者が、2009年5月29日(金) の『朝日新聞』朝刊一面の記事で報じた。『朝日新聞』 がとりあげているのならということで、他の新開、NHKテレビのニュース、ラジオも、その日の夕刊以後などでいっせいにとりあげ、大さわぎとなった。
  その内容は、千葉県佐倉市にある国立歴史民俗博物館(以下、歴博と略す) の研究グループが、「炭素14年代測定法」という「科学的な方法」を用いて、奈良県桜井市にある箸墓古墳が、ほぼ邪馬台国の女王卑弥呼が死んだとされる西暦240〜260年ごろに築造されたことが推定できた、と発表した、というものである。
  しかし、この情報は、歴博の研究グループが思いこんだ説を宣伝・PRするためのもので、まったくなんの根拠もなく、かつ、誤ったものであった。
  誤りである理由・根拠などは、拙著『「邪馬台国=畿内説」「箸墓=卑弥呼の墓説」 の虚妄を衝く!』 (宝島社新書、宝島社、2009年刊)や、私の編集している雑誌『季刊邪馬台国』100号〜105号に、ややくわしくのべられている。
  また、この本の 「第3章」 でも、それらとは別の観点から、ややくわしく議論する。
 2010年の3月27日(土)に、大阪大学での、日本情報考古学会で、「炭素14年代法と箸墓古墳の諸問題」というテーマで、シンポジウムが開かれている。
  そこでは、歴博発表の内容が、ほとんど全面的に否定されている。歴博発表は、方法も結論も、誤っていると判断されているのである。
  日本情報考古学会は、統計学者で同志社大学教授の村上征勝(むらかみまさかつ)氏が会長で、理系の人の発表や、コンピュータによる考古学的データ処理などの発表も多く行なわれている。炭素14年代測定法などの検討には、もっともふさわしい学会といえる。
  歴博グループが発表を行なった日本考古学協会は、旧石器時代の考古学から、歴史時代にはいってからのちの考古学までもあつかう一般的な考古学会である。
  専門性において、炭素14年代測定法のような問題を十分検討するためには、かならずしもふさわしい学会とはいえない。かつ、日本考古学協会での歴博の発表は、いわゆる「研究発表」である。事前の審査はない。
発表するだけであれば、日本考古学協会の会員であれば、だれでも発表できるものである。発表時間は、五分ていどの質疑応答をふくめて25分という短いものである。十分に内容を、検討できるようなものではなかった。
  それを、事前にリークしてマスコミ発表したものであった。
  歴博の発表は、「学会で発表しました」という実績づくり、マスコミ発表のための、アリバイづくりであったようなところがある。
  そして、日本情報考古学会でのシンポジウムなどは、専門性の高さゆえであろうか、パブリシティ活動(組織体が、みずからに有利な情報を、マスメディアに提供する活動)をとくに行なっていないためであろうか、マスメディアでは報道されていない。
  日本情報考古学会の事務局では、「炭素14年代法と箸墓古墳の諸問題」のシンポジウムを開催するにあたり、歴博の研究グループの各メンバーに、パネル・ディスカッション(討議すべき問題について、数人の対立意見の代表者が、聴衆のまえで行なう討議)に、パネラー(討議を行なう人)として出席していただくよう熱心に交渉されたときく。しかし、歴博グループのだれ一人として、パネラーとして出席することを、引きうけられなかったときく。
  どうやら、私のように、データにもとづき、歴博発表の批判を表明している人物が、パネラーとして出席することに、抵抗があったようである。
  しかし、歴博の研究は、多額の国費をつかって行なわれた研究である。かつ、マスコミで、あれだけ大々的に事前発表したのであるから、シンポジウムに出席し、反対意見に対しては、客観的根拠にもとづいて、正々堂々と論駁(ろんばく)すべきである。その責任があるはずである。
  マスコミ発表のみに専念するような方法、マスコミがとりあげれば、それで事たれりとするような方法は、批判をうけてもしかたがない。
  それだけでは、科学的、学問的には、なんらの証明にもならないからである。
  日本情報考古学会のシンポジウムでは、名古屋大学年代測定総合センターの中村俊夫氏、数理考古学者の 新井宏氏、橿原考古学研究所の関川尚功(ひさよし)氏、そして、私も、パネラーとして参加した。
  とくに、新井宏氏は、詳細な根拠をあげて、歴博説の誤りを指摘された。
会場からは、まったくなんらの異論的質問などが提出されることはなかった。パネラーヘの賛意は、表明された。
これは、2009年5月31日に、早稲田大学で行なわれた日本考古学協会での、歴博研究グループの発表のさいの情況とは、まったく異なる。        
  その情況は、鷲崎弘朋(わしぎきひろとも)氏が、同日のブログで、つぎのように記しておられる。
  「本日30日、早稲田大学会場にて、第75回日本考古学協会総会の研究発表会が行われ、私(鷲崎氏)も出席しました。国立歴史民俗博物館が29日に朝日新開で発表した『放射性炭素14年代の測定結果によれば、箸墓の築造年代は240〜260年で、卑弥呼の墓』の、学会での正式発表です。
  一言で言うと、『総スカン』でした。(中略)発表内容も、1月25日に千葉県佐倉市の国立歴史民俗博物館で開催された報告会(私も出席)と何ら変らない内容でした。
  今回発表では、考古学協会事務局が時間の関係で打ち切りを宣言しましたが、最後の締めくくりが象徴的です。
  『今日の雰囲気から分るように、これで考古学会のコンセンサスがとれたとはとても言えない、むしろ逆である。来られている新聞社にお願いしたい。今回も事前にリークされ朝日新開の一面で報道された。
  我々考古学会は旧石器捏造事件の経験を持つ。新開・報道各社は今日の状況を踏まえて報道してもらいたい』、これが全てを物語っている。」

くりかえされる大本営発表
  かつて、旧石器捏造事件というのがあった。
教科書にまでのった旧石器遺跡が、捏造であったというのだ。
  この旧石器捏造事件から学んで、軌道修正をしたマスコミもあった。
しかし、考古学のリーダーたち(というよりも、マスコミ便乗主義の考古学者たち)は、ほとんど、なにも学ぶことは、なかったようである。
  同じような事件が、なんどもくりかえされている。ほとんど、狼少年というべきである。
  旧石器捏造事件がおきたとき、なぜ、このような事件がおきたかについて、つぎのような反省の弁がのべられた。
  すなわち、『立花隆、「旧石器ねつ造」事件を追う』 (朝日新聞社、2001年刊)のなかで、東京大学の考古 学者、安斎正人(あんざいまさひと)氏は、つぎのようにのべている。
「(旧石器を捏造した)藤村さんだけじゃなくて彼ら全体がジャーナリズムのほうに向いてましたよ。(藤村氏をサポートした)鎌田さん自身言っているとおり、取り上げてくれないと調査費が出ない。どれだけ広報活動するかっていうことが大事。ですから発掘したとき、学術誌に載せるよりも、メディアにいち早く出す。しかもそのメディアが、一面で書いてくれるように。」
  同じ本のなかで、国士舘大学の大沼克彦(おおぬまかつひこ)氏は、つぎのようにのべる。
  「今日まで、旧石器研究者が相互批判を通した歴史研究という学問追求の態度を捨て、自説を溺愛し、自説を世間に説得させるためには手段を選ばずという態度に陥ってきた側面がある。この点に関連して、私はマスコミのあり方にも異議を唱えたい。今日のマスコミ報道には、研究者の意図的な報告を十分な吟味もせずに無批判的にセンセーショナルに取り上げる傾向がある。視聴率主義に起因するのだろうが、きわめて危険な傾向である。」
  そしていま、マスコミ便乗派の「邪馬台国=畿内説」の人々は、藤村新一氏や鎌田俊昭氏と、基本的に、同じような方法を用いている。
  学問的、科学的証明や検証よりも、まず、広報活動のほうが大事であると考える。
  ジャーナリズムのほうに顔をむけ、学術誌に載せるよりも、メディアにいち早く出す。そして、そのメディアが、一面で書いてくれるように工夫(くふう)する。
  畿内説を溺愛し、その説を世間に説得させるためには、手段を選ぶ必要はないと考える。直接結びつかなくても、邪馬台国問題にすこしでもかすったようにみえたら、邪馬台国と結びつけて、マスコミ宣伝の挙にでる。そして、断定的な意見を発表する。「かすったら畿内説」主義である。
  「邪馬台国=畿内説」という自説を溺愛するためなのか、それとも、国家財政逼迫(ひっばく)のおり、助成金や調査費を獲得するためなのか。あるいは、その両方なのか。正当な学問的、科学的手つづきから逸脱した方法にもっぱらうったえている。
  ほとんど極端に、この方法にたよっている。他の学問、科学では例をみない。
  この方法だけをみても、考古学が、信用すべからぎる方向に動いている危険性を読みとるべきである。
  古代の真実をあきらかにするという大きな目標は、どこかにいってしまっている。古代の真実をあきらかにするためには、学問的、科学的に正しい検討の手つづきによらなければならない。そのことが、どこかへ行ってしまっている。
  事件にたとえるならば、取り調べ官が、功名心にかられて、正規の検証・手つづきを経ていないような状況で、犯人がきまったと、やたらに報道にもちこむようなものである。冤罪(えんざい)を生みやすい構造になっている。
  確実でないことを、あたかも確実な結果が得られたかのように、マスコミで断言し、喧伝する。第二次世界大戦中、戦いに負けても負けても、日本の大本営は、勝った、勝ったと、発表しつづけた。その大本営発表が、いまくりかえされている。マスコミがとりあげれば、それで「証明」が成功したと勘ちがいをする。
その結果、証明が、ますます粗雑になって行く。

反社会的な行為を、くりかえすな
 『東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)』偽書事件というのもあった(拙著『虚妄(まぼろし)の東北王朝』[毎日新聞社 1994年刊]、斉藤光政著『偽書「東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)」事件』[新人物文庫、新人物往来社、2009年刊]など参照)。
  「東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)事件」のばあい、古文書偽作者の和田喜八郎(1927〜1999)は、みずからが創作した古文書にもとづき、ディズニー・ランドをつくるような感覚で、遺跡・遺物をつぎつぎに捏造していった。そして、それを、マスコミ宣伝をしていった。NHKや、朝日新聞の青森版なども、それにのせられ、 『東日流外三郡誌』を支援する形になる報道を行なった。有力な学者も、和田喜八郎を支持した。
  たとえば、平安時代中期の前九年の役(1056〜1062年)で、源 頼義(みなもとのよりよし)に敗れて討ち死にした蝦夷(えみし)の首長、安倍頼時(あべのよりとき)の遺骨なるものを、和田喜八郎がもちだし、それによって、「安倍氏一族の墓苑」なるものが、一千万円以上の資金を投じてつくられた。地域おこし、観光効果をねらったものである。しかし、「東日流外三郡誌事件」が問題になって、鑑定をしたところ、安倍頼時の遺骨は、クジラの骨であった。
  いま、マスコミ便乗派の考古学のリーダーたちは、不確実な根拠、あるいは、容易に反証のあげられるような根拠にもとづき、卑弥呼の墓、卑弥呼の宮殿などを、どんどん創りあげていっている。それを、マスコミ宣伝している。
  なんという安易さであろう。ありあわせのものなどで、適当にまにあわせて、どんどん、古代史のストーリーや観光名所を作って行くことなど、和田喜八郎によく似てきている。
  この人たちは、なにも感じなくなっているのか。
  学問的な自己規制や自浄作用が、働かなくなっている。宣伝が、証明にかわりうると思いこんでいる。軽薄なマスコミは、研究者の意図的な発表を、十分な吟味もせず、無批判的に、センセーショナルに取りあげている。
  軽薄なマスコミにとっては、おもしろくない真実よりも、センセーショナルで、おもしろい虚構のほうが、とりあげやすいのである。
  マスコミのご要望にあわせていれば、考古学がどこに行くか、考古学のリーダーたちにはわからないのだろうか。
  考古学のリーダーたちは、みずからを、藤村新一氏や、和田喜八郎なみに堕(お)ちて行こうとしている。みずから、学問の基礎、科学の基盤を破壊していっている。
  異常な事態である。この異常な事態に気づき、直視すべきである。
  すでに、歴史研究家の河村哲夫氏は、拙著『「邪馬台国=畿内説」「箸墓=卑弥呼の墓説」の虚妄を衝く!』 (宝島社新書、宝島社、2009年刊) の書評においてのべている。
  「恐ろしいことである。大変な事件である。緊急出版ともいえるこの本を読みながら、慄然とする思いを禁じ得なかった。かの『旧石器捏造事件』は、日本のみならず世界のなかで日本考古学界の信用を失墜させた。その悪夢がふたたび到来した。
  国立歴史民俗博物館の研究グループは、一体いかなる理由でこのような暴走行為を行なっているのか。
  マスコミを巻き込み、世間を煽り立てながら、科学的手法に名を借りた根拠のない結論を、この時期に何ゆえセンセーショナルに発表しなければならなかったのか。
  その動機の解明が急がれるべきである。放置してはならない。野放しにしてはならない。彼らはおのれの過ちを認めず、みずからを絶対と信じて反社会的な行為を繰り返す『確信犯』である。
  歴博グループの犯罪的な暴走行為を、誰かが止めなければならない。」(『季刊邪馬台国』103号)
  残念ながら考古学のリーダーたちの暴走は、さらにエスカレートしてきている。とっている方法が、正しくないことが、わからなくなっている。

奈良県からは、邪馬台国と結びつく遺物は出土していない
  意図的、作為的な大報道などに、だまされてはならない。
  奈良県に、邪馬台国と直接結びつくものは、じつは、砂漠といってもよいほど、なにもない。そのことは、何人もの、事態を直視することのできる畿内と関係のある考古学者たちが率直にのべているとおりである。
  マスコミ便乗派の人々の派手な働きばかりが目につくが、このような動きに、眉をひそめている考古学者も、けっしてすくなくはないのである。
  奈良県桜井市の教育委員会の文化財課長をされ纏向遺跡の発掘調査をされた考古学者、清水真一氏は、のべている。 「大和には"巨大ムラ"がない   私は二十年間、大和の中央部・桜井市で、『邪馬台国は何処(いずこ)』とのテーマを持って、発掘調査に従事してきた。その結果として、邪馬台国が成立して、女王卑弥呼を擁立するまでの弥生時代中・後期に、大和には他地域を圧倒するような『ムラ』や『墓』が見られないことに気付いた。
  代表的なムラである唐古・鍵遺跡も、畿内の同時期の池上曽根遺跡や田能(たの)遺跡などと比較して、飛び抜けて大きいムラとは思えなかった。逆に、墓に関しては、西日本各地と比べて遅れた地域との思いも抱いたことだった。
  であれば、その次の古墳時代に入って、纏向の地に百メートル以上もの巨大古墳が、なぜ突如として築造されるのか。これは、大和の地に別の地域の人々が入って釆たと考えざるを得ない状況であるとみた。
では、誰が何処からきたのか? 考古学の資料からは、特定の地域が限定できない。となれば、卑弥呼の邪馬台国は、北九州のどこかではないかと思われる。」(『佐賀新開』2005年9月26日[月]。「新・吉野ケ里シンポジウム=邪馬台国への道・九州説に理あり」での発表要旨) 800ページをこえる厖大な報告書『纏向』の土器の部分を執筆された橿原考古学研究所の考古学者、関川尚功(せきがわひさよし)氏ものべる。
  「30年以上、奈良の発掘を見てきましたが、三世紀の邪馬台国に結びつくものはいまだに出てこないんです。私は、箸墓古墳は四世紀のもので、卑弥呼とは関係ないと思っています。奈良には畿内説の研究者が多いのですが、歴博の結論に賛成している人はほとんどいないと思います」(『週刊文春』2009年10月22日[木]号)
  纏向遺跡を直接発掘された方々でも、大報道に異論をもつ人々がいることに、目や耳をふさいではならない。
  マスコミは、これらの専門家の発言を無視し、軽率な判断をし、興味だけにかられて、大報道しないでほしい。世を誤らせるものである。
  また、同志社大学名誉教授の考古学者、森浩一氏はのべている。
  「最近(2000年11月)、奈良県桜井市の纏向(まきむく)(巻向とも書く)遺跡で宮殿とみられる建物の跡が発掘され、女王卑弥呼の宮殿と強弁され、邪馬台国はヤマト説で決まったかのような印象を人々にあたえた。
ぼくは太平洋戦争中の大本営の発表と人々が扇動されていったあの苦(にが)い歴史をおもいだした。今回の騒動に関与した考古学者たちは、発掘された事実から解釈をするうえで誤りをおかしていないか。」
  「古代の史料で纏向に支配者の宮殿があったと書いているのは日本側の歴史書であり、中国人の書いた魏志倭人伝ではない。」
  「今回の『卑弥呼の宮殿がわかった』という報道がいかに唐突な騒ぎであるかが推察されるだろう。」
  「建物遺構が纏向の地で発掘されたとなると、第一に学者の頭に浮かぶはずのことは記紀ともに記している崇神・垂仁・景行の三天皇の宮に関係しているのではないかということであろう。もしそのことが頭に浮かばなかったのであれば日本の歴史書を無視または軽視しているというほかない。」
  「纏向遺跡の宮殿遺構として三世紀後半から四世紀前半の幅のなかといったのは、考古学の年代の出し方では普通のことである。それを三世紀前半だけに絞って強弁するのも学問の進め方としては異常である。」
  「最近のニュースから書いたのは、ヤマト説が有利になったとはぼくには毛頭おもえないからである。」(『倭人伝を読みなおす』 [ちくま新書、筑摩書房、2010年刊])
さらに、関西外国語大学教授の考古学者、佐古和技氏はのべる。

  「『魏志』倭人伝では、倭人の武器に矛(ほこ)や銑鏃(てつぞく)が挙げられている。この時期、畿内には矛に相当する武器はないし、畿内の鉄器の出土総数は、北部九州や山陰の二遺跡の出土数にも及ばないほど貧弱である。
  さらに、諸国を監察する『大卒』 が伊都国に常駐すること、女王国の東に海を渡ると倭種の国があることなどをみれば、『魏志』倭人伝にいう『倭人』や『倭国』、『女王国』は北部九州社会のことと考えるのが妥当であろう。東の海の向こうにいる倭種の話ではないから(『倭人伝』)。そう考えれば、『倭国乱』も『邪馬台国』も、北部九州での事柄だということになる。
  邪馬台国の所在地は、考古学的な事実関係と『魏志』倭人伝との整合性のなかで考えるべきである。」(『佐賀新聞』2005年9月26日[月])・・・・・・・続く

 


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