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講談社現代新書

倭の五王の謎


倭の五王の謎

大和朝廷が築かれた五世紀を舞台に、中国へ朝貢し、その爵号を受けた讃・珍・済・興・武の「倭の五王」をめぐる謎。五人の王とは、いったいだれであたのか。

本書は、中国文献に見える年紀記事を縦糸に、古代天皇の平均在位年数=約十年を横糸に、独自の数理文献学・計量言語学を駆使して五王の系譜を明らかにした。

「倭王讃=応神天皇」「倭王武=雄略天皇」を検証し、神功皇后の新羅進出を西暦400年ごろの史実とする斬新な年代論は、空白の東アジアをまったく新しい光で照らしだす。    


本書「はじめに」より

  第一章

五世紀に、五人の倭(日本)の王がいた。「倭の五王」といわれる。五王の名は、讃、珍、 済、興、武である。その名は、中国の歴史書『宋書』『梁書』などに記されている。

「倭の五王」の問題は、「邪馬台国」問題につぐ、日本古代史上の大きな謎である。

「倭の五王」の問題は、大きく、次の二つに分けられる。
  • 倭の五王は、天皇など、大和朝廷の関係者のなかのだれかをさすと見るべきか否か。九 州に大和朝廷とは別の王朝が存在し、倭の五王は、その王朝の王であるとする説がある。
  • 倭の五王を、大和朝廷の関係者と見るとき、讃、珍、済、興、武は、それぞれ、どの天 皇などにあたると見るべきか。
「倭の五王」問題は長い研究史をもつ。今から、三十年ほど前、鬼才、前田直典氏は、「倭の 五王」の研究史上はじめて、「倭王讃=応神天皇」説をとなえた。

前田直典氏は、三十台前半 で、夭折した。前田氏は、井上光貞氏や直木孝次郎氏など、現代の代表的歴史家と、ほぼ同世 代の人であった。生きながらえていたならば、現代を代表する東洋史家となったであろうにと 惜しまれる。

前田氏は、日本古代史の、五世紀の暗闇を見た。そして、前田氏の英知は、その暗闇に、光 を投げかけ、一瞬確かな形象を浮きあがらせた。

しかし、その後、前田氏の説を受けつぎ、発 展させる人もいないまま、日本の五世紀は、ふたたび、霧におおわれはじめた。五世紀をめぐ って行われた多くの論争は、霧と闇とを、かえって濃くしたかのようにさえ思える。

私は、前田直典氏の「倭王讃=応神天皇」説を、受けつぐものである。

昭和五十三年に、五世紀の闇を照らす、閃光がひらめいた。稲荷山古墳出土の鉄刀銘文の発 見である。

この発見は、雄略天皇の存在についての確かな証拠を提供している。しかし、稲荷山古墳出 土の鉄刀銘文については、言語学的に、確実な根拠のある議論が、意外に少なかった。そのた め、獲加多支歯大王を雄略天皇とする議論さえ、確証を欠くとする見解が見られる。

私は、この本のなかで、数理文献学や、計量言語学の方法により、この鉄刀銘文は、大和朝 廷の文化のなかで記されたものであること、獲加多支歯大王は、雄略天皇であること、などに ついての、ほぼ確実な根拠を提供しようと思う。真実は、意外に、平凡なところにある。話と して面白い説が、かならずしも、多くの妥当性をもつわけではない。

倭王讃を応神天皇とし、倭王武を雄略天皇とするとき、倭の五王についての闇は消えてい く。五世紀の舞台は、照明のなかにあり、主人公である五王たちの動きは、観客の眼の前にあ る。

そして、倭王讃を応神天皇とするとき、その母の神功皇后の名によって伝えられる日本の新 羅進出は、西暦四〇〇年前後の史実にもとづく可能性があらわれてくる。四〇〇年前後の日本 の新羅進出については、朝鮮の歴史書『三国史記』『三国遺事』も明記し、高句麗の広開土王 の碑文も、また、記している。

『古事記』『日本書紀』『風土記』など、日本の歴史書の記載と、 中国、朝鮮の歴史書の記載とが、個々の事件においても、全体的な状況においても、年代論的 に一致を見る。

すでに、多くの材料は、出そろっている。あとは、それを統合し、有機的に関係づける作業 のみが必要なのである。前田直典氏が、かつてかいま見たものを、私たちは、今、ありあり と、正面から見る機会にめぐまれている。

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