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大和書房
吉野ヶ里遺跡と邪馬台国

吉野ヶ里遺跡と邪馬台国吉野ヶ里遺跡と邪馬台国
遺跡分布から解く女王国の謎

日本古代史界最大の謎に挑む

邪馬台国は筑後川流域にあった


 本書「はじめに」より

  1

佐賀県の神埼町と三田川町とにまたがる吉野ヶ里遺跡が発掘された。

吉野ヶ里遺跡の発掘をめぐっての、やや憤慨にたえない事実から話をはじめよう。

それは、これまで、「女王国は、九州北岸の博多湾頭にのぞんで存在していた」と断定的に主張し て、私たちの筑後川北岸中心説を、じつに熱心に批難攻撃してきた人が、まさに、筑後川北岸であ る吉野ヶ里から遺跡が発掘されるや、たちまち、「吉野ヶ里遺跡は邪馬台国だ」などという文章を、 大週刊誌や月刊誌に、平然として発表しているという事実である。

その人は、古田武彦氏である。

古田武彦氏は、これまで、奥野正男氏や私がのべてきた筑後川北岸説を、攻撃しつづけてきた。 古田氏の文章を、つぎにみてみよう。

「成立しえなかったのは、むろん近畿説だけではない。九州説の中でも、島原説(宮崎康平氏)、 筑後山門説(星野恒・橋本進吉氏等)、筑後川北岸中心説(安本美典・奥野健男氏等)、宇佐説(富来 隆氏等)、京都郡・田川郡説(重松明久・坂田隆氏等)等のいずれをとっても、これらの物の最多集 中中心領域とはなっていないのである。」(昭和59年刊『古代は輝いていたU』251ぺージ)

「このような鉄器出土の遺跡数から見ても、奥野氏(また安本氏)のような、内陸部(筑後川流域 等)中枢説が、客観的には成立しえないことが判明しよう。」(『古代は輝いていたT』258ぺージ)

筑後川流域に、鉄器などの物がすくないなどの古田氏の発言は、あとでのべるよ うに、まったく事実に反する。

このように、不確かな事実をもとに、筑後川北岸中心説、筑後川流域中枢説を、熱心に批判攻撃 し、博多湾岸中心説を主張してやまなかった人が、筑後川北岸、筑後川流域である吉野ヶ里から遺 跡が発掘されると、手のひらをかえしたように、つぎのように記す。

「『ああ、やっぱりあったか。そうでしょう、そうでなきゃおかしい』 そういう『ついに出たか』という驚きだったのです。」

「吉野ヶ里もその首都圏の一端に当っていると言っていいでしょう。」

「こうした点からも、この一帯が倭国の中心部であるとの感を深くしました。」

「(吉野ケ里遺跡の墳丘墓の)中心部には最も尊貴な人物が眠っている可能性があります。」

「中心に眠っている人物が倭王であっても全く不思議ではない。

それが卑弥呼であるとは限りません。次代の壱与かもしれない。あるいは、副王クラスかもし れません。『倭人伝』によると、何人も中国から銀印をもらっています。これは、金印にくらべる と数多くもらっているらしい。副王クラスなら、この銀印が出てくるかもしんません。

とにかく、このクラスの人物の墓である可能性は相当高いといえるでしょう。」(『週刊文春』4 月13日号、古田武彦「吉野ヶ里遺跡は邪馬台国だ」)

これまでの古田氏の「博多湾岸中心説」を知っている人たちにとっては、唖然とするような発言 ではないであろうか。

なんという無節操。なんという無責任であろう。

  2
古田氏は、さきの文章では、筑後川北岸の吉野ヶ里遺跡の墳丘墓の中心に眠っている人物が卑弥 呼である可能性さえのべる(私は、多数説どおり、墳丘墓の時代は、西暦紀元前後であり、卑弥呼の時 代は、西暦三世紀と考える。時代が異なるので、卑弥呼や壱与などが、吉野ヶ里遺跡の墳丘墓の中心に 眠っている可能性は、まずないと考える)。

古田氏がいうように、卑弥呼や壱与が眠っている可能性があり、「この一帯が倭国の中心部である」 ならば、私たちがこれまで述べてきた筑後川北岸中心説や、内陸部(筑後川流域等)中枢説が、まさ に正しかったことになる。

またもし、古田氏のいう「邪馬壱国」が、博多湾岸から筑後川流域、さらには、佐賀県までもが 中心部であるというなら、それは単に、「邪馬壱国は、北九州のほとんど全域である」ということを 主張しているにすぎなくなる。

なんのために、あれほど熱心に、他の北九州説を批判し、「邪馬壱国=博多湾岸中心説」を主張し てきたのか。

古田氏の、これまでの、私たちにむけた批判は、いったいなんであったのか。古田氏みずから が行なった批判が誤りであったことを認めたうえで発言しているのか。

古田氏が、これまで、くりかえし明記してきた、つぎのような文章は、どうなるのであろう。

「わたしたちは、3世紀卑弥呼の壮麗な宮殿趾が今も、福岡市域(周辺をふくむ)の一角に地底深 く眠りつつけていることを疑うことができないのである。」(『「邪馬台国」はなかった』277ページ)

「卑弥呼の都は、志賀島の地、博多湾頭にあった。」(『古代は輝いていたT』181ページ)

「邪馬壹国"博多湾岸−倭国の中心」(『失われた九州王朝』42ぺージ)

そして、古田氏が、卑弥呼の都を、博多湾頭にもって行くために、他説を批判しながら、じつに 熱心に主張してきた古田氏流の旅程論はどうなるのか。

  3
私は、かって、『歴史と人物』(中央公論社刊、昭和55年7月号)のために、古田武彦氏と、7 時間にわたって、討論をしたことがあった。

そのさい、私は、古田武彦氏の、「邪馬台国=博多湾岸説」に対して、つぎのよう疑問を呈して いる。

「人口密度のもっとも高い地域と重なっている甘木・朝倉あたりに中心をおき、筑後川下流にひろ がる方向に邪馬台国を考える方が素直であると私は思います。博多湾岸では、元禄14年の(人口)統計でも、7万戸をおさめられません。」

このような私の考えに、古田氏は、批判を加えて、つぎのようにのべる。

「最高度に重要なものが、前漢鏡・後漢鏡いずれにしても、南ではなく、北が中心のわけです(古 田氏は、ここで、私の、「甘木・朝倉のあたりに中心をおき、筑後川下流にひろがる方向」を、「南」 と表現し、「糸島・博多湾岸を中心とする地域」を、「北」と表現している)。」

「日本列島全弥生期、抜群の質と量、それは糸島、博多湾岸を中心とする筑前中域に集中してい る。決して朝倉・甘木をふくむ筑後川流域ではない。すなわちわたしの方法論が是、(安本)氏の 方法論が非、それが検証されたのである。」(傍線、安本。「けっして、・・・・・筑後川流域ではない」と 強い調子で否定し、「わたしの方法が是、氏の方法が非」「検証されたのである」と、強く断言してい ることに注意)

「"弥生後期の鉄器だけは筑後川流域の方が多い"かのような(安本)氏の言辞これも事実に反す る。」(ここでも、「筑後川流域」は、明確に否定されている)

前漢鏡は別として、後漢鏡が、九州の南よりも、北が中心となっているという古田氏の「言辞」、 あるいは、筑後川流域に、弥生後期の鉄器がすくなくないなどの古田氏の「断定」などは、あとで 分布図を示すように、まったく「事実に反する」。

  4
古田氏はいう。「私は約20年前、こうした諸説の中でも有力だった『近畿説』に、『「邪馬台国」はなかった』と いう本で反論を試みたのです。」

「そういうことを私は20年前に主張したのでした。」(以上、『週刊文春』4月13日号)

あたかも、20年来主張しつづけてきた自説の正当性が、やっと裏づけられたかのように、大週刊 誌に記す。『週刊文春』だけを読む読者には、そこに含まれる詐術はわからない。

私は、古田氏が、他を批判するために用いたつぎのことばを、古田氏に、そのまま呈したい。

「自分がすでに提出していた学説の手前、自己に不利な証拠を前にして見苦しい弁明を行う。そ れは男の、いや人間のとるべき態度ではない。わたしはそれをもっとも嫌悪する」(『関東に大王あ り』19ぺージ)

古田氏は、週刊誌に、作為的に感動的な名文(?)を記すよりも、安本や奥野氏に対して、これま で述べてきた批判は、まちがっていました、と、男らしく事実を直視して、声もなく恥じいらねば ならないところではなかろうか。

  5
マスコミ界の人たちは多忙であり、邪馬台国問題だけを研究したり、とりあつかっているわけで はない。なにか事がおこれば、とにかく有名な人の意見をきくことになる。

かくて、厚かましい人は、マスコミ界で、つねにはなばなしく花火をあげることになる。自説の 発表だけなら、漫才か落語なみのものとして聞きながすことができるが、ほとんどつねに、他説の 批判攻撃をふくむのであるから、ピート・たけしの、毒舌よりもたちがわるい。

今回と同様なことは、これまでも、くりかえされてきた。

江口純氏は、「幻想の『古田古代史』」という文のなかでのべている。

「ある本では、『三雲遺跡』が、『奴国』とされていたものが、別の本では、『伊都国』に変り、さ らに、また別の本では、『奴国』にもどる。そして、そのつど、他者を、鋭い、毒をもった筆致で 批判し、自説を断定する。『古田説』というのは、いったい何なのだろうか。」(『季刊邪馬台国』30号、1987年)

古田氏は、今回も、「『近畿説』にトドメを刺す」などと記しているが、吉野ヶ里遺跡の発掘が、近 畿説のトドメを刺すものであるならば、それと同じていどに、古田氏の「邪馬壱国=博多湾岸−倭 国の中心」説も、トドメを刺されているはずである。

私たちは、百千の弁説にまどわされることなく、古田説の本質を、冷静に観察し、古田氏が、き のうも、きょうも、そして、おそらくはまた明日も、自分をも、また他人をも、きわめて誤りにみ ちびきやすい議論の方法によっていることを知るべきである。

  6
この本は、「古代学ミニエンサイクロペディア」のシリーズの一冊として、「遺跡分布から解く邪馬 台国の謎」と題して、刊行される予定であった。

が、この本の校正刷りがでた段階で、吉野ヶ里遺跡のことが、新聞・テレビなどで、大きく報道 されるようになった。

吉野ヶ里遺跡のある場所は、私が、この本のなかで、もともと、遺跡分布から考えて、邪馬台女 王国の領域としていた地域のなかに、まさにはいっている。

吉野ヶ里遺跡は、これまでに発掘されたもののうちの、最大級の弥生時代環濠集落(まわりを大き なほりで囲まれた集落)である。

これまでに、二千基をこすカメ棺や、三百体以上の人骨が発掘されている。カメ棺は、未発掘の ものを含めると、二万個はあるかといわれている。

そこで、この本では、急遽、「吉野ヶ里遺跡と邪馬台女王国」の章を書きおろし、序章として加え た。

また、この本の題を「吉野ヶ里遺跡と邪馬台国」とし、それにあうよう、全体的に手をいれた。

序章では、吉野ヶ里遺跡の地を、女王国の版図内の21国のなかの一国、「華奴蘇奴国」にあた るであろうとする、『読売新聞』などに発表した私の「新説」の根拠も、ややくわしくのべた。

  7
『魏志倭人伝』には、当時の倭の諸国の戸数が記されている。また、倭の諸国に存在した多くの文 物について記している。

倭人は、兵器に、矛を使っていたという。鉄の鏃も使っていたという。うらないのためには、骨を焼いて用いたという。絹も存在した。勾玉も、魏の朝廷に貢献している。

また、魏からは、銅鏡や刀などが、下賜されている。

倭人は、当然、この国土上に、さまざまな根跡を残しているはずである。そこから、邪馬台国の 姿や、存在した場所をさぐることはできないか。

個々の遺跡・遺物の探究も、もちろん、大切なことであるが、分布図を描いてみることによって、 全体の様子を把握することができる。

さまざまな論文、著書などに、『魏志倭人伝』に記されている個々の事物の地図上での分布図や、 出土地の一覧表などがのせられている。この本では、それらの研究を整理し、集成・総合し、邪馬 台国の姿をうかびあがらせようとした。

西暦3世紀の、邪馬台国時代の遺跡・遺物といえるものはなにか。三角縁神獣鏡といわれるもの なのか、後漢型式鏡といわれるものなのか。銅の矛・戎・剣なのか、鉄の矛・戎・剣なのか。墓は、 甕棺墓を中心とする時代なのか、箱式石棺墓を中心とする時代なのか。方形周溝墓は?銅鐸は?

ほぼ確実に、邪馬台国時代の遺跡・遺物にしぼったばあい、その分布は、どうなっているのか。

また、『魏志倭人伝』の「戸数記事」も、「里程記事」におとらぬほどの、見かたによっては、それ 以上の、重要な情報をもたらしていると考えられる。当時の人口の分布は、どうなっていたのか。 全体像のなかで、吉野ヶ里遺跡は、どのように位置づけられるのか。

この本は、テーマを、「邪馬台国はどこか」にしぼり、それを、遺跡・遺物や、人口の分布などか らさぐってみた。

将来、遺跡・遺物の量がふえたならば、邪馬台国の位置は、さらに、はっきりとしてくるであろう。 この本は、また、遺跡・遺物や人口から、邪馬台国の位置をさぐる「方法」をたずねた本でもあ る。

1989年4月     安本美典

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