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邪馬台国人口論 柏書房

邪馬台国人口論
この本は、邪馬台国研究史上はじめての、人口論にもとづく邪馬台国論である。

これまで、人口論にもとづく邪馬台国の本がでなかったのは、「里数」や「日数」にくらべ、「人口」は、はるかに多くの事前の準備作業がなければ、考察できないからである。

しかし、準備作業をととのえるならば、その結果は実り多い。邪馬台国の位置が、かなりな確からしさで、浮かび上がってくる。      




プロローグ「日本列島人口小史」

■ 旧石器時代の人口は3000人ていど

宮城県黒川郡大和町中峰C遺跡のZ層から発見された石器群は、熱ルミネッセンス法によって、 約37万年前後むかしのものと測定されている。

また、同じく中峰C遺跡のY層から発見された石器群は、フィッション・トラック法によって、 約21万年ほどむかしのものと測定されている。

そして、約20万年まえごろまでは、リス氷期であって、日本列島は大陸とつながっていた。

最初の日本人は、あきらかに、動物群を追って、大陸から歩いて日本にやってきたのである。

約3万年まえに、ナイフ形石器文化がはじまる。

国立民族学博物館助教授の文化人類学者、小山修三氏の推定によれば、ナイフ形石器文化を支 えた人々の数は、約2万5000年まえごろに最大に達し、そのころで、日本列島の人口は、全 体で約3000人ていどであったであろうという。

そして、この旧石器時代の人口は、日本列島に、ほぼ均一に分布していた(あとの縄文時代の 人口は、東日本にかたよる)。


■ 縄文前期、東部九州の人々は火山灰で死に絶える
約2万2000〜2万1000千年まえごろに、鹿児島県の鹿児島湾の奥部、現在の桜島から国 分市にかけての地域を火口原とする火山の大噴出があった。 その火山灰は、遠く東北地方南部から朝鮮半島にまでおよぶ。

九州の南半分から四国の一部にかけては、50センチ以上の火山灰が降りつもった。

中国地方から四国の大部分、近畿地方にかけては、10〜50センチ、平均およそ20センチ の火山灰がつもった。

関東地方から石川県、富山県のあたりまで、およそ10センチの灰が降りそそいだ。 死の灰であった。

このときの灰の層が、発掘を行うさい、旧石器時代の編年のための、信頼度の高い時間の指示 層となっている。

およそ1万年前ごろから縄文時代がはじまる。 縄文時代のはじめごろにも、九州で数回にわたる火山の爆発があった。

東部九州を中心とする地域では、人々は全員死に絶えたとみられる。

甲本眞之(熊本大学助教授)・山崎純男(福岡市教育委員会)両氏共著の『弥生時代の知識』 (東京美術刊)では、のべられている。

鹿児島県屋久島にある一湊松山(いっそうまつやま)遺跡の発掘は、鍵を与えてくれました。

ここでは縄文時代の初めから終わり頃までの、各時期にわたる生活址の一部が層序的に積み重なっていましたが、そこでは、縄文前期の層の上に、固い火山灰層が堆積しており、この火山灰層の上部に は、縄文時代後期の土器が出現していました。

つまり、縄文中期にあたる時期に、火山灰が降りそそいだことが知られるのです。

それは口永良部島(くちのえらぶじま)の火山の爆発によるものと推定されますが、これによる火山灰は口永良部島だけでなく屋久島の北岸の切通し(山を切り開いてつけた道)でしばしばみかけられます。

九州と南西諸島との交渉が中断されたのはこの火山灰の影響でしょう。さらに一歩進めて推測すれば、この火山灰の影響は広く九州各地に及んだことが考えられないでしょうか。

縄文時代の早い頃、同じく鹿児島県の鬼海島(硫黄島)が爆発を起こした折には、遠く関東地方までその余波が及んでいますが、今日アカホヤとしてその名残を各地の地層断面でみることができます。

これなどは火山灰が堆積した後、風雨にさらされてわずかに残ったものですから、その残存する火山灰の厚さが、所によって1メートルにも達することは、その重大さを思いしらされます。

このアカホヤの噴出により、東部九州を中心とする地域では、人々は全員死に絶えたことが主張されています。このアカホヤほどではないにしても、口永良部島の火山噴出物は、縄文中期の九州の人々にとってたえがたい苦難を与えたでしょう。

昭和54年6月から11月までの半年間にわたって噴火活動を続けた阿蘇山は、結局917万トンもの灰を降りそそぎました。その灰は今日では風雨に流されて検出することはできませんが、阿蘇の降らした火山灰ヨナによって家畜はすべて死滅し、死の川を出現させました。



■ 東日本に偏在した縄文時代の人ロ
小山修三氏の推定によれば、縄文早期の人口は、2万1000人ていどであったろうという。 そして、関東には、九州の約5倍の人々が住んでいた。 気候は、しだいに温暖化にむかう。

約6000年まえごろの縄文前期に、温暖化のピークに達する。

このころの人口は、約10万6000人ていどと推定されている。そして、関東には九州の 7倍以上の人口が住んでいた。

ピークをすぎて、気候はしだいに寒冷化にむかう。しかし、人口はふえていく。

約4000年まえごろの縄文中期に、縄文時代の人口はピークとなり、約26万1000人と 推定されている。

そして、関東には、九州の18倍の人々が住んでいた。縄文時代の人口分布の特徴は、いちじるしく東日本にかたよっていたことである。

縄文時代中期のころ、近畿地方以西の西日本の総人口は、全日本の総人口のわずか3.6%て いどであったとみられる。総人口の25分の1以下しか、西日本には住んでいなかったのである。

東日本への、人口のいちじるしい偏在は、なぜおこったか。その理由としては、
  1. 食糧資源の偏在のため(国立民族学博物館の佐々木高明教授の説)
  2. 火山の影響による(北海道大学の吉崎昌一教授の説)
などが考えられる。

あまりにも極端な偏在は、食糧事情だけでは説明がむずかしいようにも思える。 やはり、あとあとまで、火山の影響があったのではなかろうか。

奈良時代に編纂された『日本書紀』でさえ、南九州を、「膂宍の空国(そししのむなくに:荒れてやせた不毛の地)」と表現している。

気候温暖なはずの南九州の人口が、歴史時代にはいってからも多くはなかった。 火山のために、土地がやせていたとみられる。


■ 大陸渡来の農耕文化がもたらしたもの
気候は寒冷化していき、東日本の植生が変化した。

また、小山修三氏らによれば、縄文時代の後半には、大陸から新しい文化をもった人々が渡っ て来、縄文人には免疫のない新しい病気をもたらしたであろうという。

気候と食糧事情の悪化、疫病などのために、東日本の人口の崩壊がおきる。いまから二千数百年まえの縄文時代の晩期の人口は、7万6000人ほどに落ちこむ。

ただ、九州を中心とする西日本の人口は、あまり落ちこまなかった。

西日本では、縄文時代の後・晩期に、イモ、豆、雑穀を内容とする焼畑農耕が受容されつつあ った。この農業文化は大陸から渡来した人々がもたらした。ものであった。この大陸から渡来した人々は、疫病に対して免疫性をもち、かつ、食糧事情をよくする文化をもっていた。

このころには、九州の人口は関東の人口に近くなっていた。関東の人口は九州の人口の、約 1.2倍とみられている。

なお、食糧事情などのあまりよくなかったとみられる縄文時代の後晩期には、平均身長も低く なっている。


■ 「弥生維新」の人口急増
二千数百年まえに、弥生時代がはじまる。

弥生時代の開始は、「弥生維新」といってよいほどのものであった。 稲作が行われ、社会制度がととのっていった。

『魏志』「倭人伝」に、「租賦を収む」とある。すなわち、租税のとりたて制度があったのであ る。

租税をとることによって、国家はプロの軍隊を養うことができ、武器をととのえることができる。

国家権力は、それまでの部族国家の時代よりも、飛躍的に強力となる。国家権力は、軍の力に よって支配領域をひろげることができ、新たな支配領域からも、また租税をとりたてることがで きる。

国はより大きくまとまり、生産性をあげる方法は、よりすみやかに普及していく。 弥生維新に匹敵する維新は、明治維新である。このときも人口の急上昇をもたらした。

明治維新後の人口の急上昇についてくわしく分析された板倉聖宣氏は、そのさいの人口増加の 原因を、つぎの二つに求めておられる(『歴史の見方考え方』仮説社刊)。
  1. 明治維新後の新政府の四民平等、職業と移住の自由化、文明開化の政策が人々の気持ちを かえたこと。
  2. 開国によって、食糧移入の道が開かれたこと。
社会制度の変化と、食糧事情の好転、おもに、この二つの原因により、弥生時代の人口は急速 にのびていく。

小山修三氏は、弥生時代の人口を59万5000人と推定し、「後期にはひょっとして100万人を超えていたのではないかと思います」(埴原和郎編『日本人新起源論』角川書店刊)とのべておられる。

九州の人口は関東を追い抜く。


■ 邪馬台国時代は400万人を超えていた?
いまから1750年ほどまえの邪馬台国の時代は、弥生時代と古墳時代との過渡的な時代であ った。

邪馬台国の時代を、弥生時代の後期に位置づける人が多いが、福岡県文化課の考古学者柳田康 雄氏のように、古墳時代にくみいれる人もいる。

邪馬台国時代の人口について、上智大学の鬼頭宏氏は、のべておられる。

三世紀の邪馬台国時代の人口についてであるが、『魏志倭人伝』にある邪馬台国以下29 力国の戸数から、180万人以上あったと推計できる。

同書には邪馬台国ほか7国の戸数が 書かれており、その合計は15万9千余戸となる。

一戸あたり人員をどれくらいに見積もる かが問題であるが、3〜5世紀の住居跡から推定される世帯の規模を参考にこれを10人と すれば、8力国の人口は159万人余となる。

戸数記載のない斯馬国以下12カ国の戸数を 仮に各国千戸として加えれば、倭人伝29力国の総人口は180万人余になる。

しかしこれ らの国はすべて西日本に位置していて、この180万人の中には東日本の人口が含まれてい ないということも考えられる。

もしそうだとすると、弥生時代と次に見る8世紀の地域人口 構成を参考に、東日本人口を推計してこれに加えて、当時の人口を300万人内外はあった とみなくてはならないだろう。(『日本二千年の人口史』PHP研究所刊)

『魏志』「倭人伝」に記載されている戸数を、「邪馬台国畿内説」をとって、西日本の戸数とみ るか、「邪馬台国九州説」をとって、九州の戸数とみるかによって、日本列島全体の人口の推定 値は、ちがってくる。

私は、つぎの二つの理由から、邪馬台国時代の日本列島全体の人口は、400万人を超えてい た可能性があると考える。
  1. 私は、邪馬台国は、九州にあったと考える(これについては、拙著『邪馬台国への道』徳 間文庫参照)。

    『魏志』「倭人伝」に記されている邪馬台国7万余戸の戸数は、おそらく、租税のとりたて 制度に関連して把握されたものであろう。

    『魏志』「倭人伝」に記されている「倭」の諸国の総戸数は、15万余戸である。1戸4人 とみても、60万人となる。『後漢書』の「郡国志」の記す戸数・人口によれば、後漢時代 の中国では、1戸が5.07人であった。1戸5人とみれば、15万余戸は、76万人であ る。

    小山修三氏の調査によれば、弥生時代の全国人口は、九州の人口の約6倍である。邪馬台国時代の九州の人口を、60万〜76万人(狗奴国などの戸数を考えれば、九州の人ロは、 もっと大きかった可能性がある)として、その6倍をとれぱ、360万〜456万人となる。

  2. この本のなかでのべるように、桑原秀夫氏の方法により、歴史時代にはいってからあとの 人口の推移にあてはまる曲線の式をもとめ、邪馬台国時代の人口の推定を行うと、457万 人となる。
弥生時代から、それにつづく土師器の時代にかけて、人口は急上昇している。邪馬台国時代の 人口は、300万〜400万人以上になっていた可能性は、あるとみるべきだろう。


■ 小山修三氏の人口推定方法
以上の、弥生時代までの人口の推定は、小山修三氏の示された結果によった。

小山修三氏の人口推定の方法については、鬼頭宏氏の『日本二千年の人口史』に、要領よくま とめられている。つぎのとおりである。
  1. 遺跡数
    時代別、地域別に遺跡数の分布を調べる。基礎資料として文化財保護委員会が昭 和40年にまとめた『全国遺跡地図』(全47巻)が利用された。
    人口推計の対象とされたのは草創期と晩期を除く縄文早期〜後期の5期と、弥生、土師器の各時代である。地域は北海道・沖縄を除く、本土の九地域である(東北・関東・北陸・中部・東海・近畿・中国・四 国・九州)。

  2. 基礎人口
    推計の基礎になる人口を土師器文化期(3〜12世紀)の中ほどにあたる8世 紀に求める。選ばれたのは、澤田吾一が出挙稲をもとに推計した奈良時代の左右両京を除く 良民人口(全国で約540万人)である。

  3. 集落規模
    詳しい数量的データの得られる東京および関東地方の遺跡から各時代の集落規 模(人口)を推定し、土師器文化期を1として比例定数を決定する。
    縄文早期は土師器時代の20分の1、縄文前期〜後期は7分の1、弥生時代は3分の1とされた。

  4. 8世紀の集落人口
    関東地方の土師器時代の集落あたりの人口を八世紀人口に対応させて計算する。
    (943,000人÷5,549=170人)

  5. 関東地方の人口
    例えば関東地方の縄文中期人口は次のようにして求められる。

    土師器時代の集落あたり人口(4)×比例定数(3)×縄文中期遺跡数(1)=
                170人  ×  1/7  ×  3,977  =  96,600人

  6. 時代別、地域別人口
    上のようにして得た関東地方の人口を基準にして、各地方と関東地方 の遺跡数の比率から、時代別・地域別人口を計算する。
小山氏の推定方法は、そうとうよく考えられた方法である。

この方法によれば、小山氏の推計以後に、縄文中期の遺跡が発見されたとしても、その発見量 に比例して、土師器時代の遺跡が発見されれぱ、推定の結果には影響しないことになる。

ただ、私はおもに、つぎの二つの理由から、小山修三氏の推定はやや過小推定になっているの ではないかと考える。
  1. 小山氏は、八世紀の人口を古代人口推定の基礎とされている。8世紀の人口との比例関係によって古代人口を求めておられる。 八世紀の全国人口としては、左右両京の人口もあったのであり、良民以外の人口もあった。 この点から、全国人口はすくなくとも、一割ていどは多くみなければならない。

  2. 古い時代になるほど、遺跡の失われる率、あるいは発見される率は、小さくなるのではな いか。「桑田変じて滄海となる」というような自然の変異などによって、遺跡が失われてい く率は、時間の経過にあるていど比例して大きくなるのではなかろうか。
このような問題点があるとはいえ、小山氏の方法をこえる推定方法がそれほどあるわけではな い(桑原秀夫氏の方法などは参考になるであろうが)。また、ある時代をとって、東日本と西日 本との人口比の大略をしる、というようなことであれば、小山氏の方法は十分に有効である。


■ 澤田吾一氏の人口推定方法
昭和2年(1927)に、澤田吾一氏は、大著『奈良朝時代民政経済の数的研究』(復刻版は、 柏書房からでている)をあらわす。澤田氏は、この本で奈良時代の人口の推定を行っている。

澤田氏は、いくつかの方法で推定を行っているが、中心は、弘仁主税式に記載されている出挙 稲数を基準とする推定である。

ここで「出挙稲」とは、つぎのようなものである。

「出挙」は、一種の租税に近いものである。実質的には租税とみてよい。「出」は貸付、「挙」 は回収を意味する。春に官稲を農民に貸しつけ、秋に3〜5割の利子とともに回収する。名目は 営農資金であったが、奈良時代中期からは利稲収入を目的とし、強制的、租税的色彩を強めた。 「出挙稲」は、出挙のために貸しつける稲をさす。

澤田吾一氏の人口推計方法についても、鬼頭宏氏が要領よくまとめておられるので、つぎに紹 介する。
  1. 課丁数・出挙稲比 澤田はまず、貸付けられる出挙稲数が諸国の課丁数に比例していたことを明らかにした上で、数値が判明する陸奥国の弘仁6年(815年)の課丁数(正丁およ ぴ次丁)と、弘仁主税式に記されている陸奥国の出挙稲数の比を求めた。

  2. 各国課丁数 右の陸奥における課丁数・出挙稲比を各国に適用して出挙稲数に乗じ、国別 課丁数を算出する。

  3. 国別人口 この課丁数を、あらかじめ戸籍・計帳断簡から求めた8世紀後半の課丁数・人 口比で除すことにより、各国の人口を算出した。

    ただし、弘仁出挙稲は陸奥国以下43ヵ国についてしか得られないので、東海道諸国と近 江については、さらに時代の下った延喜主税式(10世紀初頭)の出挙稲数を利用した。また いずれの数も得られない畿内五力国と志摩・対馬・多(種子島)・左右京の人口は別途に 推計された。
このような方法により、澤田氏は奈良時代(8世紀)の総人口を、600万〜700万人と推 定した。


■ 明治維新による人口の伸び
その後、日本の人口には増減があったが、長期的にみれば、人口は増大していった

ただ、江戸時代の後半には、人口の伸びは停滞した。1712年から1846年までの調査では、ずっと同じくらいで、ほとんど変化がなかった。日本の人口は、3000万〜3200万人ていどであった。

江戸時代の末期には、社会は行きづまった。

天明2〜7年(1782〜87)には、天明の大飢饉があった。天明三年(1783)には、浅間山が噴火し、その影響で冷害がおきた。奥羽地方の飢饉は、多数の餓死者を出し、各地に一揆打ちこわしがおき、幕府や諸藩の支配の基盤が大きくゆらいだ。

食糧が不足し、平均身長も低くなっていった。徳川末期、明治初期の男子の平均身長は、158センチであった。現在より十数センチ低く、日本の歴史上、平均身長が一番低くなったほどである(埴原和郎「自然人類学からみた日本人の起源」『季刊邪馬台国』38号参照)。

この幕末の行きづまりは、明治維新によって打開された。その後、人口は急速にのび、現在の人口は、1億2000万人を超えている。




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