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木材の伐採年代と遺跡の築造年代 |
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最近、『日本の美術6』(N0421)(東京国立博物館.京都国立
博物館・奈良国立博物館監修、至文堂刊)で、光谷拓実氏の
「年輪年代学と文化財」という特集が組まれている。
大変読みごたえのあるよい特集である。 執筆者の光谷拓実氏は、慎重にのべている。 「年輪年代法で暦年が判明した場合、たとえそれが樹皮型の遺跡出土材であっても、 その暦年は原木の伐採年を示すだけであって、出土品の年代や遺跡の年代にならないこと がある。 それは、原木の伐採後、加工するまでの原木を保 管したり、あるいは製品となってから長い間の使用後に廃 棄したり、よくある例として古材を再利用したりしている ことがあり得るからである。 これらのことを勘案すると、年輪年代法で得られた結果だ けで遺跡の年代を決めることは慎重を要する。」 当然の、そして銘記すべき注意事項である。 年輪年代法は建築年代の上限を与える 『日本の美術6』にのせられているもので、文献に よって、建物などの建築年代がほぼ確定できるものをとりあ げ、年輪年代学による伐採年代とを比較してみよう。 すると、表2のようになる。 表2をみれば、つぎのようなことがわかる。
年輪年代法による成果は貴重である。表2をみれば、はっきりと法則的 に主張できることがある。 それは、つねに、「年輪年代法による伐採年代(A)」は、「文献による建物 などの建築年代(B)」よりも、小さいことである。 すなわち、 (A)≦(B) である。 言葉でいえば、つぎのようになる。 「年輪年代法による伐採年代(A)は、建物などの建築年代の上限を与える。 つまり、その建物などの建築年代は、(A)をさかのぼらないことがいえる。」 これは、しばしば、重要な情報をもたらす。 しかし、問題は、(A)≦(B) であつて、(A)=(B) ではないことである。 表2をみれば、(A)=(B) 「(A)は、(B)にほとんど等しい。」こともあるが、百年以上、時には数百年違っていることもある。 「奈良県国宝法隆寺所蔵百万塔」の場合は、製作年代が確定できるものであるが、年輪年代法による伐採年代は、721年で、40年以上、50年近い差がある。 これぐらいの差は、むしろふつうのことなのではないか。 共伴土器の年代と年輪年代法による伐採年代との関係 表2と同様のことは、共伴土器の年代と年輪年代法による伐採年代との関係(表3参照)についてもいえる。 「年輪年代法による伐採年代(A)」は、つねに、推定される「共伴土器の推定年代(B)」よりも古くなっている。 ここでも、(A)≦(B)がなりたっている。 表2、表3ともに、同じような傾向がみとめられるのであるから、私たちは、「年輪年代法による伐採年代法(A)」によって、従来の「共伴土器の推定年代(B)」を、大きく組みかえる のには、慎重であるべきである。 新聞では、橿原考古学研究所の発表として、 「年輸の状態などから他の建物からの転用ではなく、また紫外線による劣化がなかったことから伐採後すぐ使われたこともわかり、 伐採年代が古墳の築造時期とほぼ同じ頃と判断された。」 と報じられている。 ほんとうに、そんなことがいえるであろうか。 たとえば、表2の国宝元興寺(奈良市)の禅室の木材は、飛鳥寺(奈良県明日香村)からの転用材とみられる。 ここで、飛鳥寺で使われつづけた場合と、奈良市に持って行った場合とで、紫外線による劣化が異なるなどということが起きえようか。年輪の状態によって区別できるであろう か。 ほとんど、ばかばかしいというべき議論である。 「邪馬台国畿内説」の立場の方々のためにする議論としか思えない。 この種の議論の、確実な根拠を示していただきたい。 『日本の美術6』には、つぎのような記述もみられる。 「(兵庫県武庫庄遺跡の例について)辺材部はほぼ完存して いるものとみなした。しかも転用材の可能性は低い。つま り、柱根No3の年輪年代245B.C.は原木の伐採年にか ぎりなく近いものと思われる。 この結果は、土器の年代より約200年も古い。この年代 差をどう埋めていくのか。実に頭のいたい問題を投げかけ た事例の一つである。」 つまり、転用材の可能性が低い場合でも、どうも古くなり すぎということもあるようである。 おそらく、使用前に、かなり長期間寝かせている場合があるのであろう。 田舎に行けば、100年前、200年前の大黒柱などが立ってい ることがよくある。そのようなものを持って来て、再加工 し、転用した場合、ほんとうに転用かそうでないかの区別はつくのだろうか。 |
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