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引き揚げは「いばらの路」・・・ 安本先生の終戦


神奈川新聞 「それぞれの8.15 神奈川発」より

58回目の終戦記念日が巡ってくる。今年は世界中で上がった 反戦の声の中でイラク戦争が勃発(ぽっぱつ)、幾多の人命が失 われた上、その傷跡はいまだに尾を引いている。神奈川ゆかりの人 たちに、戦争にまつわる原体験をつづってもらい、あらためて「平 和」の意味を考える。(神奈川新聞 2003.8.4)

 引き揚げは「いばらの路」      安本美典           

58回目の終戦記念日を迎える。この日は、日本の、そして私たち一家の 土台が、崩壊した日であった。 今年、96歳になる私の母は、歌っている。

引き揚げて経(へ)し
歳月のいばら路(みち)
絵巻のごとく
顕(た)ち来(く)八月

私たちは、南満州の鞍山(あんざん)で、日本の敗戦を迎えた。当時は、現在 の中国の東北部が、日本の植民地になっていた。

1945年の敗戦時、私は11歳、小学校(そのころは、国民学校といった) の六年生であった。

敗戦まで、満州の地は比 較的平穏だった。しかし、敗戦を期に、一変した。私たちは、敵地に裸 で放り出された。「祖国」の庇護(ひご)は、失われた。それでも、南満州に住んでいた人たちは、まだよかった。ソ連(現ロシア)との国境に近い北満州に住んでいた人たちは、ソ連軍の侵攻とともに、実に悲惨な状況 に置かれることとなった。

そして、鞍山の地も、共産党軍(毛沢東軍、八路軍といった)、国府軍(蒋介石軍)、ソ連軍の、三つどもえの戦いの 地となった。このうち、もっとも質の悪かったのは、ソ連軍であった。略奪、暴行は、日常茶飯事の、虎狼の軍であった。わが家にも、 ソ運兵たちが、押し入ってきたことがあった。私たちは、裏口から逃げ出し、ソ連兵が、いなくなったのを、たしかめてから家にもどった。

不安なのは、身の安全が保証されていないことである。ある日は、家の前の小さな遊ぴ揚を、女の人が子どもをかかえて、血相を変え、髪をふりみだして、大声をあげて走ってゆく。遊び場に爆発物があり、子どもが触れて爆発したのである。ある日は、鞍山にあった大宮ホテルの社長が、共産軍によって、銃殺されたという話が伝わってくる。

最近、私の母は、私と共著で「母と子 魂の歌」(リヨン社)という本を出した。歌よみの母は、その本のな かで、歌っている。旧満州からやっと日本にたどり着き、引揚援護局の荷物検査場へ向かう子どもたち 1946年7月、京都・舞鶴

深淵を
のぞむ思いに
顧(かえり)みる
祖国の庇護の
断たれたる日々

明日のことが、わからない。たよりになるものがない。この状態が、 いつまで続くのかもわからない。母は、また歌っている。

暴民の
喊声(かんせい)遠く
どよもすを
夜々寝(い)ねがてに(眠れず に)
何恃(たの)むなく

敗戦後、一年近くたって、私たちには、帰国への道が、開かれた。国府軍(蒋介石軍)の手配によって、日本に帰ることとなった。

私たちをのせた無蓋(むがい)の貨物列車は、高梁(コーリャン)畑のなかを、ゆつくりゆっくりとしか進まない。それでも、たしかに、祖国にむかっているのである。 葫蘆島(ころとう)というところから船に乗り、一週問ほどの船旅を続け、日 本の島影を見たときには、船中の人が、甲板で、長いあいだ泣いた。

安全だけは、保証されることとなったのである。しかし、戦後の日本は、 混乱のなかにあり、父と母の辛苦は続いたのである。(産能大学教授)



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