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新人物往来社
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研究史 邪馬台国の東遷 |
九州にあった邪馬台国が
東遷して大和政権をつくった・・・。
この歴史的真実を学説的に跡づけて総括し、 さらに邪馬台国=甘木説を主唱する。 異色の歴史家、栗山周一の人間と思想も 本書によってはじめて明らかにされた。 |
本書「はじめに」より |
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邪馬台国論争が、あいかわらずさかんである。邪馬台国問題のような謎は、私たちの知的興味をか
きたてる。また、邪馬台国の謎は、私たち日本人のルーッと関係し、自己確認の欲求ともむすびついている。
しかし、邪馬台国についての、これまでの研究史を、くわしく分析してみるとき、私は、邪馬台国 の謎の、基本的な問題は、すでに解決をみているのではないかとの思いを禁じえない。 その解決は、邪馬台国東遷説という形で与えられていると思う。 この説は、白鳥庫吉、和辻哲郎、 栗山周一、林屋友次郎、飯島忠夫、和田清、榎一雄、橋本増吉、植村清二、市村其三郎、井上光貞、坂本太郎、森浩一、中川成夫、金子武雄、奥野正男の諸氏など、ほとんど歴代の碩学により、示唆され、提出され、支持され、洗練されてきた。 が、この説は、現在、かならずしも、広く一般の知識とはなっていない。 それは、一つには、これらの碩学の研究の成果が、しばしば、学界や、専門家を対象とする論文、 著書などに発表されてきたためと思われる。一般への普及よりも、学問の世界での成果のつみかさねの方に、力点がおかれてきたためと思われる。 また、いま一つには、いわゆる「専門家」は、その矜持のゆえであろうか、真理はいつかは顕現するという姿勢をとり、慎重でひかえめな発言をし、あらあらしくは、主張をくりかえさないためと思われる。 そのため、すでに、明確な形で述べられているかにみえる発言も、ともすれば、現在の邪馬台国論 争の、騒然たる渦の響きの中で、かきけされがちとなっている。 この本では、これまでの研究の流れをふりかえり、整理し、すでに提出されているかにみえる解決 を、できるだけはっきりとした形で、浮きぼりにしてみようと思う。 専門家によってえられている知識が、広く一般の知識になるよう努力してみようと思う。 |
本書「おわりに」より |
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十九世紀の学問において、『聖書』は、ひとつの伝説集にすぎなかった。
このような時代に、旧約聖書の記述を信じて、発掘を行ない、2500年以上も眠っていた古代都 市ニネヴェを地上によびおこしたのは、フランスのレアードなどであった。 土地の長老は、レアードに語ったという。 「わたしの父と祖父とは、わたしがいまいるここのところに天幕を張りました。……1200年 来、まことのイスラム信者たちはこの土地に居を構えていたのです。ありがたいことに、信じる者 だけがまことの知恵をもっているということですのに、地下の宮殿のことを知っていたものは誰も ありませんでした。信者たちより以前に来た連中も知らなかったのです。 ところがご覧ください。 あそこへ、幾日もかかる遠く離れた国から一人の異国人がやって来て、まっすぐその場所に行き、 棒を手にして、ここに一線、あそこに一線ひいて言うのです。ー『ここに宮殿がある』、『あそこに門がある』。わたしたちがそれについて一生なにも知らないままに、足の下に埋れて横たわってい たものを指ししめすのです。 なんとも不思議なことです。いったい本で読んで知ったのか、魔法で 知ったのか、それとも彼らの予言者たちによってでしょうか。どうぞあなた、話してください。わ たしに知恵の神秘を教えてください。」(G・W・ツェーラム著、村田数之亮訳『神・墓・学者』中央公論社刊) レアードを導いたのは、「聖書に書いてある」の一事であった。 シュリーマンは、ホメロスを信じて、トロヤの位置を定めた。 私たちも、おそらくは、中国の文献と、『古事記』『日本書紀』など日本の古典の伝えるところを信じて、女王国の所在を、定め、邪馬台国を時問の暗闇から掘りおこすことができるのであろう。 『古事記』『日本書紀』が、おぽろげな形であるにしても、三世紀のわが国についての情報を伝えているという立場をとるとき、邪馬台国論、卑弥呼論、日本神話論をふくめてわが国の古代のことがらを、包括的に説明しうる体系を構築しうるみこみがある。 「魏志倭人伝」の記す事実、『古事記』『日本書紀』の神話、伝承のつたえるところ、考古学的な事実の三つは、相互に情報をおぎないあっている。この三つは、一つの立体の、正面図、側面図、平面図のようなものである。どれが欠けても、もとの立体を再構成できない。 『古事記』『日本書紀』ともに大和朝廷の起源が九州であったことを記している。 私も多くの人々と同じく、西暦三世紀の末、邪馬台国勢力のあとをつぐものが畿内に入り、大和朝廷をひらいたと考える。 「邪馬台国東遷説」は、年代論の上からも、また考古学的に言って、そのころから大和で古墳時 代が始まることからも、支持されると思うのである。「邪馬台国東遷説」を支持する根拠は、すでに、 あまりにも多く提出されている。 「魏志倭人伝」の旅程の記事などは、邪馬台国の位置が定まったの ちであれば、その読み方がわかるにしても、旅程の記事そのものから、邪馬台国の位置を定めること は、不可能であろう。 『古事記』『日本書紀』の、古い時代についての記事は、私たちの、小さいときの思い出に似ている。 私たちの小さいときの、ある事件などの思い出を考えてみよう。それは、多くのばあい、五つのとき のできごとであったか、六つのときのできごとであったか、時間についての記憶は、あまり、さだか ではない。 しかし、その事件が、自分の家でおきたできごとであったか、幼稚園でおきたできごとで あったか、場所についての記憶は、比較的はっきりしていることが多い。 私は、『古事記』『日本書紀』についても、それと同じようなことがいえると思う。 古い時代に、のちの大和朝廷につながる勢力が、九州にいたらしいことは、比較的さだかな記憶で あろう。しかし、その客観的年代については、歴代の天皇の名という手がかりをのぞいては、ほとん ど不明になっている。 「魏志倭人伝」などの国外資料が、時代を教え、『古事記』『日本書紀』などの国内資料が、場所を教 えてくれる。そして、考古学的な遺物は、文献上の推論が、妥当であったかどうかを、事実によって 検証する道を教えてくれる。 これらの資料をあわせるとぎ、わが国の古代のことを知るための情報 は、はじめて、私たちが、必要としているていどのものに達する。そして、邪馬台国の位置なども決 定できる。 そして、この方法が、邪馬台国の位置を決定しうる唯一の方法であろうと、私は考える。 |
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