TOP > 著書一覧 >高天原の謎 一覧 前項 次項 戻る


徳間文庫
高天原の謎
   日本神話の世界

高天原の謎 古代史最大の謎は、卑弥呼・邪馬台国の比定地探しであり、もう一つが”記紀”神話を巡る高天の原探索だろう。

「神武天皇は実在した」、「卑弥呼は天照大御神」と、日本古代史に大胆な説を提起しつづける著者が、数理文献学による古代史解明の科学的手法を駆使、内外古文献の精査、考古資料の厳密な考証に基づき、「高天の原=邪馬台国」を論証、そしてその地を北九州・甘木に求める力作論稿。


 本書「はじめに」より

  1

『古事記』『日本書紀』によれば、天皇家の祖先は、大昔、「高天の原」というところにいたこ とになっている。その意味では、「高天の原」は、天皇家のふるさとであるといえる。

この「高天の原」は、どこをさすのであろうか。

「高天の原」についての諸説を整理すれば、図1のようになる。 このうちの、「高天の原=地上説」をとりあげてみよう。


 2
高天の原には、山があり、川があり、家があり、井戸があり、田がある。高天の原では、稲作が行なわれ、機がおられ、鶏が鳴き、鍛冶の音が響いている。

高天の原文化を特徴づけている稲作、剣、矛、鏡、勾玉などは、今日、弥生式文化を特徴づ けるものとされている。高天の原は、天皇家の祖先が、弥生時代のころいた場所についての記 憶なのであろうか。

東洋史学者の三品彰英氏は、『神話と考古学の間』(創元社、昭和48年刊)のなかで、日 本神話で語られている事物の特徴が、弥生文化の特徴とよく一致していることから、 「弥生時代が記紀神話のスタートであり、……」 とのべておられる。

「高天の原=地上説」は、大きく、「国内説」と「国外説」とにわかれる。

「国内説」は、一般に、畿内に大和朝廷をひらく以前に、天皇家の祖先は、国内のどこにいた か、をたずねることになる。

「高天の原時代」を、比較的新しい時期、弥生時代の後期のころ に位置づける傾向がつよい。この立場にたてば、「高天の原」と「邪馬台国」とが、重なりあ う可能性も生ずる。

これに対し、「国外説」は、日本民族の起源論とも結びつくことが多い。

天皇家が外国から 来たとの前提に立ち、「高天の原」から、天皇家がわが国に渡来することによって、弥生文化 がもたらされたのであろう、とする傾向がつよい。

この立場にたてば、「高天の原時代」は、 比較的古い時期、わが国の弥生時代の開始期、あるいは、それ以前に位置づけられることにな る。


 3
『古事記』『日本書紀』の伝える日本神話によれば、天皇家の祖先神は、天照大御神とよばれ る女神であったという。そして、天照大御神は、「高天の原」にいたという。

『古事記』『日本書紀』に描かれている日本神話の世界と、邪馬台国の世界とは、重なりあう のではないか。このような考えを、最初に示唆したのは、明治期の東京大学を代表する史家、 白鳥庫吉(1865〜1942)であった。

白鳥庫吉は、1910(明治43年)に発表した論文「倭女王卑弥呼考」のなかで、『魏 志倭人伝』の「卑弥呼」に関する記事内容と、『古事記』『日本書紀』の「天照大御神」に関す る記事内容とを比較している。

そして、この二つの記事内容について、「その状態の酷似すること、何人も之を否認する能 わざるべし。」と述べている。

白鳥庫吉は、『古事記』『日本書紀』の神話の伝える天照大御神は、『魏志倭人伝』の記す卑 弥呼の反映なのではないか。天照大御神がいたと伝えられる高天の原は、邪馬台国の反映なの ではないかとする考えを示している。

卑弥呼と天照大御神との関係については、まえに、『新版・卑弥呼の謎』(講談社現代新書) において詳論した。この本では、高天の原と邪馬台国との関係に焦点をあてる。

高天の原伝承のなかに、邪馬台国問題解決の鍵が秘められている可能性が大きいのである。 この本では、高天の原探究の研究史を述べ、さらに、あらたに、数理文献学の立場などから、 高天の原をさぐる。

本題にはいるまえに、他の機会にのべたこともあるが(拙著『卑弥呼と邪馬台国』〔PHP 研究所刊〕など)、日本神話と邪馬台国とのかかわりあいについて、本文をお読みいただくに あたって必要な事項を、簡単に整理しておこう。


 4
白鳥庫吉が示唆した考えをうけつぎ、東京大学の哲学者和辻哲郎(1889〜1960)は、 大和朝廷は、邪馬台国勢力が東遷してうちたてたものとする考え、すなわち「邪馬台国東遷 説」を提出する。

和辻哲郎は、『古事記』『日本書紀』の神話と、『魏志倭人伝』の記述との一致を、ややくわ しく指摘する。

「君主の性質については、記紀の伝説は、完全に魏人の記述と一致する。たとえば、天照大 御神は、高天の原において、みずから神に祈った。

天上の君主が神を祈る地位にあって、万 神を統治するありさまは、あたかも、地上の倭女王が、神につかえる地位にあって、人民を 統治するありさまのごとくである。

また天照大御神の岩戸隠れのさいには、天地暗黒となり、万神の声さばえのごとく鳴りさやいだ。倭女王が没した後にも国内は大乱となった。天照大御神が岩戸より出ると、天下はもとの平和に帰った。

倭王壱与(台与)の出現も、また国内の大乱をしずめた。天の安河原においては八百万神が集合して、大御神の出現のために努力し、大御神を怒らせたスサノオの放逐に力をつくした。倭女王もまた武力をもって衆を服し たのではなく、神秘の力を有するゆえに衆におされ王とせられた。」

和辻哲郎はいう。

大和朝廷は、邪馬台国の後継者であり、『古事記』『日本書紀』の伝える神武東征の物語の、 「国家を統一する力が九州から来た。」という中核は、否定しがたい伝説にもとづくであろう、

と。

以上のようなことを、和辻は、その著『日本古代文化』(大正9年初版、大正14年および 昭和14年改稿版、岩波書店)のなかで述べている。


 5
和辻哲郎の「邪馬台国東遷説」を、戦前に、さらに発展させたのは、栗山周一(1892〜 1941)であった。

栗山周一は、はじめ小学校の教員をし、のち、私塾をひらきながら、数々の本をあらわした 人である。

栗山周一はいう。

「神話伝説は、もとより歴史ではない。けれども、神話の中には、なにかの伝説などにヒン トを得たものもないとは限らぬ。

そして、卑弥呼の伝説が神代の事跡として考えると、天照 大御神の神話がある。天照大御神は、女神であり、統治者であり、女王であり、君主である から、天照大御神神話は、倭国卑弥呼の事実を伝えたものではないか。

卑弥呼は、年巳に長 じても夫婿なく云々とあるが、女神たる天照大御神にも夫婿なる神がない。男弟ありて治国 を助くとあるのは、素菱鳴の尊または月読の命の男弟の所伝とみれば、正しく一致するでは ないか。そして、天下を統治し、女王であったから、立派な宮殿にもすみ、侍女をたくさん はべらしていた。」

「結果論からいっても、九州北部に、あれだけの文化の進んだ民族が、原始的にせよ、国家 を作り、大陸と交通して、その文化を輸入していたことを見れば、それらの民族が煙のごと く消え去って、文化の非常に進んだ大和朝廷が忽然と起こるというようなことは考えられな い。

むしろ、大陸文化をさかんにとり入れた倭国人が、大挙瀬戸内海を東遷し、大和の地に 移り、強力な国家を作ったと見るのが、理論上正しいのではないかと思う。

今までの種々の 倭国に対する考証は、倭人の大挙東遷という事実を仮定すれば、すべて解決がつく問題であ る。

かの銅鐸民族のごときも、倭人の近畿侵入のために、あるいは全滅し、あるいけ逃亡し、 あるいは屈服し、あるいは同化混血した民族で、倭人の大和政府の成立するころには、まっ たく混化混血してしまった民族と解することができよう。」

「倭人の大和東遷は、卑弥呼の死後である。神武天皇の東征の神話のごとき、まさにこの方 面の消息を伝えたものとみられる。」



 6
栗山周一も、すでに、素朴な形で、年代論を展開しているが、「邪馬台国東遷説」には、年 代的な根拠を与えることができる。

「奈良7代70年」といわれるように、古代の天皇の平均在位年数は、一代約10年であった。 『古事記』には、6人の天皇の、在位年数を記しているが、その平均値も、約10年である。

また、『宋書』に記されており、西暦478年に、宋に使をだしている倭王武は、第21 代雄略天皇のこととする説が有力であり、一方、第31代用明天皇は、二年ていど在位し た天皇であるが、西暦586年に在位していたことは、史的事実とみて誤りがない。この間10 代106年で、一代平均は、やはり10年に近い。

第21代雄略天皇を、478年ごろの人とすれば、第一代神武天皇の時代は、20代約200年さかのぼって、278年ごろ、三世紀末となる。そして、ちょうどこのころから、畿内大 和を中心に、やや突如として、古墳のはじまることが注目される。

『古事記』『日本書紀』は、ともに、神武天皇は、天照大御神から数えて、5代あとの人であ るとしている。

神武天皇の時代、278年ごろから、5代約50年さかのぼれば、天照大御神の時代は、西 暦228年ごろとなり、卑弥呼の時代に、ほぼ重なりあう。

津田左右吉をはじめ何人かの人々の説く古代の天皇非実在説が十分な根拠をもたないことや、 上にのべた年代論などについては、前掲の拙著『新版・卑弥呼の謎』のなかで、ややくわしく のべた。


 7
事跡や年代のうえで、卑弥呼と天照大御神とが重なりあうとすれば、天照大御神が活躍して いたと『古事記』『日本書紀』の伝える「高天の原」こそが、邪馬台国のことを、神話的に伝 えたものであることになる。

さて、『古事記』神話(上巻)にあらわれる地名の統計をとってみる。

たとえば、「胸形」という地名があらわれれば、これは、福岡県の地名であるので、「九州地 方」の地名が一個として数える。

すると、九州の地名が、もっとよくあらわれる。(本文一一四ページ) 九州の地名は、畿内の地名の三倍以上もでてくる。

もし、津田左右吉らが説くように、『古事記』の神話などは、大和朝廷の役人たちが、大和 朝廷の権威をたかめるために、机上で述作したものであるならば、畿内の地名が、もっとも多 くあらわれてよさそうなものである。しかし、事実は、そうなっていない。

『古事記』『日本書紀』の神話は、大和朝廷の祖先たちがかつていた場所のことを、おぼろげ な形で伝えているとみたほうがよいようである。そして、その場所は、九州方面である。


 8
さて、『古事記』『日本書紀』の神話を読むと、「天の安の河」という河の名がしばしばあら われる。

「天の安の河」は、高天の原にあった河で、神々は、この河の河原に集まって会合をひらいた り、河上から堅い石をとってきたりしている。天照大御神も、この河の河原にいたりしたとい う。

ところで、九州の地図をひらいてみると、現在でも、福岡県朝倉郡に、夜須町とよばれる町 がある。「夜須町」の「夜須」は、『日本書紀』の「神功皇后紀」や、『万葉集』などでは「安」 と記している。

そして、この地には、筑後川の支川、夜須川(小石原川ともいう)が、現在も流れている。

昭和29年に、朝倉郡の二町(甘木・秋月)、八村(安川・上秋月・立石・三奈木・金 川・蜷城・福田・馬田)が合併して、市制をしき、甘木市となるまで、この地には、「安川村」 があった。 「安川村」の名は、「夜須川」に由来する。

『明治22年町村合併調書』(『福岡県資料第二輯』)には、つぎのようにある。 「安川という村名は、人々の希望するところで、合併村の中央を流れ、村内過半その川を引 き、用水とする。よって安川村と改称する。」

このように、「夜須川」は、また、「安川」とも書かれていた。

1985年の12月に、夜須町東小田の峰遺跡の、弥生中期後半の甕棺から、ガラス製璧を 再生利用した装飾品二個、前漢鏡二面、鉄剣一本、錫(毛抜き形鉄器)一個が発掘された。棺 のそばからは、鉄戎一本も出土した。

ここで注目されるのは、璧である。璧は、古代中国の宝物のひとつである。中国の璧は、殷 周時代から漢代まで、王侯のしるしとされ、銅鏡をしのぐ貴重品であった。

これまで、璧は、わが国では、伊都国王の墓とみられている福岡県糸島郡前原町の三雲・井原遺跡、奴国王の墓とみられている福岡県春日市の須玖岡本遺跡など、九州の四地点から出土している。いずれも、王墓級とみられる墓からのみ出土している。

夜須町の発掘を報じた当時の新聞は、「やはり、古代の小国家はあった!」「古代王権を裏付 けか「(12月18日、19日づけ、『朝日新聞』)と記している。

夜須町、甘木市などのふきんは、考古学上、「筑紫の宝庫」(鏡山猛氏)ともいわれている。 夜須町のふきんには、古くから、それなりの勢力が、存在していたようである。


 9
すでに、昭和31年に、『魏志倭人伝』の現代語訳を出した島谷良吉氏は、その『国訳魏 志倭人伝』の「前がき」のなかでのべている。 「陳寿編纂『魏志巻30』所載の東夷の一たる『倭人』の記述を見ると、まったく記紀神代 の巻の謎を解くかのように見える。」

『魏志倭人伝』のなかに見える「卑狗」「弥弥」「卑奴母離」などが、『古事記』『日本書紀』に みえる「彦」「耳(人名の一部)」「夷守」と関係があるであろうことが説かれている。

わが国の万葉仮名は、中国語の音韻にもとづく。そして、『日本書紀』に、「興台産霊(こごとむすひ)、此をば許語等武須砒と云ふ。」とある。つまり、「台」の字が、「等」と同じく、「ト」(正確には、 乙類の「ト」)と読めることを、『日本書紀』が示している。

そして、『魏志倭人伝』にみえる「臺」の字と、その略字として現在つかわれている「台」 の字とが、中国語において同じ音をもつことは、藤堂明保氏の『学研漢和大字典』などにみえ る。

「台」が、「ト」と読めるとすれば、「邪馬台」は、「ヤマト」と読める。これは、「大和朝廷」 の「ヤマト」と正確に同じ音である。

このことは、「邪馬台国」と「大和朝廷」とが、なんらかの関係があったことを示している。 おそらく、弥生時代の最有力国家、「邪馬台国」を、うけつぐものが、大和朝廷の国家なの であろう。

「台」が、「ト」と読めるとすれば、卑弥呼の宗女「台与」の名は、「トヨ」と読める。そして、 『古事記』をみても、「万幡豊秋津師比売(よろずはたとよあきづしひめ)」「豊玉毘売(とよたまひめ)」「豊御毛沼(とよみけぬ)の命」など、「トヨ」という音をふくむ人名が頻出する。

「トヨ(豊)」という音をふくむ人名は、『古事記』の上巻(神話の巻)に16回、中巻に10回、 下巻に11回と、神話の巻における出現頻度が、もっとも大きい。(『古事記』の上巻、中巻、 下巻の、全体の分量、つまり文字数は、ほぼ等しい)

かつ、『古事記』の神話の巻(上巻)において、「トヨ(豊)」は、女性名としてでてくるの が9回、男性名としてでてくるのは、7回である。

『魏志倭人伝』に、「台与」は、「宗女」と、女であったことを記している。これは、『古事記』 神話で、「豊」が、女性名としてでてくることが多いことと、一致している。

白鳥庫吉や、和辻哲郎は、天の岩戸に隠れるまでの、天照大御神が卑弥呼にあたり、天の岩 戸事件からあとの天照大御神が台与にあたるであろうとしている。つまり、天の岩戸隠れは、 卑弥呼の死を意味すると考えた。

そして、事実、『古事記』『日本書紀』を読めば、天の岩戸事件以前と、そのあとで、天照 大御神のとりあつかいかたが、かなりはっきりと異なっている。天の岩戸事件のまえでは、天 照大御神は、どんなばあいでも、ひとりで行動していることになっている。

これにたいし、天の岩戸事件のあとでは、天照大御神は、しばしば、高御産巣日の神といわれる神とペアで行動 し、あるいは、高御産巣日の神が、天照大御神をさしおいた形で、他の神々に、命令を下して いる。

宗女、台与が、年十三で女王になったとすれば、後見人を必要としたであろう。その後見人 的な人物にあたるのが、高御産巣日の神であろう。 そして、「台与」は、高御産巣日の神の娘とされている「万幡豊秋津師比売」と、同一人物 であろう。

「万幡豊秋津師比売」は、名のなかに、「豊」の字をもつ。そして、天の忍穂耳の命と結婚し、その子孫が、皇室となるのである。



TOP > 著書一覧 >高天原の謎 一覧 前項 次項 戻る