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邪馬台国論争に決着がついた! JICC出版局

邪馬台国論争に決着がついた! 戦後の日本の古代史学は、大きな虚妄のなかにあった。

その虚妄は、いわゆる津田史学によってもたらされた。

津田史学では、 七世紀最高の知性の編纂した『古事記』『日本書紀』の記す古代の記事は、 後世のつくり話だという前提に立って議論が進んでいる…。


プロローグ 「邪馬台国問題を解けなくした張本人はだれか」

■ 津田学説は「ホラ話」だ!

かつては科学的で、論理的で、かがやくばかりの理想社会をもたらすかのように論じられたマルク ス主義が、今日では、色あせ、一つの「ホラ話」のようにみられている。ソ連の共産党も解体された。

共産国家ソ連邦自体も崩壊した。

私は戦後の日本古代史学界を風靡した津田左右吉の説も、現在の目でみれば、およそ非実証的で、 非科学的な論理にもとづく、一つの「ホラ話」であると考えている。

その理由をややくわしく述べることからこのプロローグをはじめよう。

戦前に、津田左右吉(1873〜1961)は、『神代史の新しい研究』『古事記及び日本書紀の新研 究』『神代史の研究』(以上、いずれも岩波書店)など、一連の著述をあらわし、『古事記』『日本書紀』 などの文献の、史料としての価値について、くわしい研究をおこなった。

津田は、主として、『古事記』『日本書紀』の記述のあいだのくいちがい、あるいは相互矛盾をとり あげ、そこから『古事記』『日本書紀』に記されている神話や古代天皇の話は、天皇がわが国の統一君 主となったのち、第29代欽明天皇の時代のころ(6世紀の中ごろ)以後に、大和朝廷の有力者に より、皇室が日本を統治するいわれを正当化しようとする政治的意図にしたがって、つくりあげられ たものである、と説いた。

端的に言えば、神話や古代天皇の話は、いわば机上で作られた虚構であり、事実を記したもので はない。ただ、それをつくった古代人の精神や思想をうかがうものとしては、重要な意味をもつもの である、というわけである。

左翼思想、自由主義思想弾圧の時代にはいり、津田の研究も迫害される。昭和15年(1940)、 津田の著作は、発売禁止の処分をうけ、ついで津田自身が皇室の尊厳を冒漬した疑いで起訴され、そ の学問的活動は封殺された。

しかし、津田の所説は、第二次大戦後の懐疑的風潮のなかで、はなばなしくよみがえる。そして、 わが国の史学界において圧倒的な勢力をしめることとなる。

津田左右吉の否定的精神は、すべて否定的、懐疑的となった戦後の土壌のなかで、大きく開花した。 津田左右吉の文献批判学は、戦後の日本古代史学の主流となった。

津田左右吉流の文献批判学の銘で、『古事記』『日本書紀』の神話や古代の天皇についての記事の文 献的価値は、破壊しつくされていった。

戦時中の神話などの全面肯定への反動もあり、全面否定の方向へと、情念のベクトルは、大きく逆 転する。

神話は教科書から追放された。

しかしそのような破壊は、絶望と怒りに近いある種の情念によってささえられてはいても、科学が もつ醍めたものの見方と、どこかなじまないものをもっていたように思われる。

上智大学教授の精神医学者、福島章氏は、述べている。

「学問体系は当然ある程度壮大なホラ話です。妄想体系と学問の理論体系とを区別するものさしは ありません。」(『本』講談社、1990年11月号)

たしかにマルクスの唯物論も、フロイトの精神分析学も、ある意味では、壮大なホラ話といえよう。 私は津田学説も、その種のホラ話だと思うものである。

■ 時代により「正義」は異なる 
第二次大戦後の日本古代史学、とくに文献学は、一つの大きな「虚妄」のなかにあった。 いま、その虚妄のよって来たるところを明らかにしよう。

一口でいえば、現代の「正義」観で、古代や古典を解釈しようとしたところに、虚妄が生じた大き な原因があるともいえる。

「正義」の概念は、時代によって異なる。

今日、私たちは、理性や道義にしたがうことを、正義と考える。あるいは、「最大多数の最大幸福」 をめざすことを、正義と考える。社会主義であろうと、資本主義であろうと社会の成員の、法的な さらには、実質的な平等をめざすことこそ、正義であるとする考え方が根底にある。

しかし、古代においては、けっしてそうではなかった。

古代においては、伝統のある家系のものが上に立つのが正しく、人びとは、その家系の人にしたが うのが、「正義」であるとする考え方があった。

劉備玄徳は「義兵」をあげた。それは、劉備玄徳は、漢の劉邦の血をひいており、帝王になるのが、 「正しい」と考えたからであった。

後漢の光武帝が帝王となったのも、劉邦の血をひく人物が帝王になるのが「正しい」と、みずから も考え、人びともそう考えたからであった。

秦の始皇帝の没後、兵をあげた項羽や劉邦が、はじめ、楚の懐王を擁立したのは、伝統のある家系 の人を上にたてなくては、「正義」の名目がえられず、人心を収撹できないからであった。

古代ばかりではなく、わが国の江戸時代においても、将軍は徳川家に生まれたがゆえに、もっとも 大きな権力の座についた。能力、経験、人気などは、将軍となるための第一要件ではなかった。

そして、「徳川家に生まれたがゆえに、上に立って当然である」という考え方には、モデルがあっ た。それは、「天皇家に生まれたものが天皇位につく」という、古代から存在した伝統である。

「平等」こそが、古今東西を通じての「正義」であると考え、その立場から歴史をみれば、天皇制も 国王制も、否定すべきものとなる。天皇制こそは、わが国において、平等の実現を阻害してきた最大 の要因である、ということになる。そして、歴史というものは、古代史であれ、現代史であれ、いか に人びとが平等をめざして戦ってきたかという「人民の歴史」の立場から考察すべきだ、ということ になる。

「人民の歴史」を強調する立場は、第二次大戦後、大きく燃えあがり、マルクス主義などによってさ さえられ、とくに学界を席巻した。経済学の分野などでは、現在でも、マルクス主義経済学の立場に たつ人びとは多い。

「人民の歴史」の立場からの、日本古代史研究の支柱となったのは、津田左右吉の文献批判学であっ た。

津田左右吉その人は、直接マルクス主義の立場に立つ人ではなかった。

しかし、戦後のわが国においては、弁証法的唯物論の立場に立つ人びとが、津田左右吉の文献批判 学の成果を、積極的に評価し、そのままとりいれる傾向がみられた。

津田左右吉の、古代の諸天皇の存在を否定する議論と、マルクス主義の立場に立つ人びとの、天皇 制を批判すべきであるという考えとのあいだには、呼応するものがあったからである。

■ 顛倒妄想の議論 
七世紀の古代に、時の政府が当時の最高の知性を結集して編纂した『古事記』『日本書紀』の記事の 根本内容を信用しない。

そして、あとでややくわしくのべるように、奈良時代の古文献に徴すべくもなく、せいぜい江戸時 代以後ごろからの確実性を欠く資料などをもとに、粗雑な知性の現代の一個人が、古文献らしきもの を偽造する明確な意図をもって、杜撰に編集した『東日流外三郡誌』などを、日本史家が価値あるも のとしてとりあげたりする。『東日流外三郡誌』は、『国史大辞典』(吉川弘文館)をはじめ、権威ある歴 史辞典ではまったくとりあげられないような書物である。

石が浮んで、木が沈むような、顛倒妄想の議論がおこなわれている。

私は、『古事記』『日本書紀』のために、そしてまた、日本文化のために、このような事態を悲しむ。 これは文化の破壊作業である。

日本古代史家によるこの種の本を、話題性や奇を好む大衆の望みに応ずるがゆえに、出版社も好ん で刊行する。

出版社は一国の文化に影響を与えうる存在である。JICC出版局より刊行した前著『新・朝鮮語 で万葉集は解読できない』でも、同じようなことを述べたのであるが、本は売れればよい、というも のではないであろう。

このような本が、大宣伝によって売りだされるのが常のこととなれば、文化を正常にもどすのに、 狂瀾を既倒に廻らすような努力が必要になってくる。

『東日流外三郡誌』は、オカルト的な書物を多数出版している版元から刊行されている。

『上書(うえつふみ)』『秀真伝(ほつまつたえ)』『富士宮下文書』『竹内文書』などのいわゆる「偽書」と呼ばれているものを刊行し ているある出版社の編集者から聞いたところでは、それらの本の売れゆきは、大変よいという。

デリダらによる「ロゴス中心主義」を批判するポスト構造主義、「大きな物語による正当化」の時代 は終ったとするポストモダニズム、スキゾ(分裂症)文化の正当化などは、現代思想の一つの潮流で はある。

この潮流は、大和朝廷の権威を否定し、津軽地方の人びとの中央政府への怨念が、酔っぱらいのあ げるオダのように、ほとんどとめどなくあふれでる『東日流外三郡誌』にコミットすることと、一脈 通ずるところがあるように思える。その意味では、このような書にコミットする日本古代史家の議論 は、現代思想の潮流というか、雰囲気と、あるいはマッチしているのかもしれない。

しかし、論理を排除しては学問は成立しない、と考えるのもなお、現代に屹立する一つの立場であ る。私は、この立場によらなければ、邪馬台国問題は解決しないと考える。



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