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第207回
マバカ古墳、継体天皇陵について


 1.マバカ古墳

■ 新聞記事

11月19日の朝日新聞で「最古級の前方後円墳か 3世紀半ばの土器出土」という見出しで奈良県天理市のマバカ古墳のことが報道された。橿原考古学研究所の発表にもとづくこの記事では、墳丘前方部に沿った溝の中から庄内式土器の破片が、多数発見されたことが、3世紀中ごろとする年代の根拠になっている。

記事末尾には、国立歴史民族博物館教授白石太一郎氏のつぎのようなコメントがある。

今回の発見は初期の前方後円墳が箸墓古墳やホケノ山古墳などの一帯だけでなく、さらに北に広がる可能性を裏付けた。マバカ古墳の土器を分析し、より古い庄内式とわかれば卑弥呼が統治していたとされる三世紀前半の邪馬台国時代に重なる可能性が出てくるかもしれない。

庄内式土器の初現の時期や、使用された年代については、学者によって様々な説があり、いまだ、定説があるとは言い難い。にもかかわらず、このように、特定の見解だけを影響力の大きい新聞で発表されると、世の中の人はこれが定説であると、誤った判断してしまう懸念がある。新聞社の認識のレベルや、報道姿勢に疑問を感じる。

学者による庄内式土器の初現年代の違いの例。
  • 寺沢 薫氏  3世紀にさかのぼる。
  • 関川尚功氏  4世紀になってから。
■ 庄内式土器の年代
  • 関川尚功氏の見解
    安本先生は、奈良県の庄内式土器の初現年代を比較的新しくみる関川尚功氏の見解を支持している。関川尚功氏は、橿原考古学研究所で、纒向遺跡の発掘をされ、纒向遺跡の土器の編年をされた方であり、纒向遺跡の年代については、「この遺跡がおおいに栄えたのは四世紀である」と述べられている。

    関川氏の、庄内式土器についての見解では、次のように、新聞記事とは半世紀ほど年代が異なっている。

    庄内式土器は卑弥呼の活動した時期よりも後のもので、ほぼ三世紀の終わりから四世紀の前半を中心としたものである。

    関川氏の土器についての見解を、もう少し詳しくまとめると、
    • 須恵器は、だいたい、五世紀のまん中ごろに出現する。
    • 須恵器のまえの布留式土器は、三つないし四つの型式に分類でき、その長さは、100年を大きく越えることはないとみられる。よって、布留式の初現は、四世紀のまん中前後とみられる。
    • 布留式のまえの庄内式土器は、いくら分けても、せいぜい二型式にしか分類できない。したがって、そんなに長い時期とは考えられない。
    • よって、庄内式土器の前段階である纒向の石塚がつくられた時期、纒向の1という時代は、三世紀後半までさかのぼれるか否か、疑問である。(つまり、四世紀以降であろう)

  • 土器の形式の継続期間
    土器の一つの形式の継続する期間は、10年とする学者もいるし、30年とする学者もいて、定まっているわけではない。

    須恵器を5世紀のまん中(450年頃)として、布留式土器に4形式、その前の庄内式土器に2形式あるとすると、 庄内式土器の初現は、

    1形式=10年とする学者  450年−10年×6形式=390年頃(4世紀末)
    1形式=20年とする学者  450年−20年×6形式=330年頃(4世紀前半)
    1形式=30年とする学者  450年−30年×6形式=270年頃(3世紀半ば〜後半)

  • 絶対年代と相対年代
    土器については、直接的に確たる実年代を推定する根拠はない。形式が三つないしは四つに分類できるから、大略このぐらいの年数であろう、というような推定によっている。そのため、人によって編年に大きな差がある。

    土器の形式による編年は、相対編年が主になるので、土器によって絶対年代を判断するのは、かなり危ないことである。 高名な学者が「私はこの編年で議論する」と言って、たとえば、マバカ古墳の年代を議論しても、確たる証拠がないのである。

  • 地域差
    特別講演会での佐原眞先生との議論では、佐原先生は、同じ形式の土器が出土すれば、地域が異なっても、同じ年代であると考えておられたようである。
    安本先生は、必ずしもそうではなく、同じ形式の土器が出土しても場所が違えば年代も異なる可能性があり、庄内式土器については、九州と畿内の両方から出土するが、九州の方が古いとされる。
    その理由は、
    • 九州では、吉野ヶ里の環濠を埋めた土の一番上の部分から出土する。吉野ヶ里は弥生時代中期の遺跡で、その環濠が埋められた時期を年代推定の手がかりにできる。(邪馬台国より前の時代ではないか?)
    • 畿内では、庄内式土器の年代の直接の決め手がない。(推定として、新聞記事では、3世紀中頃、関川説では3世紀末から4世紀)
    また、魏志倭人伝に記載された鉄鏃や絹製品、勾玉などは、奈良県に比べはるかにおおく福岡県から出土する。このころの文化の中心は九州であり、庄内式土器も、まず九州で行われ、後に畿内でも使われるようになったと考えられる。
■ 古墳の年代

関川尚功氏の見解に従えば、マバカ古墳の年代は、三世紀の終わりから四世紀の前半ということになる。 同じように庄内式土器をよりどころにしても、新聞発表とはかなり違う。

古墳のかたちを分析したグラフの上では、マバカ古墳は、右図のように、4世紀中頃の崇神天皇陵古墳などのグループに入る。

また、関川氏は、大型前方後円墳の出現についても、次のように述べる。

大型前方後円墳の出現は、弥生時代に各地に見られた小国家群の枠を超えた大和政権の出現を示すものである。

大和の箸墓古墳に代表される大型前方後円墳は、その規模、副葬品の内容に、弥生時代墳墓と決定的に異なるきわだった特色を持つ。

これはたんに墓制だけの変革ではなく、その背後には、日本列島に初めて、地域にまたがる新たな政治勢力が存在するようになったことが考えられる。

関川氏は、箸墓古墳についても、次の表のように、土器や埴輪の編年についてそうとう明確な根拠をあげて、四世紀の中頃とする見解を述べている。

関川氏による古墳の推定築造時期
時期第1期第2期第3期第4期第5期
代表的古墳箸墓古墳など伝崇神陵
伝景行陵
伝日葉酢姫陵
伝履中陵
室大墓古墳
伝応神陵
伝仁徳陵
 
推定年代4世紀中頃4世紀後半〜
 5世紀初頭
5世紀前半5世紀中葉〜
 5世紀後半
6世紀代
埴輪特殊埴輪とそれに近似した形態の埴輪。
二重口縁をもつ壺型土器の出土。
布留式土器の出現。
  初期須恵器の出現。 


 2.継体天皇陵、やっぱり別人の墓?

11月22日の朝日新聞によると、継体天皇陵に指定している大阪府茨木市の太田茶臼山古墳の墳丘部で、継体天皇の時代より約80年古い5世紀中頃の埴輪が、当時の並んだ状態で確認できた。継体天皇陵は86年にも周囲の堀の外堤で、5世紀中頃の埴輪が確認されたが、今回は、古墳の本体でも同じ時代の埴輪が集中出土した。

考古学者の間では、継体天皇陵は同古墳から東へ1.5キロ離れた高槻市の「今城塚(いましろつか)古墳」だという説が有力である。しかし宮内庁は「太田茶臼山古墳が継体天皇陵でない決定的な証拠はない」として、従来の見解を変えてこなかった。

太田茶臼山古墳は、出土した円筒埴輪の破片などから、5世紀中期と推定され、継体天皇没年と100年のズレが生じており、継体天皇陵でないことは、ほぼ確実であろう。

なお、継体天皇陵の真偽については第195回の講演会でも取り上げている。
 

 3.韓国の前方後円墳

11月15日の朝日新聞によると、朝鮮半島に前方後円墳があったとする説の発端になった韓国・慶尚南道の松鶴洞1号墳が、実は重なり合った3基の円墳であったことが明らかになった。

これは、韓国の東亜大学校が99年から今年6月まで実施した発掘調査によって明らかになったもので、この古墳が前方後円墳であるとして、発見された当初は韓国が前方後円墳の起源であるとされた。

その後半島南西部の全羅南道で10基の前方後円墳が次々と見つかり、全て日本で造られ始めたものより新しい5〜6世紀のものであることと、今回の松鶴洞1号墳が3基の円墳であったことで、韓国の前方後円墳が日本の起源となる説は否定されたことになる。



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