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1.「みかん」と「橘」
2.物部氏について

第221回 
物部氏の東遷と考古学

 

 1.「みかん」と「橘」

安本美典先生
■ 古文献
  • 橘について『魏志倭人伝』は次のように記述する。この時代は橘を食べる習慣がなかったようである。

    薑(しょうが)・橘・椒(さんしょう)・みょうががあるが、賞味することをしらない。 (滋味とするを知らず)

  • 『続日本紀』には和銅元年(708年)の元明天皇の言葉として次のような記述がある。このころは、橘はおいしい果物であったと認識されていた。

    橘は果物のうちで最上のものであって、人々の好むものである。(橘は菓子の長上)

    倭人伝記載の橘と続日本紀の橘とは、別物のように見える。

  • 『古事記』『日本書紀』の垂仁天皇の条に、新羅の王子・天の日矛(あめのひぼこ)の子孫である田道間守(たじまもり)が常世(とこよ)の国を訪れて「非常の香実(ときじくのかぐの実:四季変わらない香りをもつ実)」を持ち帰った伝承がある。
    『古事記』『日本書紀』の編纂者は、「ときじくのかぐの実」とは橘のことであると記述している。
■ 橘とみかんの種類

  • 日本列島におけるミカンの仲間のただ一つの野生種で、近畿地方から西の海に近い山林中に生じ、枝にとげがある。酸味が強く食べられない。(平凡社刊『世界大百科事典』)

  • きしゅうみかん【紀州蜜柑】
    中国原産で、古く渡来し、ウンシュウミカンの普及する明治中期までの日本の代表的品種。甘味に富むが種子が多い。(小学館刊『日本国語大辞典』)

  • うんしゅうみかん【温州蜜柑・雲州蜜柑】
    日本で創製した品種。原種とみられる在来(築紫)温州をはじめ、早生温州、尾張温州、池田温州などの品種がある。「うんしゅう」は「温州」または「雲州」と書くが、中国の地名「温州(浙江省)」や日本の「出雲国」とは無関係。(小学館刊『日本国語大辞典』)
植物学者の牧野富太郎は、
  • 古代名のタチバナはキシュウミカンに似た食用ミカンである。

  • 野生のタチバナはこれとは異なる種類だとしてヤマトタチバナの名を与えた。
■ ミカンのルーツ

以下のように考えると話のつじつまが合う。

『魏志倭人伝』の時代は、食用ミカンが伝来する前であり、倭人は野生の橘などは酸味が強く食べる習慣がなかった。

田道間守が持ってきた「ときじくのかぐの実」が普及して、記紀が編纂された時代に橘と呼ばれ、おいしい果物として珍重された。

そして、のちの時代には紀州ミカンとなった。

紀州ミカンや日本の在来種などから品種改良され、現代の温州ミカンが作られて、明治中期以降普及した。

■ 田道間守はどこへ行った。

記紀によると田道間守は垂仁天皇(第11代)の時代の人。

安本先生の「天皇一代平均在位年数約十年説 」によると、垂仁天皇の活躍した時代は4世紀後半。

中国では、魏の後に建国した晋(西晋)が、北方の異民族の圧力に押されて、南方に進出し建国した東晋の時代。

東晋は柑橘類の集散地として知られる温州を含む。

倭国は中国の王朝に朝貢を行ってきた。後漢には倭国王師匠が、魏には卑弥呼が、西晋には台与が使者を送った。田道間守も垂仁天皇が東晋に送った使者ではなかったのか。 田道間守は、中国南部の東晋の温州あたりに行ったときに、食用ミカンの「ときじくのかぐの実」を手に入れたのであろう。

『古事記』『日本書紀』の田道間守の伝承は、垂仁天皇の時代に田道間守が東晋に派遣された史実があって、それを核として成立した伝承の可能性が高い。

崇神天皇の陵の全長は、ほぼ正確に東晋の尺度の1000尺にあたるという。 崇神天皇陵を築造する時には、東晋の尺度が倭国に伝来していたと考えられるのである。これも田道間守が倭国に伝えた東晋の文化なのではないだろうか。

 

 2.物部氏について

■ 県(あがた)の分布

「県」は天皇家の直轄地を指す場合が多い。

県の分布は九州が最も多く、次いで畿内に多い。分布が九州と畿内に偏っているのは、この地域が天皇と密接な関係にあることを示している。すなわち、天皇家の故地が九州にあって、のちに畿内に移ってきたことを想定させる。

地域別「県・県主」の数
地域県・県主の数百分率
 西海道(築紫、豊、肥、日向、薩摩、壱岐、対馬)23例41.8%
 畿内(倭、河内、摂津、山背)18例32.7%
 山陽道(吉備、周防)6例10.9%
 東海道(伊勢、尾張)4例7.3%
 南海道(讃岐)1例1.8%
 山陰道(丹波)1例1.8%
 北陸道(越)1例1.8%
 東山道(美濃)1例1.8%
 計55例100.0%


■ 銅鐸の年代

銅鐸の年代については諸説ある。

たとえば、銅鐸のはじめの年代については、右図のように学者によって3〜400年の違いがある。

銅鐸の終わりについて、佐原真氏は、邪馬台国のころは銅鐸は終わっていたと述べるが、奈良県教育委員会の考古学者寺沢薫氏は、次のように邪馬台国時代にも行われていたと述べる。

(銅鐸のはじまりを私は)中期の前葉からと考えています。せいぜいさかのぼっても前葉。それから、最後はおそらく、一般的には、弥生の終末といいますか、地域によっては、古墳時代に突入、近畿、奈良県が古墳時代に突入している頃まで、作っているところがあるだろうというところです。
(佐原眞・金関恕編『銅鐸から描く弥生時代』学生社刊)

『魏志倭人伝』には銅矛の記述はあるが銅鐸がまったく記録されていない。畿内説の寺沢氏の立場からは、邪馬台国時代にも畿内の近くで作られていた銅鐸が『魏志倭人伝』に登場しないことの説明が苦しいのではないか。また、佐原眞氏は銅鐸の年代を古く見過ぎているようである。
 
■ 銅鐸の分布

出土した銅鐸を、初期・最盛期・終末期に分けて出土分布を調べると、中国地方からは主に初期銅鐸が出土し、静岡地方では終末期銅鐸のみが出土する。 つまり銅鐸の発展段階とともに分布が西から東に移っている。(下図)

終末期の銅鐸が出土する地域は、物部氏が国造になっている例が多い。また、物部氏の本拠である河内の国の跡部郡からも銅鐸が出土している。



■ 庄内式土器の分布

徳島文理大学の石野博信氏は庄内式土器の出土する場所について次のように述べる。

下図で九州の例を挙げていますが、近畿より西側で庄内式土器がいちばんまとまって出てくるのが九州です。岡山ではいまのところ2,3点程度、鳥取県で2,3点ぐらい滋賀県はありますが、福井県でちょっとという感じです。関東では東京都内の板橋で一点と横浜でそれらしいのが一点出ています。ほかにもあるかもしれませんが、ごく少数です。(『古墳はなぜつくられたか』大和書房)

庄内式土器の分布は、畿内と九州に集中する点で、県・県主の分布と同じ傾向のように見える。しかし、図に示すように九州の庄内式土器は北九州全般に広がっているのに対し、大阪では「八尾とか東大阪」あたりに、また、奈良県では「磯城郡」に集中している。

九州の庄内式土器は、大和から伝わったということが云われるが、このような分布の状況 は、むしろ、その逆で、九州から畿内に伝わったと考えたほうが良いのではないか。

庄内式土器が広く普及している北九州から畿内へ移住した人たちが、移住先の土地で九州起源の土器を作ったと考えれば、畿内で限定された地域で庄内式土器が出土することの説明がつく。

■ 畿内の庄内式土器の出土地は物部氏の根拠地

大阪府の八尾や東大阪近辺の庄内式土器出土地域と物部氏の関係
  • 坂本太郎・平野邦雄監修『日本古代史族人名辞典』の物部氏の項によると、

    物部氏の本拠は河内国渋川郡(大阪府八尾市・東大阪市・大阪市の一部)の付近で、同系氏族・隷属民はすこぶる多く『八十物部』と称された。

  • 八尾市渋川にある渋川廃寺は、物部氏の氏寺と推測されている。
  • 物部守屋が蘇我氏と戦いで、兵を集めて最後の決戦をしたのが渋川郡跡部郷近辺であった。
奈良県磯城郡の庄内式土器出土地域と物部氏の関係
  • 『新撰姓氏録』は、大和の国の磯城の県主の祖先を饒速日の命の孫の日子湯支(ひこゆき)の命とする。
  • 『先代旧事本紀』では、磯城の県主の祖先を、饒速日の命の7世の孫の建新川(たけにいかわ)の命とも、建新川の命の兄の十市根(とおちね)の命の子の物部の印岐美(いなきみ)の連公(むらじのきみ)ともする。ここにあらわれる人名は物部系の人々である。
  • 山辺(やまのべ)の県主は、『先代旧事本紀』に饒速日の命の6世の孫の建麻利尼(たけまりね)の命であるとする。やはり物部系の人である。
  • 石上(いそのかみ)氏は、奈良県山辺郡石上郷を本拠とした氏族であったが、やはり、神饒速日の命の後裔氏族で、物部系の氏族である。
  • 『延喜式』にのっている志貴御県坐(しきのみあがたにます)神社の祭神は饒速日の命とされている。
これらの事実は庄内式土器と物部氏の強い関係を示すものである。

■ 奈良県と大阪府の共通地名

前回も説明したように、奈良県と大阪府の、庄内式土器が多量に出土する地域のあたりには、大和の磯城郡と河内の志紀郡のように共通の地名がいくつも存在する。


以上のようなさまざまな事実は、饒速日の命にともに九州から移動してきた物部氏が河内に定着し、やがて大和とその周囲に勢力を伸ばしていった状況を示すものと考えられるのである。



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