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第228回 神武天皇の東征経路 その1

 

 1.神武天皇東征

■ 生誕地

『日本書紀』では、神武天皇の若いときの名は、「狭野(さの)尊」であったと記されている。

江戸時代の漢学者・河村秀根は、「狭野」は地名であり、宮崎県諸県郡高原町大字蒲牟田字狭野のことであるとする。(右図)

また、白尾国柱の『麑藩(げいはん)名勝考』(1795年)や、狭野神社の『社伝』では 神武天皇は狭野で生まれたとしている。

なお、「狭野」という地名は和歌山にもある。神武東征ゆかりの地名か?

■ 東征前の御所

宮崎県宮崎市神宮町の宮崎神宮は、神日本磐余彦(かんやまといわれひこ)の尊 (神武天皇)を主神とし、父の鵜葺草葺不合の尊と母の玉依姫の命を配祀する。宮崎神宮の 「社伝」には、ここは神武天皇が東遷以前に住んでいた地と記されている。

■ 船出

伝承によると、神武天皇は高千穂の宮を出てから宮崎県児湯郡都農町川北にある都農(つの)神社 に寄ったとされている。都農神社は『延喜式』にのっている小社で、祭神は大己貴 (おおなむち)の神である。

さらに、神武天皇は美々津(古名は美弥、耳津とも書く)に寄港する。ここから東征の旅に船出し たといわれている。美々津は西方は山、東方は日向灘をのぞみ、耳川が海にそそぐ。

美々津には立磐神社があり、神武天皇をまつる。この神社に神武天皇が順風を待つ間、 少し休憩したという腰掛石があり、「神武天皇進発の碑」が建っている。

なお、美々津港の入り口にある黒島と八重島のあいだからは、古来船出をしない習慣が ある。これは天皇の東征軍がこの間から出航して、二度と戻らなかったので、それを忌むためとい れている。



■ 宇沙(宇佐)

美々津を出港後、北上して豊の国の宇沙に着く。宇沙の国造の祖の宇沙都比古と宇沙都 比売が宇沙の川上に足一騰(あしひとつあがり)の宮をつくってもてなしたという。

『先代旧事本紀』によると、神武天皇の時代に高産巣日尊の孫の宇沙都比古を国造に定めたと記されている。る。

■ 岡の水門

つぎに筑紫の岡の水門にいたる。筑前の国遠賀郡芦屋町で遠賀川の河口付近である。 ここに岡田の宮をつくる。 近畿へ行くには宇佐から直接東に向かった方が距離的に早い のだが、やや西よりの岡の水門の地に一時都をかまえたのは、北九州の旧邪馬台国の兵を鳩合 するためか。

■ 安芸の国、吉備の国

『古事記』によると、神武天皇は、岡田の地から出発して、安芸の国の多理(たけり)の宮(広島県安芸郡府中町)、そして、吉備の国の高島の宮(岡山県高島の地かという)をへて、大和に向かう。しかし、『日本書紀』では、途中、安芸の国の埃(え)の宮に滞在したことになっている。

■『古事記』と『日本書紀』の記述の差

神武東征の順路の記述で『古事記』と『日本書紀』にやや違いがある(下表参照)。

『古事記』の順路(日向から難波にいたる前まで)
途中の地現在の場所滞在期間登場人物
豊国、宇沙(足一騰の宮)大分県宇佐市宇佐宇沙都比古、宇沙都 比売
筑紫、岡田の宮福岡県遠賀郡芦屋1年
安芸の国、多理の宮広島県安芸郡府中町7年
吉備、高島の宮岡山県児島郡8年
速水の門豊後水道槁根津日子(倭の国造らの祖)

『日本書紀』の順路(日向から難波にいたる前まで)
途中の地現在の場所滞在期間登場人物
速水の門豊後水道椎根津日子(珍彦、倭直部の祖)
筑紫の国、菟狭
(一柱騰の宮)
大分県宇佐郡菟狭津彦、菟狭津媛(菟狭国造の祖)
天の種子の命(中臣氏の祖)
筑紫、崗の水門福岡県遠賀郡
(遠賀川河口)
2ヶ月弱
安芸の国、埃の宮広島県安芸郡2ヶ月強
吉備、高島の宮岡山県児島郡3年
  • 速吸(はやすい)の門

    『日本書紀』では日向を出発してすぐ速吸の門 にかかり、『古事記』では吉備の高島の宮のあとで、速吸の門にかかっている。東征 の途中でもどるのもおかしいので、『古事記』の記述の速吸の門は豊後水道より明石 海峡とすると、順路が自然になる。

    『日本書紀』の記述による道すじが自然なのは、本来の伝承をそのまま伝えたためで なく、遊離していた別系の伝承を、より合理的と思われる場所に挿入したためと思われ る。

  • 理の宮と埃の宮

    『古事記』の多理の宮は広島県安芸郡府中町にあったとされる。

    いっぽう、『日本書紀』の記す埃の宮は、昔の安芸の国高田郡可愛(え)村の、吉田、山手の付近とされる。

    「可愛」の地名は、日向の邇邇芸の命の可愛の山陵や、『日本書紀』の一書に、須佐の男の命が安芸の国の可愛の川上に天降ったとする伝承などに現れ、これらの伝承と関係があるのかもしれない。

    広島県・島根県両県を流れる江川(ごうのかわ)は古くはエノカワとよばれたが、「え」 の発音は、平安初期以前では江(や行)と可愛(あ行)は別なので、平安初期以前に可愛川を江川とは表さないはず。平安以後ならば江を使って表記を変えた可能性がある。

  • 滞在期間

    期間の長さは異なるが、記紀ともにつぎのような規則性があるように見える。

    「ある氏族の祖先となる人物が登場する地では、滞在期間が記されていない。逆に、滞在期間の記されている地では、ある氏族の祖先となる人物は登場しない。」

    このことも、ある氏族が登場する場所についての伝承と、滞在期間が記されている場所についての伝承が、それぞれ別系のものであったことを思わせる。

 2.古代日本語探検

■上代特殊仮名遣い

現代の日本語と奈良時代以前(1200〜1300年以上前)の日本語との大きな違い は、母音の数がちがうことである。

現代の日本語には、母音は五つあるが、古代には、日本語を表す万葉仮名の使い方の規則性から八つの母音のあったことが知られている。

八つの母音を、甲類と乙類に区別し、これを「上代特殊仮名遣」の甲類乙類の別という。 甲類乙類の区別があるのは五十音図のすべてではなく、次の13である。

「き」、「け」、「こ」、「そ」、「と」、「の」、「ひ」、「へ」、「み」、「め」 、「も」、「よ」、「ろ」
(ただし、「も」の区別があるのは古事記だけ。)

■乙類の母音とはどんな音であったか

八種類の母音で甲乙の別が無いのは/a/と/u/である。発音は舌の位置と口の開き具合の母音図によって表わされる(右図)。

具体的な発音は分かっていないので、乙類の母音がどのような音価をもっていたかは論 争のまとである。現時点で十分な解答が与えられているとは言いがたい。

■ 音韻と音声

たとえば、「l 音」と「r 音」とは、音が異なる。しかし、日本語では、「理論」を、「lilon」と発音しようが、「riron」と発音しようが、意味は、異ならない。

つまり、日本語では、「l 音」と「r 音」との、「音韻的区別」はない。「l 音」と「r 音」は、日本語では、「音声(発音)」は異なっていても、意味の違いをもたらさない。このようなばあい、「l 音」と「r 音」とは、日本語では、同じ「音韻」とみなされているという。

■音価推定の問題

万葉仮名は漢字の音や訓をかりて、日本語を表記したものなので、漢字の古い中国音が判れば日本語の音がわかる。しかし次にあげるような問題がある。

  1. 中国音は時代によって変わる。

    たとえば、「支」という文字は、
    上古音(周・秦・漢)では、キに近い音
    中古音(隋・唐)では、シに近い音

    したがって、上古音をかりて表記しているのか、中古音をかりて表記しているのかを弁別できなければ、日本語の音価が決まらない。

  2. 中国音は地域によって変わる。

    たとえば、「迷」という文字は、
    北方音(唐の長安音)では、メイに近い音
    南方音(江南音)では、マイに近い音

    したがって、北方音をかりて表記しているのか、南方音をかりて表記しているのかを弁別できなければ、日本語の音価が決まらない。

  3. 日本語の音と同じ音をもつ漢字が中国語にない場合がある。

    漢字に「to」、「no」、「lo」の音はあったが、「tu」、「nu」、「lu」の音が無かっ た。

    「都」は「to」の音だが、「ト」、「ツ」の両方に使われた。
    「怒」、「努」は「no」の音だが、「ノ」、「ヌ」の両方に使われた。
    「魯」、「盧」は「lo」の音だが、「ロ」、「ル」の両方に使われた。

    このような場合には、中国音が正確に日本の音を表しているとは限らない。

(このテーマは次回に続く)

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