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第234回 魏志倭人伝を読む
邪馬台国の遺物

 

1.邪馬台国の遺物

魏志倭人伝を丁寧に読んだなら、邪馬台国を畿内に持って行くことは不可能である。たとえば、
  • 魏志倭人伝は、邪馬台国が伊都国の南にあることを、3回にわたって記述している。伊都国は糸島半島であるから、邪馬台国はその南であって、はるか東の畿内に持って行くことは不可能。

  • 魏志倭人伝には、帯方郡から邪馬台国まで12000里で、九州に上陸するまでが10000里であると書かれている。残りは2000里であり、北九州を中心に2000里の円を描いたら邪馬台国はその中にあるはずである。
    北九州から2000里の距離は九州内であり、畿内にはとうてい到達できない。
邪馬台国論争は文献が出発点である。文献に描かれた事実を無視することはできないはず。

という話を前回したが、考古学の分野では、文献を無視して畿内説を説く学者が圧倒的に多い。  しかし、考古学的に見て畿内説を支持する根拠があるのか?

安本先生は、考古学的に見ても、畿内説を支持する根拠はないと述べる。今回は、邪馬台国の考古学的な遺物の状況をまとめて説明する。

■ 鉄族

『魏志倭人伝』には、倭人は「鉄の鏃」を使うと記されている。

講演中の安本先生 鉄族の出土状況を見ると、福岡県からは奈良県の約100倍の鉄族が出土している。図2をみれば、「西高東低」の傾向は明らかである。これだけ見ても、邪馬台国畿内説が成立するとは思えない。

それでも、『魏志倭人伝』になんの記載もない「土器」の話などを持ち出し、複雑な理論構成をして、「邪馬台国は畿内説で決まりだ。」などと断言する考古学者がいる。

図2を見ると、鉄族は福岡県と熊本県から、特に多く出土する。これは、邪馬台国とその南にあった狗奴国との対立状況を反映していると見ることができる。

畿内説論者の中に、狗奴国を東海方面に持って行く説があるが、図2によれば、愛知県など中部東海地域からはほとんど鉄族が出土していない。狗奴国をこの地域に持って行くことも無理がある。


■ 三角縁神獣鏡神獣鏡

畿内説を説く考古学者は、三角縁神獣鏡神獣鏡を卑弥呼が魏からもらった鏡だとして、これが奈良県を中心に分布していることを、邪馬台国は奈良県にあったことの論拠にしている。 しかし、
  • 三角縁神獣鏡は中国から一面も出ない。
  • 三角縁神獣鏡は、卑弥呼の活躍した3世紀ではなく、4世紀の古墳から多数出土する。
このような三角縁神獣鏡をもってきて、邪馬台国は畿内と主張するのは不自然である。

■ 寺沢薫氏の見解

寺沢薫氏は「邪馬台国=畿内説」の立場だが、事実に基づいて発言される良心的な考古学者である。

寺沢氏は著書『王権誕生』の中で次のように述べる

鉄器が弥生時代を通じて九州で大量に出土する事実はかわらない。鉄器が腐食するからとはいっても、近畿だけが錆びてなくなることはあるまい。

あるいは、

この(弥生時代後期の)段階で、近畿中枢部の首長が日本海の鉄生産を掌握したとか、北部九州が半ば独占的に確保していた鉄素材入手ルートが崩れ、近畿の首長が独自に交易や外交ルートを切り開き、新たな鉄素材の流通システムを作り上げた、といった近畿勢力の巻き返し論にも同調できない。

その近畿勢力の巻き返しと独自の外交を想定し、その背景として北部九州以外での鉄器化を過大に評価することは、あまりに恣意的で短絡的な解釈と言うしかない。

 県別に見た鉄器の出土数(寺沢薫氏による)

鉄器は弥生時代を通じて圧倒的に北部九州に集中する。

3世紀はじめにヤマト王権が誕生してもいぜんこの傾向は変わらないが、東日本にも普及しはじめる。

この直後、3世紀後葉以降の定型化した前方後円墳からの大量の鉄器副葬によって九州と近畿の鉄器量は逆転する。

(図は、川越哲志『弥生時代鉄器総覧』[2000年]を一部時期補正して寺沢薫氏が作成)

つまり、図2や寺沢氏の県別鉄器出土数の図を見れば、弥生時代に北九州と畿内勢力が戦争した場合に、鉄を持つ北九州が勝利することは明らかである。
 
■ 魏志倭人伝に記載されるもの

鉄族、鉄剣、絹など、少なくとも魏志倭人伝に出でているものをひとつひとつ取り上げたら、下表に示すように、何一つとして畿内が有利なものはない。

たとえば、魏志倭人伝に記載される絹について、古代絹の権威・布目順郎氏は次のように述べる。
 諸遺物福岡県奈良県
『魏志倭人伝』記載の遺物

大略西暦300年以前
弥生時代の遺物
弥生時代の鉄鏃398個4個
鉄刀17本0本
素環頭大刀・素環頭鉄剣16本0本
鉄剣46本1本
鉄矛7本0本
鉄戈16本0本
素環頭刀子・刀子210個0個
絹製品出土地15地点2地点
10種の魏晋鏡37面2面
古墳時代の遺物

大略西暦300年以後
三角縁神獣鏡49面100面
前方後円墳(80m以上)23基88基
前方後円墳<100m以上)6基72基
弥生時代にかぎると、絹の出土地は福岡、佐賀、長崎の三県に集中する。

前方後円墳の時代、つまり4世紀とそれ以降になると奈良や京都でも出土しはじめる。

つまり、魏志倭人伝の絹の記事へ対応できるのは北部九州であり、邪馬台国はその範囲の中で求めるべきだ。
■ 結論

以上のように、考古学的遺物の面から見ても、邪馬台国の時代に、北九州をしのぐ勢力が畿内にあったとは考えられない。邪馬台国は北部九州にあったと考えるのが妥当である。

2.風雲の5世紀

4世紀末から5世紀にかけて、万をこえる倭の軍隊が朝鮮半島の奥地まで侵入し、戦いをくりひろげたことが、高句麗の広開土王の碑文に記されている。

そして、それを裏づける記事が『古事記』『日本書紀』『風土記』『万葉集』や、朝鮮の史書『三国史記』『三国遺事』、あるいは、中国の史書『宋書』などにみえる。

■ 広開土王碑文

広開土王碑文は、朝鮮半島に侵入した倭について次のように記す。
  • 400年: 新羅の国境に倭人が満ちていたが、広開土王は歩騎五万を派遣して新羅を救った。

  • 404年:倭は不軌(無軌道)にも、帯方界に侵入した。
    帯方界といえば、現在のソウルからその北のあたりをさす。倭は朝鮮半島のそうとう奥地まで侵入している。

  • 407年:広開土王は、歩騎五万を派遣し、倭と合戦して、残らず斬り殺し、獲得した鎧ナ(がいこう)は一万余領、持ち帰った軍資や器械は数え切れないほどであった。
■ 朝鮮半島での倭の勢力

広開土王碑文によれば、「倭賊は退却し」、「壊滅し」、「残らず斬り殺された」ことになっている。

しかし、歴史学者・坂元義種氏は、必ずしも一方的な状態ではなかったと、次のように述べる。

好太王碑文によると、倭軍は高句麗によってさんざん敗られたことになっているが、実際はかならずしも「倭寇、潰敗し、斬殺すること無数」というわけにはいかなかったようである。

倭軍が何度となく出兵して高句麗軍と戦っていることは、高句麗側が決定的な勝利をおさめることができなかった証拠といってよかろう。

また、『三国史記』によると、(新羅王)の実聖尼師今(にしきん)元年(402)三月、新羅は倭国と好(よし)みを通じ、奈勿王(なぶつおう)の王子未斯欣(みしきん)を人質として倭国に送ったという。

これは、高句麗の庇護だけでは迫りくる倭軍の脅威を払いのけることができなかったことを示しており、これまた、朝鮮半島における倭の勢力を物語るものであろう。

百済や新羅の王族が人質として倭国に送られている事実や、たび重なる倭軍と高句麗との戦闘を考慮するならば、好太王碑文の「倭、辛卯の年を以って来りて海を渡り、百残(百済のこと)□□(二時欠落か)新羅を破り、以て臣民となす」という記事がまったくの妄言ではないことが理解されるであろう。

■ 倭の軍事権は朝鮮半島に及んでいた

五世紀前半に、倭王済(せい)や武(ぶ)は、客観的存在である中国の南朝の宋から次の爵号を与えられている。
  • 使持節・都督 倭 新羅 任那 加羅 秦韓(辰韓)慕韓(馬韓)六国諸軍事・安東大将軍・倭国王
ここに、新羅の名が入っていることが注目される。

広開土王碑文の記述や、神功皇后が新羅を攻めた伝承と関係する事実があったのであろう。

■ 倭、百済、高句麗の勢力範囲

百済の爵号
  • 使持節・都督 百済諸軍事・鎮東大将軍・百済王(420年、430年)
  • 使持節・都督 百済諸軍事・寧東大将軍・百済王(521年)
高句麗の爵号
  • [都督]営州諸軍事・征東大将軍・営州刺史・楽浪公・高句麗王(355年)
  • 使持節・都督営州諸軍事・征東将軍・高句麗王・楽浪公(413年)
  • 使持節・散騎常持・都督営・平諸軍事、東騎大将軍、開府儀同三司、高句麗王・楽浪公
つまり、客観的存在である中国の南朝宋の認めた五世紀ごろの、倭、百済、高句麗の三国の勢力範囲は互いに重ならず次のとうりである。(上図参照)

  • 朝鮮半島の南半分の百済の領域を除く地域と日本。三国時代の辰韓、弁韓の地と日本。
  • 百済
    百済の地。三国時代の馬韓の地。
  • 高句麗
    遼東半島の地と、南満州および朝鮮半島の地。
■ 神功皇后

天皇一代の平均在位年数を10年とする年代論によると、神功皇后は400年前後に活躍した。これは、広開土王碑文で倭が朝鮮半島に進入した時代である。

400年前後と見られることがらで、次のようなことは、日本側の史書と、朝鮮側の史書とが、 ともに記している。これは、神功皇后伝承には400年頃の客観的な歴史的事実が反映されて いると理解できるのではないか。
  • 日本軍が新羅の王城までいたった。
  • その後に、新羅の王子、未斯欣(みしきん)が、日本に人質としてきた。
    (未斯欣は朝鮮側の表記。『日本書紀』では微叱己知波珍干岐(みしこちはとりかんき))
  • 未斯欣は、倭をあざむいて、新羅に逃げて帰った。
■ 神功皇后陵

神宮皇后陵について、古文件は次のように記す。
  • 『古事記』   狭城の楯列の陵
  • 『日本書紀』   狭城の盾列の陵
  • 『延喜式』   狭城の盾列の池上陵
奈良県奈良市佐紀町から歌姫町・法華寺町にかけての、奈良盆地北部、佐紀丘陵南斜面にかけて、佐紀盾列(たてなみ)古墳群が存在する。

佐紀盾列古墳群は大きく東群と西群にわけられ、神功皇后陵のある西群のほうが古い。

大塚初重等編の『古墳辞典』によると

西群は、4世紀後半から5世紀前半ごろの、東群は5世紀中葉から後半ごろの築造と考えられる。

神功皇后は400年前後に活躍したとすると、神功皇后陵の年代と合う。



  ■ 鉄(てってい)

『日本書紀』の「神功皇后紀」46年の条に、百済の王が、日本の使臣に「鉄40枚」を与えたとの記事が見える。

佐紀盾列古墳群の東群に属する宇和奈辺(うわなべ)古墳の陪塚から多量の鉄が出土した。(大型282枚、小型590枚)

は、新羅の慶州にある金冠塚からも多量に出土している。

森浩一・石部正志両氏は、この鉄と佐紀盾列古墳群の関係について次のように述べる。

五世紀初頭を中心にした約一世紀間に構築された畿内の大古墳のうちで、多数の鉄 製武器類を副葬する例は、河内の古市誉田古墳群、和泉の百舌鳥古墳群がとくに顕著 である。

大和では、河内・和泉ほどではないが、おなじ傾向がこの佐紀古墳群と馬見 古墳群にあらわれている。

南朝鮮に鉄の産地があったことは『魏志』の東夷伝弁辰の 条(「国鉄を出す。韓・・倭みな従ってこれを取る、……」)にうかがうことができる ので、大和勢力の南鮮出兵の盛衰が古墳に副葬された鉄素材や鉄製品の増加や減少の 傾向に関係があるとすれば、奈良盆地の古墳群のうちでも、この佐紀古墳群は南鮮出 兵に関与したか、出兵の影響を直接につよくうける集団の古墳群と想定したい。

『日本の考古学Wー古墳時代』〈上〉所収、河出書房新社刊

■ 倭の新羅進出の信憑性

400年前後の、倭と朝鮮半島の関係をまとめると以下のようになる。これらを総合すれば、390〜410年ごろに、日本側が新羅の王城までいたったことは確実である。
  1. 天皇の一代の平均在位年数を、約10年とする年代論によるとき、神功皇后の時代は、西暦390〜410年ごろとなる。

  2. 『古事記』『日本書紀』ともに、日本軍が「新羅の王の門」にまでいたったと記している。また『風土記』『万葉集』『続日本紀』『古語拾遺』その他古代の史書は、こぞって新羅進出に関係する記事をのせている。

  3. 「広開土王碑文」には、391年に、倭が「海を渡ってきて、百残(百済)、□□□羅を破り、これを臣民とする」と読める記事がある。

  4. 「新羅本紀」は、393年に「倭人が、金城(新羅の王城)を包囲して、五日も解かなかった」と記している。

  5. 「広開土王碑文」は、400年に、「倭が、新羅城のうちに満ちあふれていた」と記している。

  6. 『三国史記』は、402年に、「王子未斯欣が、倭の質になった」と記している。

  7. 「広開土王碑文」によれば、404年にも、倭は、「不軌にも帯方界に進入」している。

  8. 「広開土王碑文」によれば、407年にも、万を超える倭が進出している。




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