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第239回 謎の四世紀 
崇神天皇の時代

 

1.韓国の鉄剣・鉄刀と草薙の剣

会場のようす 須佐の男の命が八岐の大蛇を退治して手に入れた草薙の剣は、どのような剣であったのか議論がある。

草薙の剣を見たという言い伝えがある。

江戸時代の垂加神道の学者・玉木正英が、その著『玉籖集』で、熱田神宮の大宮司社家4、5人が草薙の剣を見た時のようすを記録している。
  • 長さは、2尺7、8寸(81〜84センチ)ほど。
  • 刃先は菖蒲の葉のような形で、中ほどはむくりと厚みがある。
  • 本のほう(つかのほう)6寸(18センチ)ほどは、筋立っていて、魚の骨のようであった。
  • 色は全体に白かった。
また、刀剣研究家の川口陟氏が、草薙の剣についての熱田の尾張連(おわりのむらじ)家の言い伝えとして、次のような内容を紹介している。
  • 長さは、1尺8寸(54センチ)。
  • 鎬(しのぎ)はあって横手がない。
  • 柄は竹の節のようで、5つの節がある。
  • 区(まち:刃と柄の境の部分)は深くくびれている。
  • 神体のいれものは、樟の自然木を横に切り、中をくりぬいてある。長さは4尺(1.2メートル)。
このような状況から、草薙の剣は鉄製の剣か銅製の剣か議論が分かれている。

刀剣研究家の石井昌国氏はNHK編『歴史への招待』のなかで、草薙の剣について次のように推理する。

非常にむくみがあってむっくりとしているというのは、やっぱり銅剣ですよ。

それから魚の背骨のようなところがあるといっておりましたね。そうすると銅剣以外にそういうことは考えられません。

そうすると保存する場所と、刀の状態から文献的にいきますと、どうしても有柄式の細型銅剣で、区(まち)が深く柄は5節位あって、長さは1尺8寸から2尺ぐらいといったところに落ち着くわけです。

従来、このように刀身がむっくりとして柄の部分に魚の背骨のようなところがあるのは、銅剣である決定的な証拠とされていた。

しかし、今回の韓国旅行で、有柄式銅剣と同じような形の、鉄製の剣のあることがわかり、石井氏のように剣の形の特徴から銅剣であると判断することは必ずしも正しくないことがわかった。

韓国・慶州博物館で展示されていた剣は、柄が青銅製で、剣が鉄製であるが、区(まち)がくびれていて、柄が魚の骨のようなかたちであり、熱田神宮の言い伝えとあう。

また、草薙の剣は有柄式の剣ではなく、素環頭(そかんとう)太刀であるとする説もある。

『古事記』の記述では、草薙の剣は「都牟刈(つむがり)の大刀」と呼ばれている。

「つむ」とは日本語の「おつむ」や、沖縄語(首里方言)で「頭」のことを言う「ちぶる」という言葉の語源となった言葉である。

「おつむ」は「おつむり」とも「「つむり」「つぶり」ともいう。 「都牟刈(つむがり)」は「頭曲(つむまが)り」と理解すべきはないか。

とすれば、都牟刈の大刀は、すなわち、頭に丸い輪の付いた素環頭太刀である可能性がある。

 

2.崇神天皇の年代

治世の年代が明らかな天皇
  • 第21代 雄略天皇 478年 (雄略天皇=倭王「武」。「武」が南宋に使者を送った年)
      ↑
      この間、10代108年  1代あたり平均10.8年
      ↓
  • 第31代 用明天皇 586年 (記紀の記載が一致するので記載された年代が信用できる)
      ↑
      この間、19代208年  1代あたり平均10.9年
      ↓
  • 第50代 桓武天皇 794年 (在位期間781〜806年の中央値)
いずれの期間も天皇の在位期間は平均10.8年ほどである。21代雄略天皇から50代桓武天皇までの全期間をとっても、この値は変わらない。

第10代崇神天皇は雄略天皇の11代前の天皇なので、平均在位年数10.8年として計算すると

    478−10.8×11=359

すなわち、崇神天皇は359年ごろに活躍した天皇。

崇神天皇の年代をこのように推定することによって、整合的に説明できることや、矛盾することがらを検討してみる。

安本先生が推定した諸天皇の活躍年代


■ 崇神天皇陵古墳の年代

崇神天皇陵古墳について東京大学の考古学者・斉藤忠氏は次のように述べる。

今日、この古墳の立地、墳丘の形式を考えて、ほぼ4世紀の中頃、あるいはこれよりやや下降することをかんがえてよい。

崇神天皇陵が4世紀中頃またはやや下降するものであり、したがって崇神天皇の実在は4世紀の中頃を中心とした頃と考える・・・

以上、斉藤忠「崇神天皇に関する考古学上の一試論」『古代学』13巻1号

また、考古学者の森浩一氏・大塚初重氏も

4世紀の中ごろ、または、それをやや降るころのもの

とする。(『シンポジウム 古墳時代の考古学』)

崇神天皇陵古墳の年代に関する、考古学者のこのような見解は、崇神天皇の在位年代が359年ごろとする安本先生の推論と整合している。

■ ホケノ山古墳の年代

2005年11月4日の朝日新聞に「最古の古墳? 学生が発見」と題して、次のような内容の記事が掲載された。

奈良県桜井市箸中にある堂の後(どうのうしろ)古墳が、日本最古とされるホケノ 山古墳(3世紀半ば)より古い前方後円墳である可能性が高いことが、天理大の学生等によるレーダー探査でわかった。

ホケノ山古墳は、堂の後古墳の周濠の一部を埋めたり削ったりして作られたことが、調査で明らかになった。

これに対し、安本先生は「ホケノ山古墳が3世紀半ばと推定していること自体が 間違っていると述べる。

安本先生 その理由は、
  • ホケノ山古墳の墳形は、崇神天皇陵とよく似ており、ホケノ山古墳が崇神天皇陵と近い年代の4世紀以後に築造されたものと推定される。

  • ホケノ山古墳から出土している画文帯神獣鏡は、中国で西暦280年以降に作られたもので、日本では、邪馬台国の時代よりも少しあとの3世紀末から4世紀に普及した鏡と考えられる。

    邪馬台国時代には、位至三公鏡や蝙蝠鈕座内向花文鏡が用いられていた。

3.九州の古墳

最近の新聞記事から、古墳の発生に関わる記事を紹介。

■ 南九州に最古の古墳

西都原古墳群の西都原81号墳が、国内最古級の前方後円墳であることが確認された。

西都原81号墳は長さ52メートルの纏向型前方後円墳で、出土した土器から築造は3世紀中ごろと考えられ、南九州では最古の古墳。

従来、纏向型古墳は、ホケノ山古墳など奈良県で発生したものが各地に展開したと言われてきたが、ホケノ山古墳の年代は、上記のように4世紀以降の可能性があることから、前方後円墳の起源が九州にある可能性を考える必要がある。

■ 国内最大の「木槨」 宮崎の古墳から

宮崎県吉村町の纏向型前方後円墳「檍(あおき)1号墳」で、3世紀末〜4世紀前ごろの木製墓室、木槨跡が確認された。

従来、国内最大だったホケノ山古墳の木槨(6.7×2.7メートル)を上回る7.2×4メートルの国内最大の木槨である。

檍1号墳はホケノ山古墳と近い時期の築造と推定されており、木槨についても、その起源を九州とする見方を検討する必要がある。

4.新・吉野ケ里学シンポジウムから

10月9日に佐賀県立美術館ホールで、吉野ケ里遺跡と「邪馬台国」の実像に迫ると銘打って「新・吉野ケ里学シンポジウム」が開催され、安本先生が基調講演を行った。

佐賀新聞に掲載されたパネリストの意見をいくつか紹介  詳しくは >>

  • 清水眞一さん  前・奈良県桜井市教委文化財課長

    大和には”巨大ムラ”がない

    私は二十年間、大和の中央部・桜井市で「邪馬台国は何処」とのテーマを持って、発掘調査に従事してきた。その結果として、邪馬台国が成立して女王卑弥呼を擁立するまでの弥生時代中・後期に、大和には他地域を圧倒するような「ムラ」や「墓」が見られないことに気付いた。

    代表的なムラである唐子・鍵遺跡も、畿内の同時期の池上・曽根遺跡や田能遺跡などと比較して、飛び抜けて大きいムラとは思えなかった。逆に、墓に関しては、西日本各地と比べて遅れた地域との思いも抱いたことだった。

    であれば、その次の古墳時代に入って、纏向の地に百メートル以上もの巨大古墳が、なぜ突如として築造されるのか。これは、大和の地に別の地域の人々が入って来たと考えざるを得ない状況とみた。

    では、誰が何処からきたのか?考古学の資料からは、特定の地域が限定できない。となれば、卑弥呼の邪馬台国は、北部九州のどこかではないかと思われる。

  • 佐古和枝さん  関西外語学院教授(考古学)

    考古学的事実と文献整合を

    昨今、北部九州の伊都国連合の時代から、倭国乱を経て、大和を中心に女王卑弥呼を共立する邪馬台国連合が誕生したと見る論者が多い。

    しかし、『魏志』倭人伝では、倭人の武器に矛や鉄鏃が挙げられている。この時期、畿内には矛に相当する武器はないし、畿内の鉄器の出土総数は、北部九州や山陰の一遺跡にの出土数にも及ばないほど貧弱である。

    さらに、諸国を監察する「大卒」が伊都国に常駐すること、女王国の東に海を渡ると倭種の国があることなどをみれば、『魏志』倭人伝にいう「倭人」や「倭国」、「女王国」は北部九州社会のことと考えるのが妥当であろう。

    東の海の向こうにいる倭種の話ではないから「倭人伝」。そう考えれば、「倭国乱」も「邪馬台国」も北部九州の事柄だということになる。

    邪馬台国の所在地は、考古学的な事実関係と『魏志』倭人伝との整合性の中で考えるべきである。





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