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邪馬台国の会事務局

高千穂論争と南九州神話の旅

 (2004.10.15-17)


 1日目   高千穂峡-可愛の岳-美々津-宮崎

今年の邪馬台国の会の見学旅行は、「高千穂論争と南九州神話の旅」と題して、邇邇芸(ににぎ)の尊、彦火火出見(ひこほほでみ)の尊、鵜葺草葺不合(うがやふきあえず)の尊たちの活躍の舞台・南九州を訪れる三日間の旅である。

季節は秋、さわやかな風景を楽しみながら歴史を勉強しようというすばらしい企画のはずだった。 しかし、今年は例年になく台風が多い。すでに、上陸台風は十個を数え、九月以降毎週のように 台風が来襲する。

そのおかげで私たちの旅行は、台風の当たり年に、台風シーズンのど真ん中で、しかも、台風銀座の南九州を三日間も旅行するとんでもない無謀なプランということになってしまった。

ところが、邪馬台国は九州に存在したと信じる邪馬台国の会ご一行様は、女王卑弥呼のご加護によってしっかりと守られていたのだ。なんと、三日間ともこれ以上望みようがないほどの好天に恵まれたのである。

さて、熊本空港に降り立った一行は、まず阿蘇の雄大な景色を楽しみながら秘境高千穂へ。ここには、神話の舞台が一式完全に取りそろえてある。こんな山奥の狭いところに、神々がうち揃って天下りして来なくても良さそうなものを。さぞかし窮屈な思いをしたことであろうなどと、つまらないことを考えながら、神話の世界に歩き出した。

由緒ありげな高千穂神社を参詣し、なぜか撮影禁止の天の岩戸を遠くから眺める。安の河原では無心に石を積む人もいて、それぞれのオレ流で、秘境の雰囲気をゆっくりと味わっていた。

観光案内板の西郷隆盛と邇邇芸命のイラスト次の目的地、邇邇芸の尊の陵墓候補地・可愛岳(えのだけ)は延岡の少し北にある。 ここは西南戦争のときの西郷隆盛の山越え敗走路で、山の麓には西郷隆盛の関連の史跡が多い。西郷さんはやはりこのあたりの観光の目玉で邇邇芸の尊は少し影が薄い。

傾いてきた太陽を気にしながら神武天皇東征出発の地、美々津へ急ぐ。ここで困った事態発生。美々津の町の中で道が細すぎてバスが曲がれない。

邪馬台国の会(特に事務局の一部)は、歴史に関しては並はずれた物好きオタク集団なので、観光バスの運転手さんも知らないところへ行こうとする。おまけに、費用削減のため下見もロクにしていないので、運転手泣かせのこんなハプニングが時々起きる。

しかし、苦労の甲斐あって、美々津で見た日没はなかなか感動的だった。神武天皇もこんな夕焼けを見て東への旅を始めたのだろうかなどと感傷に浸る。やがてお疲れモードで静寂の世界に入ってしまった私たちを乗せて、バスは夜道を粛々と走り、おなかの虫が鳴き出す頃にようやく宮崎市に到着。

恒例の勉強会は明晩なので、宮崎の夜はフリータイム。温泉で長い一日の疲れをいやす人、部屋で歴史の議論に興じる人、ネオンを求めて町に繰り出す人など、みんな思い思いの夜を楽しんだようだ。



阿蘇の遠望
阿蘇の遠望 高千穂神社
高千穂神社 安の河原
安の河原 可愛の山陵候補地で先生の解説
可愛の山陵候補地で先生の解説 美々津の夕焼け
美々津の夕焼け 美々津の海岸で先生の説明を聞く
美々津の海岸で先生の説明を聞く

 2日目   鵜戸神宮-西都原古墳群-宮崎神宮-平和台公園-狭野神社-霧島神宮

宿の前の大淀川の豊かな流れ
宿の前の大淀川の豊かな流れ 鵜戸神社に向かう階段
鵜戸神社に向かう階段 洞窟の中の鵜戸神社
洞窟の中の鵜戸神社 運玉のターゲット亀石
運玉のターゲット亀石 西都原考古博物館
西都原考古博物館
翌日も快晴。窓を開けると目の前に大淀川が朝日を浴びて滔々と流れている。往時、この川を遡って天孫の一族が都城や鹿児島方面に進出していったのかと想像がふくらむ。

二日目の出だしは、まず、南下して鵜戸(うど)神宮へ向かう。ここには神武天皇の父・鵜葦草葦不合の尊が祀られており、後ろの山はその陵墓・吾平山上陵の候補地のひとつである。

拝殿はバスの駐車場から小山をひとつ超えたむこうがわだ。階段がたくさんあって年配のかたはちょっと苦しそうだったが、狭い道を抜けると突然まっさおな海が目の前に広がって苦労が報われる。

何でこんな所に・・と思わせるような断崖絶壁の洞窟に鵜戸神宮はある。台風の時はどうなるんだろうなどと、またよけいなことを考えながら拝礼を済ませた。

ここで、内野会長が名物運玉に挑戦した。願い事をしながら投げた小さな運玉が、亀の背をかたどった岩のくぼみに入ると願い事が成就するという。

会長はなんと二つも運玉を命中させる強運ぶりを発揮。しかし、投げることに夢中になって願い事をするのを忘れたそうだ。

さてつぎは、来た道を引き返して西都原古墳群までひと走り。ここでは、ボランティアガイドさんのお世話になって、現地で女狭穂塚(めさほづか)とその陪塚の方墳を説明して頂いた。

女狭穂塚にはたくさんの木が生い茂っていて、前方後円墳の全体のかたちはつかめない。それでも、並々ならぬ大きなスケールは実感できる。

被葬者については諸説あるようだが、安本先生は国司クラスの有力者の墓であろうと解説する。

整備された鬼の窟(いわや)古墳の脇を通り、点在する大小の墳丘を眺めながら、女狭穂塚の奥に新しく完成した西都原考古博物館に向かう。

ここは展示方法にさまざまな趣向を凝らしたすばらしい博物館で、半日ぐらい時間をかけてゆっくり楽しみたいところだ。三十分ほどでの駆け足見学は、ちょー残念!

家形埴輪
家形埴輪(西都原考古博物館)
西都原古墳群女狭穂塚の陪塚171号方墳の前で集合写真
西都原古墳群の女狭穂塚(右奥)の隣にある方墳の前で集合写真
昼食後、宮崎神宮に参詣。繁華街近くに神さびた大きな社が鎮座するのも、神話の国・宮崎らしい。境内は気持ちよく整えられており清々しい。さらにその足で、八紘一宇の塔がある平和台公園に向かう。紀元二千六百年の時に建造された堂々たる大塔はかなり遠くからも望める。東京オリンピックの聖火リレーはここからスタートしたそうだ。記念のレリーフが埋め込まれていたが、まったく知らなかった。へえー!である。

さて、いよいよ霧島への高速道路のロングドライブのはじまり。休日にもかかわらずほとんど対向車に出会わない。青空の下に遠く見える霧島連山に向かって、景色を楽しみながら快適なドライブを続ける。

申し分なしといいたいところだが、高速道路の両側のセイタカアワダチ草の黄色い花がどうにも気になる。この外来植物は、根から発する毒で急速にススキを駆逐しつつあるという。秋風にススキがそよぐ典型的な日本の風景が近い将来見られなくなると思うと寂しい。

そんなことを考えながらうとうとしているうちに、神武天皇を祀る狭野神社に着いた。

杉並木の大木にはさまれた気持ちの良い参道を黙々と歩いていくと、やがて、右手に社が現れる。古びて落ち着いた雰囲気だが、屋根の菊の御紋章だけはまばゆく輝いていた。さすが、天皇家ゆかりの神社である。

石柱に別表狭野神社と刻まれている。別表とはなんのことと思っていたら、安本先生も疑問に思って霧島神宮参拝の折りに神職のかたに確認されたそうである。この日の夜の講義の時に説明して頂いた。

次はいよいよ本日のトリ、霧島神宮である。鬱蒼とした参道を進むと急に視界が開け、高千穂峰を背景に絢爛たる社が現れる。本殿、拝殿、廊下などが絶妙なバランスで配置され、木々の緑に朱色が映えて、神々しいという言葉がぴったりの壮麗な神社である。ほんとに御利益がありそうな気分になる。

夕日に染まる桜島の写真を撮ってから、大型バスはくねくね山道を窮屈そうに走り抜け、今日のお宿・霧島温泉に向かう。

宿では、名物の食後の勉強会が開催され、日向三代に関わる南九州の遺跡について解説頂いた。参加者もだいぶ賢くなって、酒量を上手にコントロールされたようで、今回は講義中に爆沈する人は見かけなかった。勉強会の後は、九州の名湯・霧島温泉を堪能して「おやすみなさい!」
八紘一宇と刻まれた平和の塔
八紘一宇と刻まれた平和の塔 聖火リレーの起点のレリーフ
聖火リレーの起点のレリーフ 鳥居をくぐって狭野杉の参道へ
鳥居をくぐって狭野杉の参道へ 神武天皇を祀る狭野神社
神武天皇を祀る狭野神社 参道の奥に霧島神宮
参道の奥に霧島神宮
恒例の食後の勉強会
恒例の食後の勉強会
食事風景
食事風景
絢爛豪華な霧島神宮
絢爛豪華な霧島神宮


 3日目   高屋山上陵-鹿児島神宮-可愛の山陵-笠沙宮跡-特攻平和会館

坂道を登って高屋山上陵へ
坂道を登って高屋山上陵へ 隼人浜下り前の鹿児島神宮境内
隼人浜下り前の鹿児島神宮境内
三日目も晴れ。まず、すがすがしい山の冷気を感じながら、彦火火出見の尊の山陵比定地・高屋山上陵を参拝した。

そのあと鹿児島神宮に着くと、境内がやけににぎやかだ。なんと、これから「隼人浜下り」の祭礼が始まるところである。今日はお祭りの日だったのだ! ラッキー!

パンフレットによると、「隼人浜下り」は大和朝廷に討伐された隼人族を慰霊する祭りで 武者や鉄砲隊に扮した三百人ほどが行列を作り、鹿児島神宮から海辺までの四キロ半の道のりを往復するとのこと。われわれは行列が始まる直前に神宮に到着したというわけだ。

拝殿前には、鎧甲の武者たちや、鉄砲隊に扮した外人さん、隼人のいでたちの元乙女、御輿を担ぐ神官などが三々五々集まっていた。なかでも目を引くのは、ピンクとグリーンの愛らしい衣装の子供たちだ。何枚も写真を撮ってしまった。
稚児行列の子供たち
稚児行列の子供たち
外人さんもいる薩摩藩の軍勢
外人さんもいる薩摩藩の軍勢
新田神社の階段
新田神社の階段
つづいて、邇邇芸の尊の陵の候補地川内市の可愛の山稜に向かう。可愛の山稜は神亀山の頂上の新田神社に隣接する。小山の上まで急な階段を一汗かきながら登った。

高屋山上陵といい可愛の山稜といい、今日は坂道が多い。山陵だから山のぼりは仕方がないけど少しこたえる。

最後に神亀山の周囲をバスでぐるっと回り、初期の前方後円墳ではないかといわれる端の陵をながめて午前の部は終了。

昼食後、川内市を離れ、笠沙に向かって海沿いの道を快適に南下する。遠く野間岬の方までアーチを描く海岸線が気持ちよい。沖の島影は甑島だろうか。

加世田市にある笠沙宮跡には大きな石碑が建っていた。説明の文章によると、この石碑は邇邇芸の尊の宮居の場所として戦前に鹿児島県によって建てられたという。ここの笠沙という地名も新しいもののようだ。

予定ではここで邇邇芸の尊を祀る野間岳神社に参拝するはずだったが、なんと、歩くと一時間近くかかることが分かり、急遽予定変更。代わりに近くの知覧町で特攻平和会館を見学し、武家屋敷をバスから覗いて帰途につくことになった。

帰りのバスの中でアンケートを書いて頂いた。なかなか個人では行けない所を一挙に見学できたこと、学習資料が事前に送られて自宅で勉強ができたこと、温泉でゆっくりできたこと、などなどを評価して頂き、充実した旅行ができたというコメントもたくさん頂いた。

パック旅行とはまったく趣向がちがう旅なので、皆さんに満足して頂けるかどうか多少の不安もあったが、アンケートに寄せられたコメントを読んで、企画してほんとに良かったと思った。皆さんの応援をバックに、次回もさらにすばらしい歴史の旅を考えてみたい。



新田神社の奥の可愛の山陵
新田神社の奥の可愛の山陵 休憩所で木花咲耶姫のお出迎え
休憩所で木花咲耶姫のお出迎え 笠沙宮跡の石碑
笠沙宮跡の石碑 石碑に刻まれた文章を読む
石碑に刻まれた文章を読む
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