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『東外流外三郡誌』の発見者・和田喜八郎氏のいとこにあたる、和田キヨエさんは、現在、和田喜八郎氏の住宅の所有者となっている。
『東外流外三郡誌』が発見されたという、旧和田喜八郎氏宅についての問い合わせや見学者に、和田キヨエさんはつぎのような文書を配布している。

和田キヨエさんの配布文書
私は和田元市(和田喜八郎の父)の弟の子で、喜八郎とはいとこです。
私は喜八郎宅後ろの同敷地内で生まれ、父が亡くなって母が再婚したことから14歳の時に母に連れられ一旦家を出ました。
しかし、数ヶ月で私はおばあちゃん(和田長作の妻)に連れ戻され、母は再婚先で暮しているため、一人になった私は喜八郎宅の家族と一緒に暮らし始めました。
私が喜八郎宅に住まいした期間は結婚するまでの、5年間で昭和19年の14歳から、昭和24年の19歳迄です。 結婚後は再び喜八郎宅裏の生家で暮らして現在に至っており、幼い頃から喜八郎宅へはしょっちゅう出入りしているため、和田家先祖のことも喜八郎のことも全て分かります。

喜八郎はデタラメな人問でした.
和田家の家系が何十代も前まで遡ることができるというのは嘘ですし、はっきりと分かっているのは元市の親の長作、その親の末吉までです。 代々、米作りと炭焼きを行っており、末吉、長作は殆ど字は書けませんし、当時の農家としては当り前のことでした。
元々、末吉は飯詰の隣村の下岩崎に住んでいたと聞いており、末吉の子の長作の代になって現在地へ引っ越して来たと聞いています。
現在の喜八郎宅は長作が亡くなった後に元市が建てたもので、元市の弟の健三が製材所に勤務していた当時に、古材を集めて昭和15年頃に建てた家です。

私は新築後の喜八郎宅に5年間同居しましたが、新築する以前の家屋も造りは同じで、大きさは一回り小さかった。
現在の喜八郎宅は天井に耐火ボードを張っていますが、昭和24年頃は耐火ボードを張っていないため、部屋の上は屋根裏です。
天井裏に本などが入った箱が吊るされていたということはなく、天井裏から古文書が入った箱が落下したとか、和田家に代々伝わる古文書があるなどは喜八郎の作り話です。
昭和15年頃に建てた家の天井に、先祖から代々伝わる古文書があるはずはありませんし、和田家に伝わっていたとするものは何一つなかった。
飯詰の人々は喜八郎の性格を知っており、誰も相手にする人はいなかったし、 市浦村は喜八郎に騙されたのです。

喜八郎は絵を書くのが上手く、筆を使って障子紙に字も書いていた。
私は書いているところを何度も見たことがあり、喜八郎は書いた紙を古く見 せるため、薪を燃やす炉の上にワラジを干すスダナというものがあったが、ス ダナに付いた煤を紙に付けて揉んでいた。
和田家は中程度の農家でした。しかし後を継いだ喜八郎は仕事もせずに神様 と称したり、訳の分からないことや書物(かきもの)ばかりをしていたので、残った財産は 喜八郎宅と僅かな田圃だけとなり、それも裁判所に差押えられたまま喜八郎は 亡くなりました。
喜八郎が関係した本に出でくる筆跡は喜八郎自身のものです。
和田長作の長男にあたる人は神奈川県に住んでおり、二男が喜八郎の父の元 市、三男が私の父です。

昭和20年代に元市が炭焼窯の跡から出土したとして杯のようなものと銚子 を持って来ましたが、出土物は元市から見せて貰って知っていた。
ところがその後に、出土物を持った喜八郎が写真入りで新聞報道され、その時は見たことのないものまでもが出土物として写真掲載されていた。
その頃から喜八郎は出土物がお金になることを知ったと思います。

若い頃の喜八郎は自分を神様と称して自宅に人を集めたり、飯詰駅の近くに 小屋を建て、自分で彫った石像を神から授かった出土物として祭ってみたり、 やること全てが嘘デタラメだった。
嘘の作り話が長続きするはずはなく、それらはすぐに消滅です。
石ノ塔に神社を建てた時も同様で、皆から寄付金を集めて神社を建てました が、飯詰から石ノ塔の神社へお参りに行く人は誰もおりません。
石ノ塔と和田家先祖とは何も関係はありません。

喜八郎の作り話が歴史として後世に残ることは避けなければなりませんし、 子孫には真実を伝えたいと思います。

和田キヨエ

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