TOP>活動記録>講演会>第210回 一覧 次回 前回 戻る  


第210回 
高千穂論争その2


 「東日流外三郡誌」 偽書騒動のその後           

■ 2003年3月25日の東奥日報夕刊記事
「風化進む”謎”の舞台」という見出しで、『東日流外三郡誌』が発見された和田喜八郎氏宅の様子が紹介された。

『東日流外三郡誌』(つがるそとさんぐんし)
『東日流外三郡誌』は、奥州の豪族・安部氏の末裔とされる津軽安東氏の歴史を、古代までさかのぼってまとめた謎の古文書で、発見者の和田喜八郎氏は、先祖らが江戸末期に編纂したと主張した。原本は未発見で、見つかった古文書は写本とされるが、発見の経緯や筆跡をめぐって真偽論争が起きていた。

『東日流外三郡誌』は、発見者和田喜八郎氏の住宅の天井裏から、天井を突き破って落ちてきたとされる。
和田喜八郎氏宅は、現在、和田氏のいとこに当たる和田キヨエさんの所有になっており、和田キヨエさんの案内で、偽書研究家の原田実さんらが旧和田喜八郎氏宅を取材した。

天井裏などを確認した結果、天井裏には、古文書の入った長持ちをつり下げられるような梁はないし、スペースもない。ものを隠せるような構造ではないことが明らかになった。

また、和田キヨエさんは、古文書が天井から落ちてきたという1947年頃に、和田喜八郎氏の家族とともにこの家に住んでいた。 その和田キヨエさんいわく、
古文書が落ちてきたという47年ごろに住んでいましたが、そんな出来事は一切ありませんでした。何より、当時はすだれだけで天井板を張っていません。古文書もなかったんです。存在しない文書がありもしない天井を突き破るわけがありません。断言できます。
東奥日報も、『東日流外三郡誌』は、現代人が書いた偽書ということでほぼ決着の感がある、とのべる。

■ 問題点
著名な学者が簡単に騙されてしまう。 しかも、疑問を指摘されても、本物だと言ってゆずらない。

『東日流外三郡誌』を本物だと主張してきた学者
  ・古田武彦氏(昭和薬科大学教授)
  ・西村俊一氏(日本教育学界会長、東京学芸大学教授)
  ・武光誠氏(明治学院大学教授)
  ・新野直吉氏(秋田大学学長)
古田武彦氏と西村俊一氏は、現在でも本物だと言って譲らない。

和田キヨエさんは、以前から『東日流外三郡誌』については、いとこの喜八郎氏の作り話だと断言し、問い合わせに対する説明文書まで作っていたが、これらの人は、全く取り合わなかった。

また、今回取材に同行した原田実氏は、『東日流外三郡誌』は本物であると、現在も主張している古田武彦氏の助手をしていたが、古田氏の主張に不審を抱き、袂を分かったという。

  

 古代史探究・7つの流派           

日本古代史についての諸説を、7つの流派として整理して紹介する、今回はそのうち三つの説明。
  1. 「卑弥呼」は、皇室系譜上の人物である。 (古道・『日本書紀』の流れ)
    • 卑弥呼=神宮皇后説
      『日本書紀』の編者は『魏誌倭人伝』のなかに現れる女王卑弥呼を、神功皇后をあてはめた。神功皇后は第14代仲哀天皇の妃、第15代応神天皇の母である。

    • 卑弥呼=倭姫(やまとひめ)説
      京都大学の内藤湖南(1866〜1934)がとなえ、現代でも坂田隆氏などがとなえている。倭姫は第12代景行天皇のころの人。

    • 卑弥呼=倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)説
      笠井新也(1884〜1956)がはじめてとなえ、現代でも歴史学者の肥後和男、和歌森太郎、考古学者の原田大六、丸山竜平、熊本大の藤芳義男などが主張している。倭迹迹日百襲姫は第10代崇神天皇のころの人。

    • 卑弥呼=天照大御神説
      安本先生などがとなえる。別途くわしく説明予定。

  2. 神とは人なり。 (新井白石の流れ)
    新井白石は『古史通』『古史通或問』で、『古事記』などに描かれる神代を、合理的・実証的に追及しようとした。新井白石は、神代の記事は人間の歴史を核としてできたものと考えた。

  3. 邪馬台国は東遷した。 (和辻哲郎・栗山周一の流れ)
    「邪馬台国東遷説」は近代になって登場してきた新しい流派である。
    東京大学教授の白鳥庫吉、和辻哲郎が示唆し、その後、昭和のはじめに栗山周一が明確な形で主張し、さらに林屋友次郎、飯島忠夫、和田清、市村其三郎、安本美典、鯨清、平山朝治などによって受け継がれ発展してきた。


 高千穂論争その2 宮崎県西臼杵郡説             

■ 江戸時代の「高千穂の峰=日向の国臼杵郡」説
  • 伊勢貞丈 『案斎随筆』(有職故実研究家、号は案斎)
  • 本居宣長 『古事記伝』
本居宣長は『古事記伝』のなかで、瓊瓊杵の尊は、はじめ、臼杵郡の高千穂の山に降り、そのあとで、霧島山に行ったのだとする折衷案のなかで、臼杵郡説を述べている。

■ 明治以後の「高千穂の峰=宮崎県西臼杵郡」説
  • 安藤通故 『神代三陵及高千穂考証』
  • 喜田貞吉 『歴史地理(29巻第4号)』『日向国史』
  • 野井槇太郎 『天孫垂跡高千穂峰』
  • 関口泰 『高千穂』
  • 滝川政次郎 『高千穂 阿蘇−総合学術調査報告−』
■ 「高千穂の峰=宮崎県西臼杵郡」説の論拠
  1. 『釈日本紀』 (鎌倉時代)
    『日向国風土記』に曰く、として、「臼杵の郡の内、知鋪の里。天津彦彦火瓊瓊杵の尊、天の磐座を離れ・・・日向の高千穂の二上の峰に天降りましき。」と風土記の逸文の内容が記されている。

  2. 『塵袋』 (鎌倉時代)
    つぎのような風土記逸文を紹介している。「皇祖ホノニニギの尊、日向の国贈於の郡、高茅穂のクシフの峰に天下りまして・・・」。これが、霧島山説の有力な根拠とされている。
    しかし、喜田貞吉は、用字、文章、内容などを調べて、この記述は奈良時代の風土記の記述ではないとし、また、『塵袋』は、『釈日本紀』や『万葉抄』のような権威ある書物と言いえないので、霧島山説の根拠にならないと述べる。

  3. 「高千穂」の関連地名
    宮崎県西臼杵郡付近には「高千穂」と関係する地名が数多く残っている。一方、霧島山の付近には、大きな地名として、「高千穂」が残っていない。

  4. 平安時代の「高千穂の峰」
    鎌倉時代には、高千穂の峰=霧島山とする記述が見られるが、平安時代までさかのぼって、『続日本後紀』や『三代実録』などを調べると、高智保皇神と霧島峰神とを別の神としている。つまり、霧島山と高千穂の峰を、別のものと見ていたようである。

  5. 薩摩は異民族の地
    西臼杵郡の高千穂は、神武天皇の東遷後も、神武天皇の兄、御毛沼の命(みけのみこと)がとどまったと伝えられ、天皇の徳化が後世まで及んだ地であるが、薩摩はもともと異民族隼人の国であり、この地方に天孫民族の祖先の遺跡を求めるのは疑問。
    また、西臼杵郡の高千穂は、薩摩のように大和朝廷に背いて征伐の軍を差し向けられたというような伝承はない。

  6. 西臼杵郡高千穂の近くの山名
    『日本書紀』には「高千穂の添(そぼり)の山)」「高千穂の櫛触(くしふる)の峰」、また、『古事記』では「久士布流多気(くじふるたけ)」などの名称が現れる。
    西臼杵郡の高千穂の北に、「祖母山」があり、その西に「九重野」「九住村」「久住山」がある。また郡名に「玖珠(くす)」がある。
    「祖母」はおそらく「添」の古名を伝えており、また「襲」に通じる。「九重」「久住」「玖珠」などは、「櫛触」「久士布流」の旧称を伝えたものであろう。
■ 安本先生は、宮崎県西臼杵郡説と霧島山説のどちらを支持?

安本先生は、卑弥呼の死後、主要な勢力が北九州の甘木市地方から豊前の国京都郡の地に移り、さらに少なくともその一部が、三世紀後半に南九州へ移動した事実があり、これが天孫降臨という形で伝承したのであろうと考える。 そして、このような立場から、臼杵郡説と霧島山の折衷案ともいうべき、次のような本居宣長の説を支持する。
『古事記』『日本書紀』の神代の文章に、高千穂の峰とあるのは、二か所あって、同じ名で、臼杵郡にあるのも、また霧島山も、ともに、『古事記』『日本書紀』に記されている高千穂峰であろう。
それは、皇孫の命が、はじめて天下ったとき、まずこのふたつのうちの一方の高千穂峰に下りつき、それから今ひとつの高千穂に移ったのであろう。
その順序は、どちらが先、どちらが後であったかわからないが、最後に笠沙の御崎に留まったという道順から考えると、まずはじめに下りついたのは、臼杵郡の高千穂山で、それから霧島山に移って、その山を下って、空国を通って笠沙の御崎に至ったのであろう。
このように、神代の高千穂と言った山は、この二か所であったのを、どちらも同じ名であったので、古代から混同して、一つの山のように語り伝えてきて、『古事記』にも、『日本書紀』にも、そのように記されたのであろう。


  TOP>活動記録>講演会>第210回 一覧 上へ 次回 前回 戻る