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毎日新聞連載

「深読み日本史 邪馬台国」より



 三角縁神獣鏡論争の迷宮

邪馬台国の候補地 「……大和説がさらに強まることになりそうだ」

98年1月、奈良県天理市の黒塚古墳から三角縁神獣鏡33枚が発見された時の本紙の評価である。長い邪馬台国所在地論争で、考古学上の主役だったのがこの鏡だ。 『畿内説』を支える花形だった。

注目されてきたのは、「魏志倭人伝」の景初3年(239)の記事による。 倭の女王卑弥呼が魏に使いを送った際、魏の皇帝は大いに喜んでさまざまな贈り物をくれた。そのリストに「銅鏡百枚」と載っている。

そこで、景初3年や、使いが帰国した翌「正始元年(240)』の銘文を持つものがある三角縁神獣鏡が「卑弥呼の鏡」の有力候補になった。 そして、近畿中心に分布することから、卑弥呼が支配関係を結んだ各地の首長に配布したと する、畿内説の最有力論拠に結実した。 冒頭の記事もこの説に従っている。「さらに]とあるのは、大和のこの地域からの発見がなか ったことが学説の弱点になっていたが、その「空白」が埋まったというのである。だが、事はそれほど単純ではない。

三角縁神獣鏡 この学説には、実にさまざまな反論もあるのだ。「中国での出土例が皆無」 である点を突いた三角縁神獣鏡国産鏡説が代表格だ。確かに、日本で約500枚も出ている ものが製作地でまったく見られないのは不自然極まる。

このため、魏が鏡を好む倭国のために特別につくったどする「特鋳説」が出た。『全部が倭に渡ったから魏には残っていない」と言うのだから、素人目にも"大胆"な仮説だというのがわかる。 反対派には「強弁」と映り、今も論争の核心部だ。発掘が進むにつれ、とっくに100枚を越えているのも妙な話だ。

三角縁神獣鏡が副葬品として重視されていないとの見解もある。 黒塚古墳でも、被葬者の頭の部分には画文帯神獣鏡という別の鏡が立ててあり、三角縁神獣鏡は棺の外に並ぺてあった。魏→卑弥呼由来の逸品にしては扱いが劣るように見える、というのだ。

また、そもそも卑弥呼が首長たちに鏡を配布しただろうか、という疑問も出されている。 記紀を見る限り、後の大和政権は服属のしるしに何かを与えるのとは逆に、地方豪族の 宝物を奪ってしまうのが常とう手段だった。近畿中心の分布図は、配布による結果ではな く、奪われるのを免れた鏡の痕跡と見ることだってできるのだ。

さらに、中国語学者から「三角縁神獣鏡の銘文は押韻がデタラメ で、詩文を愛好した魏王朝の鏡ではありえない」とする批判も出たが、 考古学からの説得カある反論はまだ出ていないようだ。

これまで挙げだ論点は、主として九州説からの反論の一部にすぎない。だが、問題を一層ややこしくしているのは、畿内説論者の間にも魏鏡であることを否定する論者が少なくないことだ。 さらに、魏鏡説論者の中にも、銅鏡百枚すべてが三角縁神獣鏡だとする研究者もいれば、他の鏡も含まれていたとする論者もいる。

つまり、三角縁神獣鏡を軸とした銅鏡百枚論争はまさに錯綜、百人百説の様相なのだ。

幾何学の世界では、紀元前から絶対だと考えられていた公理抜きでも成立する非ユークリッド幾何学というものがある。邪馬台国問題でも、この謎めいた鏡をいったん棚上げした所在地論争の先に、卑弥呼がいるように思えるのだが・・・【伊藤和史】


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