TOP > 解説 >邪馬台国東遷説の根拠 一覧 前項 戻る  


安本美典著
卑弥呼と邪馬台国より
邪馬台国東遷説の根拠

多くの人によつて説かれてきた「邪馬台国東遷説」の根拠を文献上のものと考古学上のも のとにわけてまとめれぱ、つぎのようになる。

  おもに文献上の根拠
  1. 年代的にみて、『古事記』『日本書紀』の伝える天照大御神の活躍の時期は、卑弥呼の活躍の 時期に重なりあう。

  2. 日本神話の伝える天の岩戸事件は、『魏志倭人伝』の伝える卑弥呼の死、宗女台与の奉戴 などの一連の事件とモチーフが酷似している。

  3. 卑弥呼も天照大御神も、ともに、女性で、シャーマン的で、宗教的な権威をもち、夫がな く、男弟がある。

  4. 天照大御神と素戔嗚の尊との戦争談は、卑弥呼と狗奴国の男王なる卑弥弓呼との戦争に似て いる。

  5. 卑弥呼の名は、「オホヒルメノミコト」「日の御子」「日の巫女」「姫尊(ひめみこ)」などと関係がありそ うである。

  6. 『魏志倭人伝』と日本側文献とを比較すると、風俗習慣や、社会の状態が、よく似てい る。(いれずみ、朱を用いる習憤、髪の結い方、衣服、器物、葬式における歌舞、みそぎ、骨をやいて のうらない、一夫多妻など。)

  7. 神武束征伝承は、『古事記』『日本書紀』共通である。「国家を統一する力が、九州から来た」 という物語の中核は、作者の作為にもとづくものではないであろう。

  8. 「邪馬台国」の「邪馬台」と「大和朝廷」の「大和」との名称が、共通している。これは、 「大和朝廷」が、「邪馬台国」を継承したためと考えられる。

  9. 女王国も大和朝廷も、ともに、その国号は、「倭国」で一貫している。このことも、女王国 と大和朝廷との連続性を示している。

  10. 中国文献では、魏代から隋代まで、倭国は、連続したものとしてとらえられている。倭の五 王なども、卑弥呼につづくものとしてとらえられている。魏代以来倭国が連続性を有するこ とは、北九州の勢力が東遷して、大和に中心を移したことを示す。

  11. 高句麗の南下、百済、新羅の興隆は、日本列島にも、国家統一へとむかう刺激を与えたと考 えられる。そして、その刺激をもっともうけやすかったのは、九州である。

  12. 邪馬台国は、女王台与が西暦266年に晋に使をおくったのち、中国の史書には、百年のあ いだあらわれない。これは、三世紀後半に、邪馬台国勢力の東征がおこなわれていたため、 戦いのなかに日がおくられ、大陸へ使を出すいとまがなかったためであろう。

  13. 『古事記』『日本書紀』には、南九州の熊襲や、東国の蝦夷征討の物語はあっても、北九州征 討の物語だけはない。これは、もともと大和朝廷が、北九州をふるさととしていたため、征 討の必要がなかったためであろう。 筑紫以外の九州の勢力が、国家を統一したとすれば、筑紫の勢力との争闘は、何らかの伝説を残すはずである。

  14. 当時、大和に統一国家があったとすれば、その統一国家は、直接中国に通じたはずであ る。しかし、そういう形跡はない。

  15. 『古事記』『日本書紀』の神話は、なぜ九州に関係する多くの記述を行わなければならなかったのであろうか。 神話を、まったく架空の物語としてみる立場からは、その必然性が説明できない。
    『古事記』神話の資料となっている個別神話のほとんどは、北九州の地において生育したものである。
  主に考古学上の根拠
  1. 古くから、玉、鏡、剣は、皇室の象徴である。
    ところで、玉、鏡、剣は、北九州の甕棺のおもな副葬品である。
    皇室および大和朝廷が、九州におこったと考えることによって、北九州系の玉、鏡、剣が、皇室のシンボルとなりえたことをうまく説明できる。

    4世紀初頭に、畿内を中心にはじまる古墳時代に入っても、はじめの一世紀ほどは、三つの宝器を副葬する風習がみられる。
    さらに、北九州の酋長の中に、玉、鏡、剣をその権力の象徴としていたもののあることが、 文献上にも記されている。

    また、鉄刀、巴形銅器なども、北九州の弥生式墳墓、畿内の古式 古墳の双方から発見されている。遺骸と一緒に朱丹を使用する風習も、北九州の弥生式墳 墓、畿内の古式古墳ともにみられる。倭人が朱丹を身体にぬる風習のあることは、『魏志』 「倭人伝」にみえる。

    このように、畿内の初期古墳文化は、北九州弥生文化の系統をひいて いる。

  2. 弥生時代の畿内には、方形周溝墓という墳丘墓が実在するが、副葬品をもつものは、皆無と いってよい。次の時代の前方後円墳からは、豊富な副葬品が発見される。副葬品を墓におさ める「習慣」そのものが、弥生時代の北九州と、古墳時代の畿内とで連続している。

  3. 『古事記』『日本書紀』の神話では、鉾と剣(さらに、鏡と玉)とがしぱしば語られている。こ れは、筑紫中心の銅鉾銅剣の文化と照応している。

  4. 『古事記』『日本書紀』の神話は、銅鐸についての記憶を残さない。
    畿内の銅鐸は、二、三世紀の、弥生式文化の後期に、もっとも盛大となり、しかも突然、そ の伝統を絶つ。713年、大和の長岡野で銅鐸が発見されたとき、人々はこれをあやしみ、 『続日本紀』には、「その制(形)は、常と異なる。」と記されている。銅鐸は、多く隠匿した ような形ででてくる。

    『古事記』『日本書紀』の神話は、剣と矛とのことをしぱしぱ語っている。しかし、銅鐸につ いては、沈黙する。これは、『古事記』『日本書紀』の神話が、近畿中心の銅鐸文化圏におい て、発生したものではないことを示している。

    銅鐸によって代表される宗教的、政治的権力は、銅鏡、銅剣によって代表される大和朝廷に よって滅ぽされたのであろう。銅鐸文化は、畿内を中心に紀元前後数世紀にわたって栄えた 文化であり、大和朝廷が初めから畿内にあったとすると、両者の問に、なんの結びつきもな いのは、不可解である。

  5. 古墳は、畿内に、突如としてはじまる。これは、新しい政治勢力が、畿内に進出してきたも のとして、自然に理解できる。銅鐸文化の消滅と古墳文化の発生は、その背後に、支配層の 交代のあったことを思わせる。

    崇神天皇陵よりも古いとされる奈良盆地の茶臼山古墳の副葬品は、北九州の弥生式文化の中 期・後期の族長が持っていたものと、基本的に同じであるといわれる。

    『魏志倭人伝』に記されている卑弥呼の径百余歩の塚は、古墳の祖形についての記述ではないかと思われる。

    森浩一氏によれぱ、古式古墳発生の母胎は、大和を中心とする畿内の弥生式文化には、ほと んど求められないのにたいし、北九州の弥生式文化からは数多く求められるという。北九州 には、成立期の古墳として、なんら不都合のないものがある。

    おそらくは、古墳は、鏡、 剣、鉾などを墓にうずめる習俗とともに、九州に発生し、畿内で発達をとげたのであろう。 畿内における古墳の発生と伝播は、大和政権の成立と発展とに対応している。

    なお、古墳の発生は、三世紀末から四世紀のはじめとみられる。これは、平均在位年数にも とづく年代論によるとき、神武天皇の時代に対応する。

  6. 最古の直弧文(直線と弧線を組みあわせた文様)の出現の時期が、西から東へと移動している。

  7. 『魏志倭人伝』には、倭人は、鉄を用いたとある。弥生時代後期において、鉄製品は、北 九州から多く発見され、近畿からは、ごくわずかしか発見されない。そして、次の古墳時代 にはいると、畿内を中心とする多くの古墳から、莫大な量の鉄器が出土している。鉄器の使 用において、弥生時代の北九州と、古墳時代の畿内とで連続している。

  8. 『魏志倭人伝』には、倭人が、養蚕を行なっていたことを記している。また、邪馬台国女 王から魏帝へ献上した絹製品の名が、『魏志倭人伝』にいくつか記されている。弥生絹は、いずれも、北九州のみから出土している。

    古墳時代以後には、畿内から、絹が出土す る。絹の出土において、弥生時代の北九州と、古墳時代の畿内とが連続している。



  TOP > 解説 > 邪馬台国東遷説の根拠 一覧 前項 戻る