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最近の遺跡発掘ニュース
最近の考古学論文紹介
  邪馬台国はどこか

第197回
「邪馬台国はどこか」


1.最近の遺跡発掘ニュース 

■ 福岡県志摩町小金丸の「一の町遺跡」で弥生期最大級の建物跡発掘(11月21日)
・.弥生時代の中期〜後期の遺跡で「伊都国」あるいは「斯馬国」と関連する可能性がある。

■ 関連検討  伊都国の人口についての疑問
  ・文献の記載
倭人伝 千余戸
翰宛に引用された魏略 万余戸




倭人伝の各国の人口について、奈良時代の人口データと、倭人伝記載の各国の戸数データによって検証すると、伊都国の一戸あたりの人数は、他の国々よりも一桁多い。

伊都国の戸数を、「魏略」が伝えるように「万余戸」とすれば、一戸あたりの人数が、他国と同じ水準になる。

魏志倭人伝の伊都国の戸数は千余戸ではなく万余戸ではないかと思われる。

■ 紫香楽宮(しがらきのみや)で宮殿の中核施設出土
聖武天皇が造営した紫香楽宮とされる滋賀県信楽町の宮町遺跡から、宮殿の中核施設とみられる建物跡3棟が出土した。
従来、離宮程度と見られていたが、本格的な都だったことが確かになった。

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2.最近の考古学論文紹介 (考古学者のスタンスについての疑問)

西谷正氏の論文「韓国の前方後円墳と古代の日本」(『東アジアの古代文化』109号2001年秋号)
1983年に、韓半島南部に合計36基が存在するとされた前方後円墳は、いまではすべてに対して否定的 であるというのが、日韓の研究者の間での一般的見解であろう。したがって、その際に同時に提起された、韓国の前方後円墳による日本のそれへの影響、いい換えれば、日本の前方後円墳の起源を韓国のそれに求める見解は、おのずから否定されることにもなろう。

ところで、1980年代中ごろ以後、韓国において前方後円墳の可能性が高い古墳に対して、精密な測量図が作成されたことに続いて、1991(平成3)年には、発掘調査がはじめて実施された。その後、昨2000年までに全部で六基の前方後円墳が発掘されたことにより、その実態が明らかになってきた。すなわち、墳丘形態が明確な前方後円形をなし、周壕をめぐらすものがあることと、その中には円筒埴輪や埴輪型木製品を伴うものが含まれることなど、日本の前方後円墳との間できわめて共通点が多いことが分かってきた。そこで、韓国の前方後円墳をどのように解釈するかという課題をめぐって大きな論議を呼ぶようになるわけである。

これまでに前方後円墳として確認もしくは認定されるものは、全部で11基にのぽる(表参照)。それらはすべて、栄山江流域を中心とした韓国の西南端部に当たる全羅南道に集中している(第1図)。そして、この分布状況は、韓国の前方後円墳の大きな特徴といえる。

このように見てくると、韓国の前方後円墳は、およそ5世紀の中ごろから6世紀中ごろにわたって築造されたことになろう。 そのうち古式のチャラ峰古墳を除くと、ほとんどが5世紀の末から6世紀前半の第1四半期ごろの築造と考えられる。

国立歴史民族博物館の白石太一郎氏は、その著『古墳とヤマト政権』(文春新書文藝春秋社刊) のなかで、つぎのようにのべておられる。
「最近、朝鮮半島西南部の全羅南遺の栄山江流域を中心とする地域で、日本列鳥の前方後円墳と基本的に共通する墳丘型の古墳が数多く確認されている。それらの中には全羅南道南海の長鼓山古墳のように、墳丘長が80メートルに近い大型のものもみられる。

韓国の研究者はそれらを『長鼓墳』と呼ぶが、それらの中には光州市の明花洞古墳や月桂洞1号墳のように、日本列島のものと同様の円筒埴輪の樹立が認められるものもあり、日本の前方後円墳と密接な関わりをも つことは疑いない。

これら韓国の全羅南道などにみられる『前方後円墳』を日本列島の前方後円墳の起源になるものとする説も提起されたが、ただ、最近の研究ではそれらはいずれも5世紀後半から6世紀前半ものであって、日本の前方後円墳の起源とはなしえないことが明らかにされている。」
以上の論文では、つぎのような、コメントはあるものの、韓国の前方後円墳について、被葬者とか、歴史のなかにどのように位置づけるかといった、核心に迫るようなメッセージはない。
  • 韓国の前方後円墳をどのように解釈するかという課題をめぐって大きな論議を呼んでいる。
  • 全羅南道に集中している。
  • 韓国の前方後円墳は、円筒埴輪など日本の古墳と共通点が多い。
  • 最近の研究ではそれらはいずれも5世紀後半から6世紀前半ものである。
  • 日本の前方後円墳の起源とはなしえない。
これらの論文に共通しているのは、文献を参照せずに、考古学の世界だけで考えようとする姿勢である。

では、文献を参照すると、どんなことがいえるか見てみよう。
 
『日本書紀』継体天皇6年(512年)12月の条に、つぎのような文がある。
「百済は、天皇に、使をつかわして調をたてまつった。別に上表文をたてまつって、つぎのよう にのべた。 『任那の国の上(おこしたり)・下(あろしたり)・娑陀(さだ)・牟婁(むろ)の四県(この四県は、全羅南道のほぽ全域)をいただきたい。』

全羅南道の栄山江東岸の地方かとみられている([岩波書店刊行]日本古典文学大系『日本書紀下』26ぺージなど)。
すなわち、光州市のふきんかとみられている。
娑陀全羅南道求礼郡(沙等または沙等村地方か)
牟婁全羅南道の西部、霊光、高敝・務安地方とみられる.

光州市付近図(岩波書店、日本古典文学大系『日本書紀 下』による)

の国守の穂積の臣押山は、つぎのように奏上した。

『この四県は、百済に近く、日本から遠くへだたっています。と百済は、朝夕に通いやす く、犬や鶏も、所属がまじるほどです。

いまこの四県を百済に与えて、合併させれば、これをたもつための政策としては、まさるものはないでしょう。

しかし、たとえ百済に与えても、なお後世においては、安全は保証しがたいのですが、まして、百済と切りはなしておいては、とても 何年もは守りえないでしょう。』

朝廷では、百済の上表文に応じて、任那の四県を与えた。ことにあたった大伴の大連金村( 総理大臣クラスの人物) と、の国守の穂積の臣押山は、百済から賄賂をうけたといううわさがたった。
いわゆる四県割譲事件の記事である。
ここにでてくる穂積の臣押山は、継体天皇の6年(512年)4月に、百済につかわされてい る。

また、継体天皇の17年(523年)6月に、
百済は、姐弥文貴(きみもんき)将軍、州利即爾(つりそに)将軍をつかわし、穂積の臣押山に副えて、五経博士段楊爾(だんように)を たてまつっている(『日本書紀』の引用するところによれば、『百済本紀』には、「委の 意斯移麻岐弥(おしやまきみ)」と記されているという)。
さらに、四県割譲後の、継体天皇23年(529年)3月の『日本書紀』の記事に、つぎ のようにある。
「百済の王(聖明王、日本で生まれた武寧王の子)は、下の国守、穂積の押山の 臣にかたって、つぎのようにいった。 『大和朝廷への朝貢のつかいは、陸の突出した岬をさけるごとに、風波のために苦しめら れています。このために、朝貢物をしめらせ、そこなっています。加羅の多沙の津(帯沙。 全羅南道と慶尚南道の境、蠣津江河口付近) を、朝貢の道にしたいと思います。
押山の臣は、これを奏聞した。」
このため、朝廷は、加羅王の反対を無視して、 多沙の津を、百済に与えた。そのために、加羅は、新羅と結び、日本をうらんだという。
529年の時点でも、穂積の臣押山は、「下の国守(あろしたりのくにのみこともち)」と記されている。

このように、日本書紀によれば、以下のようなことが明確に記述されている。
  • 6世紀のはじめに、全羅南道の任那の地域に、大和政権の支配権がおよんでいた。
  • この地域に、日本人の国守として、穂積の臣押山がいた。
関連地域と、大略の時代の一致とから、光州市の明花洞古墳は、穂積の臣押山の一族などに関連した墳墓であることが、まず考えられよう。

日本とそっくりな古墳がこの地域にあっても何の不思議もない。

すなおに穂積の臣押山の一族の墳墓の地と考えれば、考古学の成果は、日本書紀の記述をうらづけている、といえる。考古学の成果と古文献が支え合って、より確からしい事実を描き出す好例ではないか。

考古学者は、文献を無視して、考古学の中だけで考えようとする傾向がある。
考古学という一つの世界だけで歴史を描こうとするのではなく、中国の文献や、『古事記』『日本書紀』などの、日本の古文献も視野に入れた検討こそが、実り多い結果をもたらすことを、如実に示している。

考古学だけの閉じた世界で歴史を描こうとする危うさは、旧石器捏造事件で骨身にしみたはずではなかったか。

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3.邪馬台国はどこか

■ 魏志倭人伝の情報

邪馬台国の位置の情報が記載されている文献は、魏志倭人伝だけである。
しかし、魏志倭人伝に従って進むと、邪馬台国は海の中にあることになる。

つまり、倭人伝の情報だけでは、邪馬台国の位置が定まらない。
ちょうど、一つの式 x+y=2 で、2つの未知数 x、y の値が定まらないのと同じである。

  【 x=1 y=1 】【 x=0 y=2 】【 x=5 y=-3 】

どの解も 式 x+y=2 を矛盾なく満たしているが、解を一つに絞れない。

情報が不足しているのである。
情報を増やす工夫が必要である。



以下のような工夫によって、邪馬台国の位置を定めるための情報を豊かにするすることにより、邪馬台国の所在地を北九州に特定できると考える。

■ 日本の文献の情報

『古事記』『日本書紀』は卑弥呼の時代(240年ころ)よりも、かなり、あとの時代に成立した文献だが、代々の天皇の事跡が記録されている。

邪馬台国の女王卑弥呼は、239年に魏に使者を送ったという。この時代が、何代目の天皇の時代に相当するのかが明らかになれば、そこに邪馬台国についての記録があるかもしれない。
天皇の年代についての『古事記』『日本書紀』の記述は
  • 古事記
    天皇の即位の順番が記録されている。 年代の記述はない。

  • 日本書紀
    年代の記述はあるが、古代の天皇については在位期間が100年を越えるなど不合理な内容となっている。
    編者は、中国の史書の体裁に倣って年代を書こうとしようだが、結果として、年代を古く引き延ばすことになった。舞台は弥生時代、年代は縄文時代というような、矛盾した記述になっている。



■ 古代の天皇の在位期間推定

歴代の天皇の在位期間を400年ごとにまとめて表すと、図1のようになる。
昔になるほど在位期間は短くなり、古代では天皇の在位期間は、おおよそ10年である。 図1 世紀別天皇平均在位年数

古代では、【王の在位期間=約10年】というのは、日本だけではなく、中国の場合(図2)も、西洋の場合(図3)も、世界全体で見た場合(図4)も、同じような傾向にある。

図2 中国の王平均在位年数
図3 西洋の王平均在位年数
図4 世界の王平均在位年数

そこで、586年頃活躍したことが確実な、第31代用明天皇を基点にして、1代10年として古代にさかのぼっていくと、
  • 初代の神武天皇は、280ー290年ごろに活躍した天皇。
    239年に卑弥呼が魏に使者を送った邪馬台国は、さらに4〜50年、古い時代。

  • 神武天皇の5代前とされる天照大御神の活躍した時代が、卑弥呼の時代と重なる。
つまり、天照大御神は、卑弥呼のことが神話化して伝承として伝わった可能性が高い。


天皇の代と没年
また、左図のようなグラフを描くと、

卑弥呼=天照大御神

とする説が、もっとも自然に実線グラフの延長線上に乗ることがわかる。


卑弥呼=天照大御神とすると、それぞれが活躍した、邪馬台国と高天の原についても

邪馬台国=高天の原

といえる可能性が強くなる。





■ 「古事記」神話のなかの地名
古事記神話の地名の地域別統計

つぎに、古事記の神話に現れる地名を、左図のように地域別に分類すると、九州(西海道)と山陰(山陰道)が圧倒的に多い。

畿内の地名が11個あるが、どれも、古くからある本来の畿内の地名ではない


これらのことは、

古事記神話の舞台である高天の原や、葦原の中国が、九州と出雲であることを示している。

と考えるべきである。





■ 天照大御神の岩戸隠れ

天照大御神が、天の岩戸に隠れた伝承は、日蝕を反映したとの見方がある。 (白鳥倉吉、和辻哲郎)

卑弥呼=天照大御神とすると、卑弥呼が死んで、台与が共立されたころに、2年連続して 福岡地方で観られた皆既日蝕が、天照大御神の岩戸隠れ伝承として伝えられた可能性は高い。


・岩戸隠れ前後の天照大御神の行動パターンの変化は卑弥呼から台与への政権交代
天の岩戸以前は、単独で行動していた天照大御神が、岩戸以後には、高御産巣日(たかみむすび)の神と行動をともにしたり、高御産巣日の神が単独で最高主権者としてふるまうことが多くなる。

これは、卑弥呼の跡を継いだ台与が年若く、高御産巣日のような後見人を必要としたことの反映と見られる。


天照大御神が一人で行動する回数 高御産巣日の神が天照大御神とペアまたは単独で最高主権者的に行動する回数
 


・天の岩戸伝承は、九州起源の可能性
皆既日蝕は、福岡地域では西暦247年3月24日、248年9月5日と2年連続して発生している。

近畿地域では247年は皆既日蝕ではなかった。

天の岩戸伝承が、日蝕を反映したものとするなら、より衝撃の大きかった福岡地域で伝承化されたと考えるほうが自然である。
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■ 九州の地名と大和の地名のふしぎな一致

大和郷(近畿)と夜須町(北九州)の地名と位置関係が近似しており、景色も似ている。
イギリスから移住した人々が、多くの地名をアメリカに残したように、北九州に住んでいた集団が、近畿に移動し、地名を運んだ可能性がある。

高天の原を流れていたという、天の安川を思わせる夜須川が、今も夜須町には流れており、この地域が邪馬台国の故地である可能性が高い。

大和郷のまわりの地名

夜須町のまわりの地名



■ 邪馬台国時代の遺物


■ 魏志倭人伝に記載のあるものの出土状況
圧倒的に九州からの出土数が多く、畿内には見るべきものがない。



■ 県別に見た鉄器の出土数
鉄器は弥生時代を通じて圧倒的に北部九州に集中する。

3世紀はじめにヤマト王権が誕生してもいぜんこの傾向は変わらないが、東日本にも普及しはじめる。

この直後、3世紀後葉以降の定型化した前方後円墳からの大量の鉄器副葬によって九州と近畿の鉄器量は逆転する。

(寺沢薫氏による説明。図は、川越哲志『弥生時代鉄器総覧』[2000年]を一部時期補正して寺沢薫氏が作成)


■ 北九州の邪馬台国時代の遺物の出土状況
鉄器は北九州の中でも、夜須町の近辺に多く出土する。




■ まとめ

以上のように、魏志倭人伝の情報の不足を、日本の文献や、地名の情報、考古学的な遺物の客観的データなどによっておぎなうと、
  • 邪馬台国が北部九州の甘木市や夜須町付近に存在した。

  • そして、このあたりの勢力が、畿内に移動した。
ことなどが、明確に示される。


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