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第196回
「金印国家 奴国の滅亡」


1.文献に現れる奴国

奴国は、倭の地域では、文献に現れる最古の国として後漢書に登場する。

後漢書462年に范曄があらわした。三国史(285年成立)より後にできた。
倭伝 建武中元二年(西暦57年)、倭の奴国、貢(みつぎ)をささげて朝賀す。 使人は、みずから大夫(たいふ)と称う。
(倭の奴国は、)倭国の極南界なり。
光武(帝)は、賜うに印綬をもってす。

安帝の永初元年(西暦107)倭国王の帥升等、生口160を献じ、願いて 見(まみ)えんことを請う。

桓(帝)・霊(帝)の間(146〜189年)、倭国大いに乱れ、更々(こもごも)相攻伐し、 年を歴るも、主無し。

一女子あり。名を卑弥呼という。年長ずるも嫁せず。
鬼神の道に事(つか)えて、能く妖を以って、衆を惑わす。
是に於いて(倭国の人々は、卑弥呼を、)共に立てて王と為す。
光武帝紀 (建武中元)二年春の正月辛未(干支による日の記載で、8日とみられる)、東夷の倭の奴国王、使を遣わして奉献す。

二月戊戌(5日とみられる)、(光武)帝崩ず。年62(歳)

翰苑660年に張楚金が編纂した類書(百科事典)。古文献を多く引用。
倭国伝 中元のさい、紫綬の栄。


後漢書、翰苑の記述のまとめ

  • 西暦57年、倭の奴国が漢に朝献し、光武帝は奴国に印綬を与えた。

  • 西暦146〜189年の間に、倭国に大乱が続いた。

  • 卑弥呼が王に共立され、倭国がおさまった。

  • 光武帝から賜った印綬は、紫の組ひもの帯がついていた。『東観漢記』によれば、 紫綬のつくのは金印なので、光武帝から金印を賜ったことがわかる。



・王朝の順序と史書成立の順序

後漢書は、三国史よりあとに成立したので、三国史の記述を参考にしてかかれた部分がある。
王朝 史書
漢(BC202〜AC8)

新(AC8〜AC23)

後漢(AC23〜AC220)

三国時代(AC220〜AC280)
漢書

三国史(AC285)

後漢書(AC426)

・奴国は倭の極南界なり。
倭の範囲
  • 後漢書では、北九州の奴国が、倭のもっとも南の地であると記述する。

  • 魏志倭人伝は、朝鮮半島南端の狗邪韓国が、倭の北岸であると記述する。

これらのことから、倭のテリトリーは、おおよそ対馬をはさんだ日韓の両岸の地域であったと推定される。

そして、ここは、稲作の渡来ルートとしても想定され、また、日本語のもとになった言葉が発生した地域とも考えられる。


2.金印の発見

金印の写真
後漢の光武帝が、倭の奴国に与えた金印の実物とみられるものが、1784年(天明4年)博多湾の志賀島の崖の下から出土した。

金印が実物であるとする根拠

  • 印に刻まれた「漢委奴国王」の文字が、後漢書にある「漢の倭の奴の国王」と読める。

  • 印の各辺の長さが、近年の研究で明らかにされた後漢尺の一寸の長さに、正確に一致する。

「漢委奴国王」読み方異論
  1. 「委奴」は「いと」と読めるのでは?  従って、委奴国=伊都国ではないのか

    →「奴」隋唐音では「と」「ど」と読めるが、後漢の時代の秦漢音では「と」とは読めない。

  2. 「奴」は助詞の「の」の意味ではないか? 従って、委奴国=倭の国ではないか?

    →後漢書では、倭国と倭奴国を明確に区別して記述している。「奴」を助詞の「の」とすると 倭国と倭の奴国の区別がなくなってしまう。


志賀島の崖下に遺棄した理由について
九州大学医学部の中山平次郎氏や、東京大学の和田清氏は、金印は倭国内の戦禍によって隠されたものだと推定している。

そして、その後に「女王国」と推定される「南方からの大敵」によって、奴国は討ち滅ぼされたのであろうとする。

和田清氏は金印が遺棄された理由ついて次のように述べる。
これは国王の印ですから、宝として代々伝えたもので、一代ごとに墓に葬ったものとは違います。

これは想像ですが、おそらく奴国王家に国王の印があるということは、当時に知られた事実で、 これを欲しがったものがたくさんあったでありましょう。

そこで奴国が衰えたとき、南方から大敵が起こって(おそらく後の女王国などでしょう)、これを討ち滅ぼしたとき、国王かもしくは印綬を 預かったものが、これを懐いて逃れ、ついに道ばたに隠して、その実はそのまま滅びてしまったのでしょう。

それだからこそ、金印が博多のさきの、海の中道の奥の志賀島等から出たのだと思われます。

『東洋史上より観たる古代の日本』ハーバード・燕京・同志社東方文化講座委員会刊1956年2月


3.奴国から邪馬台国へ
奴国の時代と、邪馬台国の時代との間に、倭の国の中で、大きな戦乱が続いた。

これは、奴国と邪馬台国との戦いであり、博多湾岸にあった奴国は、新しく筑後川流域に勃興した邪馬台国によって、滅ぼされたと考えられる。

このように考えることにより、墓制の変化をはじめ、以下に示すさまざまな状況を、合理的に説明できる。

墓制のうつり変わり

桓(帝)・霊(帝)の間(146〜189年)の倭国大乱のあとに、墓制が変わったように見える。
お墓の種類 行われた地域 おおまかな年代
甕棺 北九州 西暦  0 〜 180年 奴国の時代
箱式石棺 北九州 西暦 180 〜 300年 邪馬台国の時代
竪穴式石室 畿内 西暦 300 〜 400年 古墳時代
横穴式石室 畿内 西暦 400 〜 600年 古墳時代
 
甕棺と箱式石棺の出土物の違い

甕棺と箱式石棺の出土品に連続性がない。支配勢力の交代をうかがわせる。
出土した遺物    甕棺
(金印奴国時代)
箱式石棺
(邪馬台国時代)
細形銅利器(銅剣・銅矛・銅戈) 75本 0本
「清白」「精白」「青白」「日光」「日有喜」銘鏡 30面 0面
小型製鏡第U型 0面 35面
「長宜子孫」銘内向花紋鏡 0面 18面


邪馬台国時代の鏡−小型製鏡第U型−の分布
小型製鏡第U型の鏡は、甕棺からは全く出土せず、箱式石棺から多数出土することから、邪馬台国時代の鏡であるとされる。

小型製鏡第U型の鏡は、博多湾岸からはほとんど出土せず、朝倉盆地から筑紫平野にかけての筑後川流域の地域から多く出土する。

邪馬台国の勢力が、筑後川流域の地域にあったことをうかがわせる。
小型製鏡第U型の鏡
小型ぼう製鏡第U型の鏡
小型製鏡第U型の分布
 

銅剣・銅矛・銅戈の分布の変化
銅剣・銅矛・銅戈は、細形、中細形がもっとも古いかたちとされ、時代が新しくなるにつれて、 中広形、広形があらわれる。

細形、中細形は、甕棺から出土することが多く、奴国時代の銅利器も、細形、中細形であったと推定される。

中広形の銅剣・銅矛・銅戈の分布地域は、細形、中細形の銅剣・銅矛・銅戈よりも、後背地にうつっている。

勢力の中心が、北九州沿岸から離れて、東南方向にうつっていくようにみえる。
細形・中細形の銅剣・銅矛・銅戈の分布
中広形の銅剣・銅矛・銅戈の分布


鉄製武器の分布の変遷
鉄製武器は、甕棺からも、箱式石棺からも出土する。

甕棺から出土するものは奴国時代の鉄製武器の分布を示し、箱式石棺から出土するものは、邪馬台国時代の鉄製武器の分布を示している。

甕棺出土の鉄製武器は、奴国を中心とするあたりから出土し、筑後川流域からはほとんど出土しない。

箱式石棺出土の鉄製武器は、筑後川流域の甘木あたりに多く分布している。
邪馬台国の勢力の中心がこのあたりであったことをうかがわせる。
甕棺出土の鉄製武器の分布
箱式石棺出土の鉄製武器の分布

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