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邪馬台国探究の新局面

(季刊邪馬台国118号 巻頭言)                      安本美典



季刊邪馬台国118号
 
 邪馬台国の探究は、つぎのような段階をへて、すすんできているように思える。

[文献学的段階]
 邪馬台国は、『魏志倭人伝』という文献にみえる国名である。
 そこで、最初は、文献学的な研究が行なわれた。明治期の東洋史学を代表する東京大学の白鳥庫吉と京都大学の内藤湖南との論争などは、その代表的なものである。

[考古学的段階]
 第二次大戦後、多くの考古学的な発掘が行なわれた。そして、文献学的に解決がつかないのであれば、考古学者の出番だとばかり、考古学者たちのマスコミなどによる発言がふえた。
 それとともに、その発言内容への疑問も増大していった。
(1) 考古学者どうしの見解が対立している。
(2) なぜ、その発掘データから、その結論がでてくるのか、推論の論理構成が思いつき的で、あまりにもいいかげんとしか思えないものが増大していった。大きな建物跡がでれば、『魏志倭人伝』の記述内容と照らしあわせることなく、「卑弥呼の宮殿あとか」というような見解をマスコミ発表してさわぐといった類である。つまり、根本資料である『魏志倭人伝』の記述を、無視または軽視する傾向が強くなった。
(3) とにかく、マスコミで発表したものが勝ちといった傾向が強くなり、証明が、目にあまるほど粗雑になっていった。考古学者たちの行なうマスコミ発表と、実際のデータが示す全体的傾向との乖離が、あまりにも大きくなった。

[情報の総合的処理の段階]
 さきにのべたようなことがおきたのは、文献学的なデータ(諸論文、諸著書)も、考古学的なデータ(諸報告書など)も、ともに厖大な量になりすぎたことが関係しているようにみえる。
 考古学的な報告書の類も、厖大な量に達し、インターネットなどで検索すれば、どのような報告や研究が行なわれているか、報告書類は、どこに所在するかを容易にしることができるようになった。
 しかし、情報の量が多くなりすぎ、その全体像を見とおすのが困難になってきた。そのため、研究者が、みずからある仮説あるいは思いこみをもったばあい、その仮説あるいは思いこみにあったデー夕だけを、ピックアップし、拡大解釈し、マスコミ発表などを行なうことになりやすい。しかし、別の仮説、または思いこみをもつ人には、まったく別の解釈や理解が成立することになる。
 ある部分だけをつかまえ、それを確かであるとし、そこから拡大解釈することになりやすい。
 鼻なら鼻だけをつかまえ、精密に観察記述し、「象という動物は、長いゴムホースのようなものである。これは、たしかだ。」と発言する。
 耳なら耳だけを観察し、「象という動物は、大きな、やわらかい、うちわのようなものである。」と発言する。
 足なら足だけを観察し、「象という動物は、ビア樽(だる)のようなものである。」とマスコミ発表する。
 データの量が。多くなりすぎ、全体像を構成することが困難となり、部分だけを見て、そこにみずからの思いこみを重ねるということになりやすい。 このようなことは、古代史の分野にかぎらず、多くの分野でおきている。
 「ビッグデータ(パソコンを利用すればえられる巨大情報)」、「ビッグデータを処理して、そこから適切な本質的情報をとりだすデーターマイニングの方法」などが、どの分野でも欠かせなくなってきている。
 いまや、データ情報の総合的処理を必要とする段階にいたっている。 諸データを総合的に処理し、適切な結論をみちびいていく技術や方法が、必要とされる段階に、いたっている。 コンピュータ技術や統計学の進展もいちじるしい。手段や道具は、ととのってきているように思える。
 考古学の分野でも、すでに「情報考古学会」などが存在している。
 これからの若い研究者は、でてきた結果の記述だけでなく、鋭意、このような総合的推論の方法の探究に、エネルギーをそそぐべきである。
 「かすったら邪馬台国」「風がふけば邪馬台国」といわれるように、なんでもかんでも「邪馬台国」と結びつけて報道されるのは、助成金や、つぎの発掘費の獲得などと関係し ているのであろうか。「邪馬台国」というワードが、邪馬台国ビジネスといったものに、くみこまれているのであろうか。 このような方法は、あまりにも、不合理になっているように思う。
 学問や科学の分野では、つねに可能性の大きい仮説を採択し、可能性の小さい仮説を棄却していく、という姿勢が必要である。とすれば、その可能性の大きさをはかる方法を考えるべきである。それは「確率」が教えてくれる。 このような前提がなければ、問題は、永遠に解決しない。 「マスコミで発表したものが勝ち」的な方法は、科学や学問を。大きくゆがめるものである。
 公的費用の地域配分はデータにもとづき可能性の大きさに応じて配分すべきである。そうでなければ、公的費用の無駄づかいとなる。
 確率の算定などに、あまりに無関心では、いけないのではないか。
 科学や学問の世界は、黒か白かが、比較的はっきりでやすい世界である。思いつき的な仮説も、みな成立するという世界ではない。科学や学問の原点にたちかえるべきである。 これからは、統計学者や、情報考古学者の出番である。

  なお、本誌本号では特集をするベイズ統計学の「ベイズの定理」は、簡単にいえば、系統的に確率計算を行なうための便利な公式といえる。
 福岡県から、奈良県の十倍「鏡」が出土する。あるいは、福岡県から、奈良県の約百倍「鉄鏃」が出土する。そのそれぞれを別々にみれぱ、そのようなことは、あるいは偶然でもおきうる範囲のことのようにみえるかもしれない。
 しかし、「鏡」と「鉄鏃」という二つのフィルターをくぐりぬけるという点から邪馬台国問題をみて、「福岡県か奈良県かのどちらか」ということになれば、福岡県は奈良県の千倍可能性(確率)が大きくなる。
 (1/10×1/100=1/1000)
  偶然ではきわめて起きにくいことになる。
 「ベイズの定理」は、そのようなことを教えてくれる、簡単で切れ昧のよい公式にすぎない、ともいえる。
 話は、比較的簡単といえば、簡単なことなのである。

  シリコンバレー在住のコンサルタント海部美知(かいふみち)氏は、その著『ビッグデータの覇者たち』(講談社現代新書、2013年刊)のなかでのべている。
 「マイニングとは、鉱山で鉱物を掘り出すことですので、データーマイニングとは、大量のデータから、意味や関連性を『掘り出す』ということになります。膨大なデータが使えるようになり、人の勘や従来型の手動の分析だけでは思いもつかない、これまで知られていなかった特徴を引き出すことができるところが、ビッグデータのおもしろさです。データーマイニングでは、種々の統計分析手法を組み合わせて使います。」
 ペイズ統計学は、そのような統計分析手法の一つである。
 『魏志倭人伝』に記されている情報や、考古学的に手に入る情報のうち、邪馬台国の場所の決定に役立ちうる情報は何か。それがまず、徹底的に検討されなければならない。
 「かすったら邪馬台国」「風がふけば邪馬台国」といわれるような、たんなる連想ゲームを行なってマスコミで騒ぐ、といった方法で、邪馬台国問題が解けるわけがない。
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