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古代からのメッセージ

(季刊邪馬台国127号 巻頭言)                      河村哲夫



季刊邪馬台国127号
 
 かつて、神功皇后の伝承地を一生懸命追いかけていたとき、不思議なことに気づいた。神功皇后たちは、下流の広い川を渡ることを避け、いったん上流にまで上って、山沿いの道をたどって峠を越え、次の川伝いに川下に下りていくのである。そのようなコースに伝承が点々と残されている。
  なんで歩きやすい平地をまっすぐ歩かないのだろうか。
  現代人の常識では考えられないコースで、地図を見ながら何度も首をひねったものである。
  ところが、実際にそのコースを歩いてみて、すぐにその理由がわかった。
  川に沿って歩くと、勾配がなだらかで、上りも下りも意外なほど心地よいのである。いわゆる「山の辺の道」である。
  峠にたどり着くと、風景を一望することができる。地図もナビゲーションもない時代には、高い場所からの眺望が地図の役割を果していたことが実感できる。
  車を運転し、電車やバスに乗って、大きな河川に架けられた橋を楽々と進む現代人には見えない世界である。
  古代において、平野部には堤防のない大きな河川が流れ、あちこちに沼や湿地が広がり、草木が生い茂り、獣や害虫も多かったであろう。雨季にはしばしば洪水にも襲われ、古代人にとって、平地はまさに危険地帯であった。
  古代人は、安全な丘陵地や微高地を選んで居住し、時間をかけて、用心深く、少しずつ低地の開墾を進めていったにちがいない。
  してみると、都会の巨大なビルディング群はもちろんのこと、地方の水田の広がる田園風景もまた、古代からの人の営みによってつくられた人工の風景であることがわかる。
  古代を考える場合、現代人の常識を、そのまま古代に当てはめることはできない。
  文献資料を読む場合も同様であろう。現代人のイデオロギーや常識をいったん捨て去って、古代文献の語るところに真摯な気持ちで耳を傾けなければならない。
  戦後の風潮として、『古事記』『日本書紀』は、大和朝廷の役人たちが机上でつくったものであり、信用できないと、ばっさり切り捨ててしまい、あるいは『古事記』『日本書紀』の記事をなぞりながらも、憶測に憶測を重ねるようにして、まったく別の伝承を造作し、多くの考古学者も『古事記』『日本書紀』やその他多くの日本文献を軽視するかたちで古代史像をつくりだそうとしている。
  戦後七十年----特定のイデオロギーに偏り、主観の限りを尽くして古代解釈を試みてきたこれまでの傲岸不遜な態度は、そろそろ改められなければならない。

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