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本書「はじめに」より
第一章 第二章 第三章 第四章第五章
巨大古墳の
被葬者は誰か

巨大古墳の被葬者は誰か
古代の諸天皇、いつごろ活躍したのか。
巨大前方後円墳は、いつごろ築造されたのか。


この二つを推定するあらたな方法を提示する。

その方法をキーに、 巨大古墳の被葬者たちを解明していく。

千数百年のあいだ、奥津城の闇のなかに 眠っていた被葬者たちが、いま目ざめ、 つぎつぎと姿をあらわす。      



本書「はじめに」より

第一章 闇になかの被葬者たち


全長が100メートル、200メートル、300メートル、ときには400メートルを超えるような巨大な古墳が、いくつも築かれた時代がある。

古墳時代である。

おもに四世紀、五世紀、六世紀ごろである。
幅をひろくとれば、三世紀末から七世紀ごろまでである。
日本歴史全体からみれば、特定の、比較的短い期間である。

その期間に、わが国で統一国家が成立し、発展した。
また、その期間こそ、『古事記』『日本書紀』『風土記』などに描かれている時代である。

壮大にととのえられた古墳をみるとき、だれしもがいだく問いは、
「この古墳は、だれの墓で、いつごろつくられたものか?」
ということである。

そして、現代の古代史学は、このような問いにたいして、ほとんど答えていない。
被葬者は闇のなかのままである。

この本は、このような問いにたいして、正面から答えようとしたものである。
このような問いに答えることは、わが国で統一国家が成立し、発展したプロセスを解明することにもなる。


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第二章 「謎の四世紀」は、ほんとうか

大和朝廷、すなわち、天皇家の権力が形づくられたのは、四世紀のこととみられる。そして、こ の四世紀は、「謎の四世紀」といわれる。

それは、つぎのような理由による。

  1. 「三世紀」については、『魏志倭人伝』などの中国文献がある。そこには、卑弥呼や邪馬台国 のことが記されていて、かなりなていどつかめる。

  2. 「五世紀」については、『宋書』『梁書』などの中国文献がある。そこには、讃、珍、済、興、武の、いわゆる「倭の五王」の名が記されている。そこから、五世紀のことをも、あるていどわかる。

  3. しかし、四世紀のわが国のことを記した中国文献がない。したがつて、四世紀のことは、よくわからない。だから「謎の四世紀」である、という。

このような議論は、ほんとうであろうか。

このような議論のもとになっているのは、つぎのような考え方である。

「中国文献」にかかれていることは、信用できる。
しかし、『古事記』『日本書紀』など、わが国の文献に書かれていることは、信用できない。」

どこの国の歴史でも、その国の人々が語り伝えた伝承や、その国の人々が書いた歴史書を信用しなければ、その国の古代のかなりの部分は謎となる。闇の中となる。

しかし、『古事記』『日本書紀』は、『魏志倭人伝』や、『宋書』『梁書』のような、外国人が記した、断片的ともいえる記事以下の信用度しかないものであろうか。

『古事記』『日本書紀』をひもとけば、
崇神天皇、垂仁天皇、景行天皇、日本武の尊、大彦の命、吉備津彦の命、丹波の道主の命、狭穂彦、狭穂姫など、
四世紀ごろの人と見られる数多くの固有名詞があらわれる。

しかも、それらの人びとの名は、『魏志倭人伝』や、『宋書』『梁書』のなかの卑弥呼や、「倭の五王」のような、やや断片的な記事のなかにあらわれるのではない。

一つのストーリー性をもった物語のなかにあらわれる。

時の流れのなかで、哀歓を語り、活躍し、栄え、涙し滅びていく。
歴史の中に位置づけられているように見える。
そして、墓などの記述のある人たちもいる。

第二次世界大戦中に、『古事記』や『日本書紀』のなかの不合理な記事までも、信じるべし、という教育が行われた。
敗戦後はその反動で、『古事記』『日本書紀』の古い時代の記事は、ほとんど信用できない、とする教育が行われている。

しかし、『古事記』『日本書紀』の古い時代の記事は、ほとんど信用できないとする考え方にもいきすぎがある。
合理的な根拠を示さずに、『古事記』『日本書紀』の記事を抹殺する傾向がある。

『古事記』『日本書紀』から受けとるべき情報を受けとれば、四世紀はそれほど謎でもなければ、闇 でもない。
そして、巨大古墳の被葬者の解明は、四世紀史のうえに灯火をつけていくことになる。

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第三章 「古墳の築造年代が定まらないと、被葬者の推定はむずかしい


日本列島各地の古墳のうち、墳丘長200メートル以上の、文字どおりの巨大古墳をリストアッ プしたのが表1である。

これをみれば、大阪平野や奈良盆地に巨大古墳が集中していることがわかる。

古墳の築造年代について、滋賀県立大学教授の考古学者、菅谷文則氏はつぎのようにのべている。

「いま絶対年代がわかる古墳が全国にいくつあるだろうかと考えてみますと、終末期古墳を除け ば、たった一例です。それは九州の岩戸山古墳です。」

「古墳の年代については相対年代を決めることはわりあい簡単にできますが、絶対年代は困難で す。」(以上、「畿内における古墳の発展と出土鏡」『東アジアの古代文化』52号)

同志社大学の考古学者、森浩一氏もつぎのようにのべている。

「古墳やその出土遺物にたいして、たとえば"五世紀中ころ"という推定を下す考古学者がいる としても、それは相対的な年代観にすぎず、その年代の前後に約60年の判定誤差をつけるべき だと考えている。」

「畿内の五世紀を例にとっても、なお前後に約60年程度の判定誤差がいるだろうとの私の実感は、そのまま、三世紀に適用してもよかろう。かしその判定誤差は、北九州から遠ざかるにしたがって、年数をふやす必要がある。」(以上、『三世紀の考古学』上巻 学生社)

また、森浩一氏は、とくに奈良県の箸墓古墳をとりあげて、およそつぎのようなことをのべてい る。

「白石太一郎氏は、奈良の箸墓古墳の実年代として三世紀後半を考えておられる。これにたいし 田辺昭一二氏は、箸墓の年代として、四世紀前半、それも中ごろに近いとされている。

現状では、同一古墳をめぐって、研究者によって、百年近い年代幅がでる。

(『三世紀の考古学』中巻 学生社刊)

古墳の築造年代が定まらなければ、その古墳の被葬者を推定することもむずかしい。


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第四章 巨大古墳は権力者の墓である


巨大前方後円墳の築造は、相当の人力や労働カを必要とする土木工事である。

たとえば、仁徳天皇陵古墳(大山古墳ともいう)は、一日に一千人の人が働いても、土量の運搬 だけに四年近い歳月がかかるといわれている。
円筒埴輪の数は、二万個を超えることが考えられている。

仁徳天皇陵古墳の平面積は、エジプト最大のピラミッド、クフ王の墓や中国の秦の始皇帝の墓を 超える。
さらに、横穴式石室のためには、しばしば巨大な石材が用いられている。

古墳の築造には、労働力を結集させることが必要であるばかりでなく、また、繊密な知性による 計画性も必要である。

前方後円墳は、けっして一般民衆の墓ではない。
人々を使役し、管理する社会的な地位をもつ人物がいなければ、前方後円墳の築造は不可能である。

前方後円墳、有力な一家族の墳墓、すなわち家族墓ではない。
特定の人物、すなわち政治権力者あるいは支配者の墓である。

そのような人物は、史書にも名を残しやすいはずである。

古墳の築造の時期が、大略推定できるならば、そのころその地域で大いに活躍していたと史書に記されている人物を、古墳の被葬者として検討することは、十分可能なことであり、必要なことである。

なかには、この古墳はだれだれの墓である、と伝承されているものもいくつかある。
その真偽を検討することも必要である。

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第五章 解明の機は熟してきている


大塚初重他編『日本古墳大辞典』『古墳辞典』(以上、東京堂出版刊)、大塚初重編『図説西日本古墳総覧』(新人物往来社刊)、近藤義郎編『前方後円墳集成』(山川出版社刊)などが刊行され、資料はととのってきている。

たとえば、この本を書くための基礎資料として用いた大塚初重他編『日本古墳大辞典』をとりあげてみよう。

『日本古墳大辞典』は、明治時代の考古学者、大塚初重、小林三郎、熊野正也氏の編になるもので、 執筆者は118名におよぶ。

見出し項目として、2800基の古墳があげられている。
そして、個個の古墳について、古墳名の読み方、所在地名、古墳の形態と大きさ、その他、が一定の基準にもとづいて記述されている。

この『日本古墳大辞典』には、主要な古墳はとりあげられており全国の古墳を統一的にみるのに便利である。

これまで、私のこの本で以下に展開するような探求が本格的に行なわれなかった理由を整理すれ ば、主につぎの三つとなる。

  1. 『古事記』『日本書紀』をはじめとする古文献に記されている人物の客観的活躍年代を、正確 には定めにくいところがあった。

  2. 古墳の築造年代については、学者により、かなりな意見のくいちがいがあった。

  3. 戦後に津田史学が盛行し、『古事記』『日本書紀』などに記されている人物の、実在そのもの を疑う傾向がつよかった。

考古学者は、とかく古文献を敬遠する傾向がある。
一方、文献学者は、とかく古文献の記述そのものを疑う傾向がある。

しかし、腰をすえてじっくりと検討してみよう。

古文献がもたらす情報と豊富な考古学的情報とがおぎないあって、確実な知識が生みだされる可 能性は、大きくなってきている。

たんに伝承とみられていたことが、史実である可能性を大きくしている。

中国の史書『後漢書』の「倭伝」に、たった一行、

「(後漢の)光武(帝)は、賜うに印綬をもってす。」

と記されていたことばは、志賀島から出土した金印のもつ意味を、ほとんど無限に拡 大した。

古文献がもたらす情報をすてさり、考古学的考察だけに終始すれば、巨大古墳の被葬者が、わか らないのは当然である。

文献があってこそ、沈黙の遺蹟、遺物はその意味を語るのである。


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