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Rev4 2023.4.13

第401回 邪馬台国の会
原始二つの太陽があった(卑弥呼と天照大御神)
邪馬台国探究のための方法について


 

1.原始二つの太陽があった(卑弥呼と天照大御神)箸墓古墳追考

「原始、女性は太陽であった。」
天地は開闢(かいびゃく)し、やがて、日本の古代の空に、二つの女性の太陽がのぼった。卑弥呼と天照大御神とである。
卑弥呼の名は中国の史書にあらわれ、天照大御神の名は日本の史書にあらわれる。
いま、この二つの太陽の軌道を追う。二つの軌道は一致しているか否か。

■パラレル年代推定法-古代への階段(きざはし)
401-01倭の国(日本)は、卑弥呼の時代に、中国の魏の国と国交をもった。そのあと、西晋の国、東晋の国、南朝(江南、南中国)の宋の国など、連続する中国王朝と国交をもった(右の中国王朝の年代参照)。

南朝宋についての歴史書『宋書』に、西暦478年にあたる年に、倭王の武が、宋王朝に使いをつかわし、文書をたてまつったこと、宋の第8代皇帝の順帝の準(じゅん)が、倭王の武に「安東大将軍、倭王」などの称号を与えたことなどが記されている。
この倭王の武は、次の理由により、わが国の第21代の天皇の、雄略天皇のことであるとみられている。

(1)『古事記』によっても、『日本書紀』によっても、478年は、雄略天皇の治世の時代とみられること。すなわち、雄略天皇の没年を、『古事記』は489年にあたる年と記し、『日本書紀』は479年にあたる年と記している。

(2)倭王の武の「武」の名は、雄略天皇の名である「大長谷若建の命(おおはつせわかたけのみこと)」(『古事記』)、「大泊瀬幼武の天皇(おおはつせのわかたけのすめらみこと)」(『日本書紀』)などの「建(たけ)」「武(たけ)」と関係があるとみられること。

(3)埼玉県稲荷山古墳出土の鉄剣銘文により、471年[辛亥(しんがい)の年]が雄略天皇(獲加多支鹵)時代とみられること。

以上から、わが国の第21代の雄略天皇を、中国の南朝宋の第8代皇帝順帝準と同時代の人であるとみとめる(下のパラレル年代推定法の表を参照)。

そして、雄略天皇から n代さかのぼった天皇は順帝準から n代さかのぼった中国の皇帝と、大略同時代の人と推定することにする。

中国の皇帝については、史書の「帝紀」などに、くわしい記載がある。下のパラレル年代推定法の表の中国がわの、皇帝の在位期間データは、しっかりとしたほぼ確実なデータである。下のパラレル年代推定法の表は、一応それによって、はっきりとはしない日本の古代の天皇のおおまかな活躍年代を推定する方法である。

このような方法によると、第21代の雄略天皇から、機械的に25代さかのぼった天照大御神の時代は、中国の魏の廃帝芳(ほう)[斉王(せいおう)、在位239~254年]の時代にほぼあたることになる。そして『魏志倭人伝』は、239年、243年に、卑弥呼が魏の国に遣使したこと、斉王芳の在位期間の247年か248年のころに、卑弥呼が死去したことを記す。

すなわち、廃帝芳(斉王)の治世時期をてがかりに、卑弥呼と天照大御神の同時代性が浮かびあがってくる。つまり、第21代の雄略天皇の時代から、同じ代数だけ古代への階段をさかのぼった日本の天皇や祖先神と中国皇帝らのペアが、それぞれまったく同じ在位年数をもっていたならば、天照大御神の時代は、卑弥呼の時代に、ほぼちょうど重なりあうことになる。
ペアになる中国の皇帝の治世年代によって、日本の古代の諸天皇のおおまかな年代を推定しよう、というわけである。この方法を「パラレル年代推定法」と名づける。

「パラレル年代推定法」では、ペアとなる皇帝と天皇との在位年数が、完全に同じでなくても、推定期間における「在位年数の平均値」が中国と日本とで同じならば、同様の推定結果がえられることになる。そして、古代皇帝や天皇の在位年数の平均値が中国と日本とで、それほど変わらないと判断されるデータについては、次節で説明する。

(下図はクリックすると大きくなります)401-02

 

■日本、中国の天皇・皇帝・王の在位年数
前回(第400回、6月19日)の「邪馬台国の会」でも、説明したところであるが、日本の天皇と、中国の皇帝・王などの「平均在位年数」は古代から現代にむけて、きわめて近い形で推移している。400年ごとにまとめた「平均在位年数」の推移の状況は、下図のとおりである。

401-03

上の図の99天皇ののべ在位期間は、1454年間。
(プラス)と(マイナス)が消しあい]99天皇のそれぞれの在位期間が、中国の王の平均在位年数にしたがうとき、そののべ在位期間は、1450年となり、両者の差は4年しかない。
およそ、1500年でも、誤差の累積(年代推定値のくいちがい)は4年程度ということも、考えられる。


津田左右吉は、戦前、『神代史の新しい研究』(1913年)、『古事記及び日本書紀の新研究』(1924年)、『神代史の研究』(1924年)(以上いずれも、岩波書店刊)など、一連の著述をあらわし、『古事記』『日本書紀』などの文献の、史料としての価値についての研究をおこなった。
今から、およそ、百年まえのことである。
津田は、主として、『古事記』『日本書紀』の記述のあいだのくいちがいあるいは、相互矛盾をとりあげ、そこから、『古事記』『日本書紀』に記されている神話は、天皇がわが国の統一君主となったのち、第29代欽明(きんめい)天皇の時代のころ、すなわち、六世紀の中ごろ以後に、大和朝廷の有力者により、皇室が日本を統治するいわれを正当化しようとする政治的意図にしたがって、つくりあげられたものである、と説いた。

しかし、欽明天皇(在位539~571)のころまで、中国では、女性の皇帝の例はまったく存在しない。中国の唯一の女性皇帝は、唐の則天武后(在位684~705)で欽明天皇の後の時代である。
わが国でも、欽明天皇の時代までに、女性の天皇の例は、一例も存在しない。わが国最初の女性天皇は第33代の推古天皇(在位593~628)。以後、合計8人、10代(二度天皇になった女性が、二人いる)。
中国でも日本でも、欽明天皇の時代までに、女帝は、一人も、知られていない。
卑弥呼と天照大御神とは、考え方によっては、時代が合うと言うのは、偶然ではなかなか起きそうでないのに、ともに女性の最高主権者的存在であるというのは、偶然では、さらに起きそうもないことである。
天照大御神が、のちに作られた神ならば、なんのために、女神にしなければならなかったのか。

上のパラレル年代推定法の表をみれば、箸墓古墳築造の年代(崇神天皇の時代)を卑弥呼の時代にもって行くのは、とうてい無理である。 津田左右吉説よりも、新井白石の「神は人なり」説、あるいは、「神話史実主義(エウヘメリズム)」をとったほうが、ずっと自然な説明ができる。

紀元前300年ごろに、シチリア島に生まれたとみられる神話学者、エウヘメロス(Euhēmeros)は、神話は、史実にもとづくとする説をたてた。
すなわち、ギリシア神話の神々は、人間の男女の神話化したものと説いた。神々は、元来、地方の王または征服者、英雄などであったが、これらの人々に対する人々の尊崇、感謝の念が、これらの人々を神にしたとする説(エウヘメリズムeuhemerism)である。

第二次大戦後のわが国では、津田左右吉流の立場から、神話と歴史とは峻別すべしということで、エウヘメリズムは、批判の対象とされることが多かった。しかし、エウヘメロスの考えは、シュリーマンの発掘によって、実証された部分があるともいいうる。
ヘレニズム(ギリシア精神)のなかから、もろもろの科学が芽ばえた。
エウヘメリズムは、神話についての合理的説明をこころみたものとして、もう一度みなおされる必要がある。

そもそも、「事実」や「史実」の、神話化や伝説化は、古代においては、容易におきうることである。「史実」と「神話」の峻別は、原理的に不可能である。神話をすてれば、それとともに史実も捨てることになりかねない。
「ことば」の「表現形式(声によるものであれ、文字によるものであれ)」は、その表現形式がさし示す「ことば」の「表現内容(意味内容)」とずれがちになることは、むしろ、ふつうである。(ここでは、「ことば」は、「表現形式」と「表現内容」とが、表裏となって合わさったものである、とする立場をとる。これは、言語学者、ソシュールの説いた立場で、言語学の分野では、わりに広くみとめられている立場である。)
リンゴは食べることができるが、リンゴということばは食べることができない。
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現代でさえ、『古事記』『日本書紀』の神話は、後代の創作物で、史実をふくむとはみられない、というような、見方によっては、神話そのものが示している「内容」とずれたレッテルはりの解釈がひろく行なわれている。「神話」そのものについての、「内容」からずれた理解、すなわち、一種の「神話化」がみられるのである。神話化の要素を、すこしでも含むものは、すてるべし、という立場をとるならば、津田史実の全体も、またひとつの神話として、すてなければならなくなる。
「神話」は「史実」でない部分をふくむからといって、「神話」の全体をすてさるのではなく、どの部分が史実であるかを、ふるいわけ、とりだす技術をみがくことこそが重要である。



■「世代差による年代間隔」と「在位期間」とは異なる
「世代差による年代間隔(世代間年代差)」と「在位期間(在位年数)」と異なる。この二つは、よくゴッチャにして議論されている。
「在位期間」は、現代でいえば、総理大臣職にあたるような「国政担当期間」、あるいは「名目的政治代表者である期間」で、天皇あるいは皇帝という一種の「職」にある期間である。
「在位期間」はふつう、「世代間年代差」よりも小さい。


コラム 世数と代数
古代の天皇の活躍年代(あるいは、即位年代、在位年代など)を推定しようとするばあい、天皇の「代数」を基本的な変数(独立変数)と考える立場と、天皇の「世数」を基本的な変数と考える立場とがある。
たとえば、右上の系図のようなばあい、第二十四代仁賢天皇は、第十六代仁徳天皇から数えて「八代目」の天皇である。しかし、世数からいえば、「三世目」の天皇である。「世数」では、親子関係によって、何世目かを数えるわけである。

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天皇の継承で、父から子に長く続いた例は少なく、
第119第光格天皇から現在の今上天皇の例で、8代続いているのが最長である。

その前は5代続いた例が、平安時代の第71代後三条天皇からと、戦国織豊時代の第102代後花園天皇からと、江戸時代の第112代霊元天皇からの3例である。(下図参照)

それなのに、伝承時代は第1代神武天皇から第13代成務天皇までの13代と続いている。

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この例から、平安時代の第71代後三条天皇から崇徳天皇までのつながりを詳細にみると、下記となる。
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このように、白河天皇は没するまでに、子供の堀川天皇(8歳で即位)、孫の鳥羽天皇(5歳で即位)の後見役となっている。白河天皇の存命中に3代の天皇が即位していったことになる。
つまり、一世二世の数え方は、天皇の在位年数を数える時に役に立たない。
一般的な戸主を考えるように、親がやめたら、息子が戸主になり、その親がやめたらその子(最初の孫にあたる)が戸主になるというようにならない。

だから、天皇の一世、二世で考えるより、天皇の一代、二代で考える方が良い。

 

■代数情報は、父子関係情報・兄弟関係情報よりも信頼できる
たとえば、古代の百済の王の系譜の例をみてみよう。
百済王の代数情報については、『日本書紀』と、朝鮮の史書『三国史記』とで、伝えるところが一致している。しかし、王の系譜の父子関係、兄弟関係などは、『三国史記』とで、かなり異なっている(下の系図参照)。401-07


時代の古いところで、その異なりは大きい。しかも、『日本書紀』と『三国史記』とは、それぞれ文献としての長所をもっている。すなわち、つぎのとおりである。

(1)『日本書紀』の成立は、720年である。『三国史記』の成立は、1145年である。『日本書紀』のほうが、『三国史記』よりも、400年以上はやく成立している。すなわち、古い情報をとどめている可能性が大きい。

(2)『三国史記』は、地元の朝鮮で成立した文献である。外国の史書『日本書紀』の記事よりも、伝聞的要素が少ないはずである。
上の系図にみられるように、『日本書紀』によるとき、第二十代毗有王(ひゆうおう)の四世目(父子関係で、四世代目)の孫が、第二十七代威徳王(いとくおう)である。いっぽう、『三国史記』によるとき、第二十代毗有王(ひゆうおう)の孫が、第二十七代威徳王である。王の代数は『日本書紀』も『三国史記』も、威徳王は毗有王(ひゆうおう)から数えて、同じく七代目で一致している。しかし、世数は四世目と六世目とで異なっている。
このように、世数情報(父子関係情報)は、あやふやであるが、王の代数情報は、よりよく伝えられているようにみえる。

考古学者の笠井新也は、つぎのようにのべている。
「わが国の古代における皇位継承の状態を観察すると、神武天皇から仁徳天皇にいたるまでの十六代の間は、ほとんど全部父から子へ、子から孫へと垂直的に継承されたことになっている。しかし、このようなことは、私の大いに疑問とするところである。なぜならば、わが国において史実が正確に記載し始められた仁徳以後の歴史、とくに奈良朝以前の時代においては、皇位は、多くのばあい、兄から弟へ、弟からつぎの弟へと、水平的に伝えられているからである、かの仁徳天皇の三皇子が、履中(りちゅう)・反正(はんぜい)・允恭(いんぎょう)と順次水平に皇位を伝え、継体天皇の三皇子が、安閑(あんかん)・宣化(せんか)・欽明(きんめい)と同じく水平に伝え、欽明天皇の三皇子・一皇女の四兄弟妹が、敏達(びたつ)・用明・崇俊(すしゅん)・推古と同じく水平に伝えたがごときは、その著しい例である。したがって、この事実を基礎として考えるときは、仁徳天皇以前における継承が、単純に、ほとんど一直線に垂下したものとは、容易に信じがたいのである。

山路愛山(やまじあいざん)は、その力作『日本国史草稿』において、このことに論及し、『直系の親子が縦の線のごとく相次いで世をうけるのは、中国式であって、古(いにしえ)の日本式ではない』。それは、『信ずべき歴史が日本に始った履中天皇以後の皇位継承の例を見ればすぐわかる』『仁徳天皇から天武天皇まで通計二十三例のあいだに、父から子、子から孫と三代のあいだ、直系で縦線に皇位の伝った中国式のものは一つもなく、たいてい同母の兄弟、時としては異母の兄弟のあいだに横線に伝って行く』『もし父子あいつづいて縦に世系の伝って行く中国式が古の皇位継承の例ならば、信ずべき歴史が始ってからの二十三帝が、ことごとくその様式に従わないのは、誠に異常なことと言わなければならない。ゆえに私達は、信ずべき歴史の始まらないまえの諸帝も、やはり歴史後と同じく、多くは同母兄弟をもって皇位を継承してたであろうと信ずる』と喝破(かっぱ)しているのは傾聴すべきである。」(「卑弥呼即ち倭迹迹日百襲姫命」『考古学雑誌』第十四巻、第七号、1924年【大正十三年】四月、所収)

慶応大学の教授であった橋本増吉、大著『東洋史上よりみたる日本上古史研究』(東洋文庫、1956年刊)のなかで、つぎのようにのべている。
「父子直系のばあいの一世平均年数が、ほぼ二十五、六年ないし三十年前後(じっさいはもうすこし短い)であることは、那珂博士の論じられたとおりであろうけれども、わが上代のおよその紀年を知るために必要なのは、父子直系の一世平均年数ではなく、歴代天皇のご在位年数なのであるから、那珂博士算出の平均一世年数をもって、ただちに上代の諸天皇の御在位平均年数として利用すべきでないことは、明白なところである。」

笠井新也は、邪馬台国問題に関連して、卑弥呼を「わが古代史上のスフィンクス」と呼び、およそつぎのようにのべている。
「邪馬台国と卑弥呼とは、『魏志倭人伝』の中のもっとも重要な二つの名で、しかも、もっとも密接な関係をもつものである。そのいずれか一方さえ解決を得れば、他はおのずから帰着点を見出すべきものである。すなわち、邪馬台国はどこであるかという問題さえ解決すれば、卑弥呼が九州の女酋であるか、あるいは、大和朝廷に関係のある女性であるかの問題は、おのずから解決する。また、卑弥呼が何者であるかという問題さえ解決すれば、邪馬台国が畿内にあるか九州にあるかは、おのずから決するのである。したがって、私は、この二つのうち、解決の容易なものから手をつけて、これを究明し、そののちに他に考えおよぶのが、怜悧な研究方法であろうと思う。」(「邪馬台国は大和である」〔『考古学雑誌』第十二巻第七号、1922年3月〕)

「思うに、『魏志倭人伝』における邪馬台国と卑弥呼との関係は、たがいに密接不離の関係にあり、これが研究は両々あいまち、あい援(たす)けて、初めて完全な解決に到達するものである。その一方が解決されたかに見えても、それは真の解決とは言いがたいのである。たとえば錠と鍵との関係のごとく、両者相契合(けいごう)[割符(わりふ)のあうようにあうこと]して初めてそれぞれ正しい錠であり、正しい鍵であることが決定されるのである。」(「卑弥呼の冢墓と箸墓」〔『考古学雑誌』第三十二巻第七号、1942年7月〕)
つまり、「邪馬台国問題」については、つぎの二つが、同時に解決されなければ真の解決とはいえない、というのである。

(1)邪馬台国はどこか。
(2)卑弥呼はだれか。

より統一理論を求めよ、ということである。統一理論を求めよ、ということは、妥当な見解である。

笠井新也の説
箸墓古墳=倭迹迹日百襲姫の墓=卑弥呼の墓
(これでは、男王 崇神天皇が、卑弥呼と別にいることになる。)

「パラレル年代推定法」によれば、魏の国の斉王芳が、卑弥呼、天照大御神の三者の年代が、ほぼ正確に一致する。かつ、卑弥呼と天照大御神とのあいだには、ともに女性であるという一致がみられる。

以上のべてきたように、卑弥呼は神話時代の天照大御神の時代にあたる。崇神天皇の時代に構築された箸墓古墳が卑弥呼の墓であることはありえない。百年以上年代が違っているとみるべきである。


2.邪馬台国探究のための方法について

■邪馬台国探究のための方法について
最新の邪馬台国新聞に下記の「邪馬台国北九州説の崩壊」という記事があるが、「邪馬台国探究」ということで、問題点を指摘してみる。

全国邪馬台国連絡協議会会報第14号、邪馬台国新聞、発行 2022年4月25日
邪馬台国北九州説の崩壊 (公)大平正芳記念財団 大平裕
本題に入る前に指摘したいのは、いわゆる「邪馬台国」という国名、呼称についてです。やまとことばの「ヤマト(やまと)」、『後漢書(倭伝)』の「邪馬臺(たい)国」、『三国志魏書倭人伝』(以下『魏志倭人伝』)の伝える「邪馬壹(い)国」、そして『後漢書(倭伝)』の注釈、『晴書倭国伝』及び清朝時代の『後漢書集解』のいう「邪馬堆(と)国」という4種類があるということです。殆んどの学者たちは、これらのいきさつ、原典を見過ごし、『魏志倭人伝』を使用しながら同伝の「邪馬壹(い)国」を誤字として『後漢書』の「邪馬臺(たい)国(邪馬台国)」という国名をフルに使っているのです。
これは重要なポイントで、『後漢書(倭伝)』の注釈は7世紀、唐の高宗と則天武后の第2子、章懐(しょうかい)太子が指摘しているのですが、当時の中国からの使節が、本来は(ヤマトの)「卜」という「音」を誤って、「堆」とすべきものを、「臺(たい)」の字を当ててしまったというものです。太子は『後漢書』の注釈者として有名な学者です。
筆者は「ヤマタイコク」という呼称は、日本語(やまとことば)には似つかわしくない言葉であり、章懐太子が指摘しているように、本来あるべき我が国の国名は「ヤマト(邪馬堆)」に違いないと思っています。
もしこの説が正しいということになれば、まず、いわゆる「邪馬台国北九州説」は全く成り立たないということになります。福岡県みやま市には「山門(やまと)」という地名がありますが、これは発音の表記から「ヤマト(大和)」と同じ発音はないので、検討の対象から外れた言説です。
さて、本題に入りますと、筆者が「邪馬台国北九州説」崩壊の理由として、第一に問題として取り上げるのが、「夷守(ひなもり)」です。「夷守」とは、遠方の国境周辺に展開する防衛拠点、防衛組織及びその役職を意味する言葉ですが、なんと北九州には対馬国、一大(壱岐)国、奴国、不弥国に夷守が置かれていました。「夷守」というのは、遠くにあって国を守るという意味ですから、北九州、特に福岡県の甘木(あまき)、朝倉、夜須(やす)あたりが都であれば、東京都のすぐ真北に北海道防衛師団の本拠地を何ヶ所も抱えているようなもので、全く不合理な話で理に合わないことになります。

「夷守」という地名は、『延喜式』にも現在の博多の東方付近の官道沿いに「夷守駅」が記載されていて、平安時代にも都からの遠方を認識・記憶していたようです。また、第12代景行天皇の九州巡行の際に訪れた襲(そ)の国との国境、現在の小林市に「夷守」が置かれていましたが、これは大和の地からは最南端の地の防衛拠点の跡で、肯(うなず)けられる話です。

この記事での指摘は、古代の日本では、「と]という音には甲類の「と」と乙類の「と」の区別があった。「山門(やまと)」と「ヤマト(大和)」とは違うとしている。

また、「ひなもり」は、都から離れた地域で、邪馬台国が福岡県の甘木(あまき)、朝倉、夜須(やす)あたりであれば、対馬国、一大(壱岐)国、奴国、不弥国に夷守があるので、近すぎるとしている。

この指摘は、部分的なところだけを見て指摘している。

『時代別 国語大辞典 上代辺』(三省堂刊)に「ひなもり」が記載されている。
ひなもり(名)
地方を司る役らしい。鄙(ヒナ)=守(モリ)か。魏志倭人伝によればヒコの副官という。「始度一海、千余里至対馬国、其大官曰卑狗副曰卑奴母離(ひなもり)」「南渡一海一千余里、命曰瀚海、至一大国、官亦曰卑狗、副曰卑奴母離(ひなもり)」(魏志倭人伝)【考】「巡狩筑紫国始到夷守(ヒナモリ)、是時於石瀬河辺、人衆聚集、於是天皇遙望之、詔左右曰、其集者何人也、若賊乎、乃遣兄夷守(ヒナモリ)、弟夷守(ヒナモリ)二人令覩」(景行紀一八年)のヒナモリは地名およびその地の有力者の名かと思われる。時代はへだたるが、同じ筑紫のことであり、第一、二例のヒナモリと何らかの関連があるかもしれない。なお、用例の魏志が当時の国語の音をどの程度に写したかは問題であるが、モリのモは古事記では甲類であるのに、ここでは乙類を表わす「毋」字が用いられている。「奴」をナと訓むことについては、同書に見える「奴佳鞮」をナカトミと訓む説がある。

上記、『時代別 国語大辞典 上代辺』から、「ひなもり」は、
『古事記』では甲類の「も」であり、『魏志倭人伝』では乙類の「も」となる。

大平氏のしてきは、「山門(やまと)」と「ヤマト(大和)」で甲類と乙類の違いを指摘し、「ひなもり」では、『古事記』と『魏志倭人伝』での甲類と乙類の違いを知らないようである。この矛盾をどう考えるか。

古代では甲類と乙類の違いについて、厳密性に疑問があるところもあるので、甲類と乙類だけを問題にすることもできないと考えられる。

「またひなもり」は都から離れている必要があるとしているが、時代によって距離感が違うと考えられる。
・実際に歩いてみれば……
投馬国までの「水行二十日」や、女王国までの「水行十日、陸行一月」などの日程記事については。二人の学者によって、別々の見地から、それほど遠くまでは、進めなかったとする見解が提出されている。
その一人は、東海大学の茂在寅男教授である。
茂在氏は、リアス式海岸沿いに歩いて、現実に、一日どのていど歩けるかを、東海大学の学生や、現地の郷土史研究家たちの協力を得つつ体験してみた。
茂在氏はいう。
「熱暑の中、道なき道を歩む。想像以上の難行苦行の連続であった。……リアス式海岸伝いに歩くと、至る所が難所だらけで、一日の行程は七キロがやっとであり、そのペースで二日歩いて到達した所は、直線距離にして僅かに五キロしかない地点に到達するのがやっと、という場合の連続といえた。」

「この実地踏査によっていえることは、例えば魏使が佐賀県の呼子港に第一歩を印したとして、陸行一月では、せいぜい佐世保市あたりまでしか行けない、ということを確認できたのが実情である。」

「私は言いたい。『唯(ただ)の一日で良いから、私と同じ体験をしてから意見を述べてくれ。』と。」
(以上、大和書房刊『東アジアの古代文化』1987年秋、53号)

「現実に『歩く』という実験を伴わずに思考すれば、どんな人でも、『陸行一日の距離』を大き目に算定するということである。ところで、解り切っていることでありながら、実験を伴って、毎日毎日、連続歩行を続けたうえで、もう一度『陸行一日の距離』を算定すると、これは、想像以上に数字が小さくなってしまうのである。このこと自体、私は多くの協力者や学生と行動をともにして確認しているのである。」

「普通一般の人は、『万歩計』という小計器が普及していることでも解るとおり、よほど努力しても毎日毎日万歩を歩き続けることは困難なのである。普通一般の人が普通に長距離を歩く場合には七十五センチより歩幅は若干狭いといえる。すなわち、一日行程は連日歩行な場合七キロぐらいではなかろうか、ということを『万歩計』使用経験者は納得するのではないであろうか。これとても一般の道路やゴルフ場のように整地されている平地を歩く場合である。」(以上、梓書院刊『季刊邪馬台国』35号所載「実地踏査にもとづく『倭人伝』の里程」、1988年)

たしかに、ふつうの人が、ふつうに歩き続ける距離を考えるべきであって、陸軍の行軍で進むような距離を考えるのは、適切でないともいえる。

台湾の学者、謝銘仁氏の見解
また、台湾の海洋学院大学教授の謝銘仁博士は、『邪馬台国 中国人はこう読む』(徳間文庫)をあらわし、茂在寅男氏とは、別の観点から、一日あたりの行程が、それほど大きくはなかったであろうことをのべる。
邪馬台国へいたる旅程記事のうちの、「水行十日、陸行一月」という語句は、これまで、つぎの二つの読みかたの、いずれかに読まれてきた。
「水行十日して、しかるのち、さらに陸行一月(水行十日と、陸行一月とは、andでつながるとみる)。」

「水行十日、または、陸行一月(水行十日、陸行一月とは、同じ旅程を、二とおりの形で表現したとみる。水行十日と陸行一月とは、orでつながると考える)。」

謝銘仁博士は、このいずれの読みかたも、違っているであろうとする。
謝銘仁博士は、くわしい根拠をあげて、つぎのようにのべる。
「『水行二十日』『水行十日』『陸行一月』は、休日・節日や、いろいろな事情によって、ひまどって遅れたり、鬼神への配慮などから道を急ぐのを控えた日々をひっくるめた総日数に、修辞も加わって記されたものである。決して実際にかかった。”所要日数”のことを意味しているのではない。」

「この日程記事は、先に水路を『十日』行ってから、引き続いて、陸路を『一月』行ったという意味ではない。地勢によって、沿海水行したり、山谷を乗り越えたり、川や沼地を渡ったり、陸路を行ったり、水行に陸行、陸行に水行をくり返し、さらに天候や何かの事情により進めなかった日数や休息・祭日その他の日数も加算し、卜旬の風習も頭に入れて、大ざっぱながらも、整然とした『十日』『一月』で表記したのであろう。」
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つまり、魏使の道程には、水行の部分、陸行の部分、さまざまな部分かあり、その水行の部分を合計すれば、「水行十日」となり、陸行の部分を合計すれば、「陸行一月」となるという意味であるとする。「水行十日、陸行一月」は、かかった総日数であって、実際に旅行し、進みつづけた日数ではないとする。

 

 

また、「不弥国」の比定地としてはつぎの二つが有力である。
(1)福岡県粕屋(かすや)郡宇美(うみ)町
(2)福岡県嘉穂(かほ)郡穂波(ほなみ)町

このように、『魏志倭人伝』の時代は、北九州の中でも、相当離れた距離であるということも考えられる。

このように、いろいろな観点から議論すべきである。

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