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邪馬台国の会事務局

奈良・纏向遺跡と巨大古墳の旅

  (2012.9.29-30)


1日目            

唐古・鍵遺跡−唐古・鍵考古学ミュージアム
最初の訪問地は、奈良盆地の中央部にある唐古鍵遺跡。唐古池(現代の溜め池)のほとりに復元された楼閣がお出迎え。遺跡は弥生時代を通して営まれた多重大環濠集落であるが、それが楼観一つだけの復元ではちょっと寂しい。参加者は先生の解説に熱心に耳を傾ける。

鏡作神社の横を通って、考古ミュージアムへ。3人のボランティアガイドに迎えられ館内へ。復元楼観の元になった絵画土器をはじめ、銅鐸の鋳型、井戸枠に利用された大臼と大甕、褐鉄鉱容器に入れられた2つのヒスイ勾玉、弥生時代に鶏を証明した鶏頭形土製品など貴重な遺物が目白押し。すばらしい!
唐古・鍵遺跡
羽田からの出発大和神社
唐古・鍵遺跡の復元建物と説明
黒塚でバスより降りる
黒塚でバスより降りる 黒塚古墳
黒塚古墳
黒塚古墳、黒塚古墳展示館
黒塚古墳は周濠のある前方後円墳で4世紀築造。皆で墳頂に登り、ここで記念撮影。
  展示館には石積みの竪穴式石室が原寸大で復元されている。粘土棺床には鮮明な赤色の水銀朱が敷かれ、木棺を取り囲むように33面の三角縁神獣鏡が立てかけられている。壮観である。棺内にただ一面の画文帯神獣鏡はなにを語りかけているのだろう。2階の多数の鏡展示はレプリカでもうれしい。
黒塚古墳で集合写真
黒塚古墳で全員集合

纏向遺跡群
石塚古墳−纏向遺跡−箸墓古墳−ホケノ山古墳−桜井市立埋蔵文化財センター

纏向古墳群のなかで一番古いといわれる石塚古墳。雑草に覆われ墳形の様子すらわからない。隣接する小学校の運動会の放送がむなしく響く。
バスが通らない道を 徒歩にて、纏向遺跡へ向かう。線路脇の空き地、ここがそうです、との説明。遺跡見学会の写真を見ると写っている民家が目の前にある。まちがいない、ここだ。ここから大型建物跡をふくむ4軒の建物跡が見つかった。でも、いくら軸線や方位が揃っているからといって、なぜ卑弥呼の宮殿なんだろう。不可解。

つぎが待望の箸墓古墳。さすがに大きい。前方部には第7代考霊天皇の皇女、倭迹迹日百襲姫命の大市墓と表示がある。部分的な発掘で空堀の周濠と葺石が確認されている。布留0式の土器や布留1式期層出土の木製の輪鐙がある。これで箸墓古墳の築造時期は、研究者によって3世紀中ごろから4世紀中ごろまである。いったい日本の考古学者はどうなっているのだろう。なにがなんでも卑弥呼の墓にしたいのだろうか。誰かが卑弥呼の思いをブログに書いていた。“箸墓の前で泣かないでください。そこに私はいません♪”


つぎはバスが行けないので徒歩でホケノ山古墳へ。墳頂に登ると目の前に箸墓の森が見える。この古墳には3つの埋葬施設があり、主体は後円部中央から検出。現在は見られないが、石囲い木槨木棺墓である。ここからは画文帯神獣鏡1面と内行花文鏡片などのほか問題の小形丸底土器が出土している。築造時期は箸墓より古いという。 


桜井市立埋蔵文化財センターは閉館時間を延長して見せてくれた。感謝。ここには纏向遺跡で出土した遺物がまとめて展示されている。木製の仮面も箸墓の木製輪鐙も弧文板もここにある。展示説明パネルにちょっと疑問、先生を交えて喧々諤々の大論争。




バスにゆられて、大和三山を左右に眺めながら、ホテル着。

石野博信先生の講演、石野VS安本対談
夕食後、「ヤマト纏向王宮と箸中山古墳」と題する石野先生の講演。
 講演の後、安本先生が質問する形で対談が進む。あっという間の一時間半だった。またまた、続きは東京でということになった。
お酒自粛の話があり、皆さん、酒も飲まずに熱心に聞き入る。この結果、関西文化シヤッターから差し入れてもっらった焼酎とワインで焼酎は呑み切れず、翌日に焼酎2本をバス会社に贈呈した。焼酎1本は空港まで持って行ったが搭乗時泣く泣く処分した・・・焼酎を捨てたのは初めてだ!!
石塚古墳
石塚古墳新聞発表の纏向の大型建物
新聞発表の纏向の大型建物跡付近今回の大型建物付近
今回の大型建物跡付近箸墓古墳(大市墓)
箸墓古墳(大市墓)ホケノ山古墳纏
ホケノ山古墳桜井市立埋蔵文化財センター
桜井市立埋蔵文化財センター
石野先生講演
石野先生講演
石野VS安本対談
石野VS安本対談
安本先生、石野先生、内野会長
安本先生、石野先生、内野会長

2日目

車窓より飛鳥周辺
台風接近の情報に心配しながらホテルを出発。日本で6番目に大きい見瀬丸山古墳を左にまがり、天智天皇時代建立の川原寺跡と田道間守ゆかりの橘寺のあいだを抜け、蘇我馬子?の石舞台古墳の近くを通り、乙巳の変で蘇我氏を裏切った蘇我石川麻呂が発願の山田寺跡を遠くにのぞみ、飛鳥の地をぐるりとまわり、バスは一路大阪へ。

仁徳天皇陵古墳
仁徳天皇陵古墳はさすがに大きい。全景を見るには飛行機を使うほかはないと言われた。一周を歩くとゆうに一時間はかかるという。ここでも全員集合で記念写真をパチリ。雨がポツポツ降ってきた。誰かがなんで二カ所も石室があるのだろうと言っていた。掘らせてくれなければ永遠の謎。掘ってもまた謎が謎を生むか?
仁徳天皇陵古墳
仁徳天皇陵古墳
仁徳天皇陵古墳
仁徳天皇陵古墳
仁徳天皇陵古墳付近案内図
仁徳天皇陵古墳付近案内図
仁徳天皇陵古墳模型
仁徳天皇陵古墳模型
仁徳天皇陵古墳前で集合写真
仁徳天皇陵古墳前で全員集合
大阪府立弥生文化博物館学芸員
大阪府立弥生文化博物館学芸員大阪府立弥生文化博物館学芸員
大阪府立弥生文化博物館学芸員
大阪府立弥生文化博物館、池上曽根遺跡
 土砂降りのなかを大阪府立弥生文化博物館に到着。博物館は台風のため急遽閉館となったが、それを特別に入れてくれた。ありがたいの一言。案内してくれた学芸員のひとがとても親切。展示は全国の弥生遺物を網羅して弥生時代をわかりやすく説明している。年輪年代法で紀元前52年伐採の柱、直径約2mのくりぬき井戸、想像模型の卑弥呼の館、巡構造船の実大模型などなど。視覚ににうったえる展示はみごと。あとは弥生時代の年代問題が解決できたら最高!

 遺跡へは豪雨のため入口付近までしか行けなかった。遠くに独立棟持柱の高床式大型建物と大井戸が見える。男女をあらわす2本の立柱には気がつかなかった。残念。環濠の溝は広くて浅い。当時がどうだったか確かではないが、これでは防御には役に立たない。これは排水溝だな。直感で思う。

応神天皇陵古墳
 応神天皇陵古墳は雨の中。日本で最大の墳丘体積を有するだけのことはあって、巨大な森が目の前に迫っている。全体の墳形はまるでわからない。なんでこんなに巨大な古墳を造ったのだろう。帰りのバスで安本先生が解説してくれた。当時、国家体制が整い、全国から税として米が大和朝廷に集まる。都では人が集まり、人手が過剰になる。長期保存のきかない米の有効利用と労働口の提供のための公共事業として古墳造営は行なわれたという。なるほど、目からウロコである。

おまけ 大阪伊丹空港
 台風に追いかけられながら早めに空港へむかう。15:30発の飛行機の乗るため搭乗手続きの済ませ、しばしロビーで待つ。場内放送が流れる。“15:30発の飛行機は東京からの便が引き返したために欠航となりました”唖然、呆然、皆愕然。新幹線に振り替えて帰るひと、翌日の飛行機で帰る人。とにかく皆さん、なんとか無事に帰れて、まずはよかった。これも良い思い出かな?!
応神天皇陵古墳遠景
応神天皇陵古墳遠景応神天皇陵古墳
応神天皇陵古墳


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