邪馬台国はどこにあったか。長く続いてきたこの論争に、今度こそ決着がつきそうだ。
元産能大教授安本美典さんが著した
「大和朝廷の起源 邪馬台国の東遷と神武東征伝承」(勉誠出版、3360円)は、統計数学とコンピューターを使った新しい文献学の手法で、「古事記」や「日本書紀」などの史料を分析。
北九州にあった邪馬台国が周辺の氏族を支配下に収めて
畿内へと移った経過を、「魏志倭人伝」など中国の史書とも矛盾なく説明する。
七月の発売以来、売り切れ続出で増刷に次ぐ増刷。全国の古代史研究者からいかに注目されているかがうかがえる。
(編集委員 橘井潤)
統計数学使い年代を分析
畿内移動の経過矛盾なく
邪馬台国は北九州にあったとする「九州説」。奈良にあったとする「畿内説」。さら
にはフィリピン、ジャワなどさまざまな説が出された。
部分的にはもっともらしくても、全体を説明できない説がほとんどです。本当に正しい説なら、日本の文献も中国の文献も考古学の史料も統一して説明できるはず。
それには客観的な基準が必要で、「私はこう思う」と言うだけではだめです。
また、日本の歴史学界では、戦前の皇国史観への反発もあって、古事記や日本書紀を「大和朝廷の統治を正当化するためのでっち上げ」と軽視する傾向があったのも問題です。
常識で考えてみましょう。
「記紀」の成立は、日本最古の物語「竹取物語」よりはるか前。当時これほどの「長編
小説」を誰が書けたのでしょうか。
大和朝廷の役人の作り話なら、舞台は大和地方が中心になるはずなのに、実際は九州と出雲の話が圧倒的に多いのはなぜか。
「記紀」は当時の伝承に基づいて書かれ、史実を反映していると考えた方がずっと合理的です。
古い天皇の在位が不自然に長いことが指摘されますが、私の考えは割と簡単で、日本
書紀に書かれている年代を思い切って縮めてやれば、中国の歴史書ともぴったり合うん
じゃないかということです。
そこで数学を使って統計的に調べ直してみたのです。
一見、事実とはかけ離れた「日本書紀」の記述から実際の年代を推定してゆくところ
は、良質のミステリーのような面白さだ。
日本書紀の出来事をすべてコンピューターで西暦に変換して分布を調べると、不自然に等間隔に並んでいるところがあるなど、確かに作為が見られます。日本書紀の筆者はある意図をもって時間を引き延ばしているのです。
一方、神武天皇などの寿命や在位が長いといっても、旧約聖書のアダムの930歳
のような極端な話はありません。
古い時代には春と秋に二度年を取る「一年二歳」の習慣があったことや、「記紀」の示す数字の相関などから、これらの天皇が実在し、その寿命や在位期間をもとに筆者が操作した数字らしいことが分かりました。
さらに「宋書」など中国の文献も併せて検討すると、初代から20代までの天皇の在
位は、平均約十年とみることができる。これを当てはめると、神武天皇は270−80
年ごろの人。その五代前の天照大神は230年ごろの人となり、「魏志倭人伝」の卑弥
呼とぴったり重なります。
北九州と奈良地方でよく似た地名があることを考えると、「記紀]の「神武東征」
は北九州にあった邪馬台国が東へと本拠地を移し、大和朝廷になってゆく過程を記録し
たとみるのが自然です。
文献や史料を丹念に分析する安本さんの手法とは対照的に、「トンデモ学説」が流れることが、歴史や言語の分野ではしばしばある。
東北地方に独自の王朝があったという東日外三郡誌(つがるそとさんぐんし)」がもてはやされたり、「万葉集は朝鮮語で読める」という説が語られたりしました。
「東日流−」は筆跡などから「発見者」が自分で書いたもの。日本語と朝鮮語の関係も、統計学的にみて両者が分かれたのは六、七干年前で、英語とドイツ語よりずっと遠く、万葉集が朝鮮語で読めるはずがありません。
邪馬台国畿内説にしても、各地で出土した「三角縁神獣鏡」が、魏から卑弥呼に贈ら
れた「百枚の鏡」だとして自説の根拠とする人たちがいます。
しかしこの鏡は国内では何百面も出土する一方、中国では一面も見つかっていない。どうして魏の鏡といえるのかはなはだ疑問です。
歴史学など文科系の学問でも科学的な実証は大切です。
論文に数式が入っていると拒否反応を示す研究者がまだ多く、まともな議論にならない
のは残念なことです。
2005年10月2日 北海道新聞 「ほん」欄