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大和朝廷の起源
邪馬台国の東遷と神武東征伝承 |
『古事記』『日本書紀』の伝える神武東征伝承こそ、邪馬台国勢力東遷の記憶である。
神話は、史実を伝えている。 北九州に存在した邪馬台国(高天の原)勢力の一部は、 卑弥呼(天照大御神)の死後、南九州に下った。 南遷した勢力のなかから、神武天皇の名で伝えられる人物があらわれる。 神武天皇は、西暦3世紀の末に東征し、大和朝廷をひらいた。 |
■ 著者インタビュー (北海道新聞「ほん」欄 10月2日) |
■ 書評 立花隆氏、本書を絶賛 (週刊文春8月25日号 文春図書館より) |
安本美典『大和朝廷の起源』(勉誠出版 3200円+税)には、「邪馬台国の東遷と神武東征伝承」という副題がついている。
この本を読むまでは、私も通説に従って、神武天皇などというものは、神話伝説上の人物にすぎず、リアルな存在では全くないと思っていた。 しかし、この本を読んだ後はちがう。神武天皇伝説の背景には、骨格において伝説に近い史実があったにちがいないと思っている。 古代史に関心がある人はよく知るように、安本美典は、古代史に関して数々の著書をものにしてきたその道の専門家であり、かつ激しい論争を好んでする当代一流のポレミストである。 安本は基本的に、戦後日本の古代史を縛ってきた津田左右吉の文献批判学を否定的にとらえる立場に立つ。 すなわち、戦後日本の史学で金科玉条とされてきた、「古事記、日本書紀に記録されている飛鳥朝以前の初期天皇に関する記述は、ほとんどが天皇家の支配を合理化するために後世に作出された神話伝説のたぐいで、史実として信用するに価しない」という津田史学の基本的考え方はおかしいとする側に立つ。 津田左右吉の文献批判は、時代遅れの19世紀的方法論に立つもので、科学的根拠に乏しく、その本質において主観的思い込みにすぎないとする。 現代の文献批判は、数理統計学的立場から科学的になされるべきとして、その方法論を詳細に解説しつつ、それを適用実践していくところに本書の特色がある。 その方法論が「天皇の在位年数と寿命」の分析に適用される第2章と、その議論の延長の上に、「神武東征の理由と時期」が論じられる第5章が圧巻である。 日本建国(神武天皇即位)を紀元前660年とした建国神話信奉者の考えは全くの誤りで、古代の天皇の在位期間は平均10年前後と考えるのが正しく、神武天皇は西暦280年ごろ活動していた実在の人物とされる。その陵墓の場所(現神武天皇陵)の誤りを説く「プロローグ」は秀逸。 記紀で神武天皇の5代前の祖先と伝えられる天照大御神は、西暦230年ごろの人で(神ではなく)、これは、魏志倭人伝に記されている卑弥呼が活躍した年代とピッタリ重なり合うところから、天照大御神とは、邪馬台国の女王卑弥呼にほかならないことが論証されていくあたり、お見事というほかない。 その邪馬台国(北九州)が、国をあげて畿内の大和地方に東遷(武力を伴った民族大移動)していったのが、神武天皇の東征神話にほかならないとされる。この大仮説に従って、これまで古代史の大いなる謎とされてきたことが、次から次にきれいに説明されていく。 論証の基本的方法論は、仮説検証推論(どの仮説が、知られている事実のすべてをいちばんよく説明するかを検討していく)であるから、この説だけが絶対に正しいという絶対論証にはならない。従ってここに書かれた諸説はあくまで「推理」でしかないが、私はこの本によって、古代史にまつわる多くの謎のモヤモヤがきれいに整理され、取りのぞかれた思いがして、大筋これで結構と思っている。 もうこれ以上、「邪馬台国はどこだ?」式の議論に付き合って頭を悩ませるのは止めたとキッパリ思った。 |
■ 本書「はじめに」より |
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大和朝廷は、いつ、どのように成立したのか。天皇家は、なぜ、日本の歴史に対して、大きな影響を持ち
つづけたのか。
このような問題に、正面から答えるためには、第一代の天皇、神武天皇の東征伝承を分析・探究すること は、さけて通れない。 『日本書紀』は語る。神武天皇は、西暦紀元前の660年にあたる年に、大和の橿原の宮で即位した、と。 このような『日本書紀』の年代は、大幅に延長されている。神武東征伝承は、年代が延長されているにして も、いつかこの日本で起きた史実を、伝承の形で伝えているのか否か。 なぜ、即位年は紀元前660年に定められたのか。これについての現在の定説「辛酉(しんゆう)革命説」には、疑問 がある。「天皇の在位一世60年説」のほうが、定説よりも、ずっと簡単明瞭に、神武天皇の即位年代を説 明しうる。また、宮内庁認定の、現在の神武天皇陵は、場所を誤っている。 この本では、数々の、ナゼ?に答えてみたい。 |
より統一的古代史像を |
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共産中国の建設者、毛沢東は、かつてのべた。
「揚子江は、あるところでは北に流れ、あるところでは南に流れ、あるところでは西にすら流れている。
しかし、大きくみると、かならず西から東へ流れている。」
このことばは、歴史の流れについてのべたものであるが、学問的探究についても、よくあてはまる。 ある特定の岸辺に立った観測にもとづく「部分的真実」は、かならずしも、「全体的真実」とは合致しな い。 日本古代史の探究には、さまざまな立場がある。 『古事記』『日本書紀』などの日本文献にもとづく立場、『魏志倭人伝』などの中国文献などにもとづく立 場、考古学にもとづく立場、神社の由来などをしらべる立場などである。 ある特定の立場の、特定の事実にもとづく立論は、そこだけ見ると正しいように思えても、他の立場の他 の事実と照らしあわせてみると、別の種類の説明のできることがすくなくない。 かくて、さまざまな観測事実を、より総合的に説明できる「統一理論」こそが、より望ましいものとなる。 私が、このシリーズで一貫して述べていることは、『古事記』『日本書紀』などに記されている天皇の年代 を、従来考えられているよりも短かめに縮めさえすれば、日本文献の記すことがらも、中国文献の記すこと がらも、考古学的事実も、神社の由来なども、統一的、整合的に説明できるみこみがあるということである。 『古事記』『日本書紀』に記されている古い時代の記録を、頭から信用しないという津田左右吉流の立場に固執する人々にとっては、私のような考えは、排除すべきもののようにうつるようである。 しかし、科学方法論的にいえば、私のような考えも、一つの仮説であり、津田左右吉流の考えも、一つの 仮説である。 問題は、どちらの仮説に立つほうが、古代史の諸問題を、より総合的・統一的に、より矛盾なく説明できるかである。 津田左右吉流の考えに立つばあい、「古文献は信用できない。」という。とにかく、いろいろなことは、まず疑ってみるべきであるという。 しかし、津田史学は、なにを疑い、なにを信ずるかについて、他の分野の学問的成果や、自然科学的な論理・技術などとも結びつくような形で、客観的基準を提供しているわけではない。 津田史学の流れをひく個々の論者が、客観的基準なく、主観的にひたすら疑わしいとのべているだけ である。 これでは、古代史については、つまるところ「わかりません」「わかるはずがない」と述べているにすぎない。合理的理解を拒否する信念的不可知論である。古代史についての、総合的・統一的な説明体系の構築を、はじめから放棄している。学問・科学というよりも、むしろ、信仰なのである。 第二次世界大戦に敗れた戦後のアナーキイな心情にはマッチするにしても、これでは、他の分野の科学と結びついての進歩発展はできない。いまや時代遅れの学説となりつつある。 |
津田史学と考古学との矛盾は、大きくなっている |
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かくて、考古学の分野では、大和の古墳の築造の年代などは、どんどん古くくりあげられ、きわめて古くから、畿内に巨大な権力が存在していたように主張される。
いっぽう、津田左右吉流の立場にたつ日本文献学の分野では、古い天皇の存在を疑うのはもちろんのこと、比較的新しい時代の天皇の事跡や聖徳太子の存在などまで、つぎつぎと疑うということになる。文献上は、古くからの大和朝廷の権力の存在は、みとめられませんということになる。 かくて、考古学と津田左右吉流の日本文献学との矛盾は、それぞれの立場の探究が深まるにつれ、時がたつにつれ、ますます大きくなっている。 考古学者はいう。 「文献学者のいうように、日本の古代の文献記録は、信頼できない。考古学は、考古学の論理によって、議論を進めるべきである。」 この立場にたつと、前方後円墳の築造年代は、どんどん古くくりあげられて行く。しかし、文献を無視するので、その前方後円墳が、だれの墓で、どのような歴史的な流れのなかで築造されたのか、などは、はじめから、検討の外におかれることになる。 歴史というよりも、考古学的な事実を年代順に並べることが目的となる。 考古学的な事実の歴史的な「意味」や背景の探究などは、問題外のこととなりがちである。 いっぽう、津田左右吉流の文献学者はいう。 「疑いの目でみると、大和朝廷の権力者たちの作った『古事記』『日本書紀』の古代の記事で、確実に信用できるものは、なにもありません。文献上は、日本の古代については、なにもわかりません。」 これでは、考古学の発掘などで、なにが出ようと、文献学者は、なにも発言することはできないことになる。なんらの情報も提供できないことになる。つまるところは、文献学者は、無用の存在となる。 |
津田史学批判の諸氏の見解 |
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津田左右吉が、『古事記』『日本書紀』の「帝紀」は造作したものとするのに対し、精緻な文献考証によって知られた東大の故坂本太郎教授は、古来の伝承を筆録したものとする。
坂本太郎教授は、その根拠を明確に示したうえでのべている。
「古代の歴代の天皇の都の所在地は、後世の人が、頭の中で考えて定めたとしては、不自然である。古
伝を伝えたものとみられる。
「戦後歴史学はどちらかといえば、この国の古代史を、可能な限り発展の遅れた原始的な社会の歴史と
して描くことに力を注いできた。まさに戦前の復古史観に対する反動からであった。」
「だいたい、歴史学というのは本質的には常識の学だと思うんですね。その点、今の古代史は非常識な
んですよ。つまり、どうみても律令国家によって初めて国家というものが成立したというのはこれは常
識と合わないわけです。じゃあそれ以前の推古朝のあれは何なのだと、隋と正式に国交を交わしている。
あれは国家ではないのかということになってくるわけですね。やはり常識に反していると思うんです
ね。」
「稲荷山の鉄剣が出たときに、大彦という四道将軍の名前が出てきて、それで記紀批判のルートが変わ
るのかなと思ったけれども、やはり大彦というのは一般名詞だとか、系譜のうちの前半は信用できない
とか、あの5世紀の段階ではいわれていた系図だが事実ではないとか、あげくには子どもといっている
のは関係ないとか。その通念を守るために今四苦八苦しているという感じですね。」
すくなくとも、日本古代史については、いろいろな立場が存在する。 読者は、どの立場が日本古代史を統一的、整合的に説明するものである、よく検討してみる必要がある。 |
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