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日本神話120の謎

三種の神器の謎を徹底解明

日本神話120の謎

「三種の神器」の謎を、徹底解明する。「八咫の鏡」は、福岡県の平原遺跡から 出土しているような巨大内行花文鏡である可能性が大きい。
現代のやや小がらな 女性(古代の平均的な女性)が、親指と中指をひろげた幅(咫:あた)で、巨大内行花文鏡の 模造品の周を、じっさいに測る実験をしてみると、ほぼ正確に「八咫」になる。
「草薙の剣」は韓国金海良洞里遺跡から出土しているような青銅柄付鉄剣の可能性がかなりある。 この地には、むかし、倭人が住んでいた。
「八尺の勾玉」は、新潟県糸魚川市のふきんでとれた翡翠(硬玉)で製作した 緑の大勾玉とみられる。それは『魏志倭人伝』に記されている
「孔(はなはだ)青い大句珠(おおまがたま)」とも一致する。
「八咫の鏡」と「八尺の勾珠」の始源のものは、火災などで失なわれたとみられる。


本書「はじめに」より

■ 中国の状況から学ぶべきことはないか

最近、中国史において、殷の国以前の、夏王朝が実在したとする本が、つぎつぎと刊行されている(岳南 著『夏王朝は幻ではなかった』柏書房刊。岡村秀典著『夏王朝』講談社刊。宮本一夫著『神話から歴史へー神話時代夏王朝ー』[中国の歴史1]講談社刊)。夏王朝のことは、日本の新聞でも、しばしば報じられるようになった。

司馬遷の編纂した『史記』などによれば中国の古代においては、夏・殷(商)・周の三つの王朝が継起した という。

かつて、中国では「疑古派」(古文献に書かれていることを、疑う立場)が、強い影響力をもち、殷王朝でさえ 架空の王朝であるとされた。

清朝末期の政治家であり学者でもあった康有為(こうゆうい:1858〜1927)は、『孔子改制考』『新学偽経考』な どをあらわし、夏・殷・周の盛世は、孔子が、古にことよせて説きだした理想の世界にすぎない、などと のべた。

北京大学の教授であった胡適(こせき:1891〜1962)は、「東周(西紀前771年に、洛陽ふきんに移って以後の 周)以前に信頼すべき歴史はない。」と説いた。

しかし、殷墟の発掘、甲骨文字の解読は、『史記』の「殷本記」に記されていることが、王名にいたるま で、作為でも、創作でもないことをあきらかにした。

このような事実から、学ぶべきことはないであろうか。

わが国の『古事記』『日本書紀』に記されている「神話」は、『史記』の「夏本紀」や「殷本紀」の記述よ りも、はるかにくわしい。

『史記』の「夏本紀」は、三千数百字の漢字で書かれている。「殷本紀」は、三千字たらずの漢字で書かれ ている。いずれも、三千字前後である。

「夏本紀」と「殷本紀」とをあわせて、ざっと六千字といったところである。

これに対し、わが国の『古事記』の「神話」(上巻)は、本文字数は、漢字で、13885文字。本文以外 の、語の発音や意味などを記した「注」の字数が、漢字で、1859文字である。

本文字数と「注」の字数とをあわせると、15744文字となる。

『日本書紀』の[神代紀」は、二万一千字あまり。

これらの文字数は、『史記』の「殷本紀」や「夏本紀」にくらべれば、はるかに多い。

このほかに、私たちは、『風土記』に記されている神話や、『万葉集』の神話関連の記事や歌をもつ。

日本の神話は、天の石屋物語り、出雲の国譲り、天孫の降臨、南九州神話、などと、時間的展開を示す。 ほのかに、政治的、歴史的な事件と思わせるものを語っている。「神代史」と呼ぶべき内容をもつ。

今日、わが国では、依然として、津田左右吉流の疑古派が、跳梁跋扈している。

疑古派的な考え方は、西洋でも中国でも日本でも、一流のインテリであると、みずから任ずる人たちが、 のめりこむ傾向があるようである。

疑うことが、知性のあかしというわけである。

そして、真実にいたることよりも、疑うことが目的になってしまうのである。

疑古派的な考え方は、くりかえし、事実によって粉砕されたが、わが国では、第二次大戦中の『古事記』 『日本書紀』をそのまま信ずべしとする教育に対する反動から、疑古派的な考えがいまだに強く、結果的に 世界の進運からいちじるしくたち遅れた議論が、あいかわらず強調される傾向がつづいている。

基本的に、方向を誤っている。根本的に反省してみるべき時期にきている。

■ 夏王朝は、幻ではなかった
岳南氏は、『夏王朝は幻ではなかった』のなかでのべる。

「羅振玉(らしんぎょく:1866〜1940)、王国維(おうこくい:1877〜1927)を代表とする研究者は、1899年以降に、 安陽で発見された甲骨文の研究と解説を通じて、疑古派の極端な結論を否定した。そして、伝統的な学 問を近代的な学術に転換すると同時に、歴史文献に記載された殷王朝の神秘に向かって扉をたたき、史 学研究の新しい時代を開いたのであった。」

「王国維の研究のなかのもっとも輝かしい成果によって、古代に関する伝説は、根拠がゼロではないこ とが証明され、古代史はすべて神話であると言い放った疑古主義者を呼び覚ますことになった。」

そしてさらに、殷のまえの夏代の遺跡の発掘が進む。

岳南氏は、のべている。

「1977年春、安金槐が隊員を率いて王城崗(河南省登封)西がわで発掘していたとき、見物していた 村の老人は、夏代の陽城を探すための発掘と聞くと親切に言った。

『夏代の陽城を探しているなら、どうして王城崗の丘の上に行かないのかい。王城崗が夏の禹の住まい と昔から言われているよ。』

老人のこの言葉が、考古チームの運命を変えたのである。」

これが、初期夏文化の研究において無視できない遺跡の発見となった。

考古学上の発見が、文献や伝承にみちびかれておこなわれているのである。

■ 古代史は、総合的探究が必要である
なくなった考古学者、小林行雄は、『古事記』『日本書紀』などをはじめとする古文献によく通じていた。

斎藤忠氏、森浩一氏など、現代の年配の考古学者は、これらの古文献に、深い造詣をもっておられる。

これに対し、若い考古学者や、新聞社の考古学関係の記者には、あれは「作られたものだから」として、 相当な量の古文献など見むきもしない人たちが多い。

そして、考古学だけによって、古代の真実にいたることができると信じこんでしまっている人たちがすく なくない。

立体は、平面図、側面図、正面図がそろって、はじめて、全体像をつかみうる。

古代史像も、日本文献、外国文献、考古学、民俗学などの総合的な情報によって、はじめて、全体像をつ かみうる。

明治維新などでも、もし、言語情報がなかったならば、「軍隊の装備も、一般の人々の服装も、短期間に 大きく変化している.これは、外国の軍隊がきて、日本を占領したにちがいない.」などという誤った結論 を導き出しかねない。

日本古代史の分野では、考古学的観点を強調するあまり、かなり極端な、誤っているとみられる判断が、 横行しているようにみえる。

日本神話なども、もう一度よく検討してみる必要がある。

■ 『魏志倭人伝』の記述は、『古事記』の記述と重なる
「邪馬台国東遷説」の建設者のひとり栗山周一(1892〜1941)は、その著『日本欠史時代の研究』 (1933年、大同館書店刊)のなかでのべている。

「魏志と日本神話とを比較すれば、ここに面白い一致点の多多あるを見いだす。いな倭国に関する魏志 の所伝こそ、わが『古事記』神話にほとんど一致すと言うべきほど、それほどに風俗習慣や社会の状態 が近似しているのである。」

1956年に、『魏志倭人伝』の日本語訳を出した島谷良吉(1899〜1980。高千穂商科大学教授などで あった)は、その『国訳魏志倭人伝』(私家版)の「前がき」のなかでのべている。

「陳寿編纂『魏志巻三十』所載の東夷の一たる『倭人』の記述を見ると、まったく記紀神代の巻の謎を 解くかのように見える。」

『魏志倭人伝』の記述と『古事記』神話とが、ダブル・イメージになっているようにみえるものは、ほと んど際限がない。すこし、その例をあげてみよう。
  1. 卑弥呼と天照大御神(どちらも女性)。

  2. 宗女(一族の娘)台与と万幡豊秋津師比売(高御産巣日の神の娘で、天照大御神の太子の天の忍穂耳の命の妻。 天皇家の祖先の、天孫邇邇芸の命の母)。「台与」と「豊」の音の一致。

  3. 邪馬台国(卑弥呼の都)と高天の原(天照大御神のいたところ)。

  4. 魏の王から卑弥呼に与えられた鏡と八尺の鏡。

  5. 『魏志倭人伝』にみえる「孔青大句珠(孔青い大きな句珠)」と「八尺の勾珠」。

  6. 卑弥呼が魏の王から与えられた「五尺刀」と神話にたびたびでてくる「十拳の劒」。
    「五尺」は、当時 の魏の尺度で、約120センチ。「握」は、握ったこぶしの小指か人差指までの幅。8センチ〜10セ ンチ。「十拳」は、80センチ〜100センチ。弥生時代〜古墳時代前期の墓から、118.9センチの素 環頭鉄刀の出土している例がある(今尾文昭「素環頭鉄刀考」『橿原考古学研究所紀要考古学論攷』第8冊、1982年12月。『季刊邪馬台国』40号転載)。

  7. )北九州の弥生文化と大和の古墳文化の連続性、大和の弥生式文化を代表する銅鐸と古墳文化との非連 続性、北九州の族長たちの墓の副葬品、剣・矛・鏡・玉などと皇室のシンボルの「三種の神器」との共 通性、などからうかがわれる北九州の政治勢力の東への移動と、神武天皇の東征伝承。(ここから、「邪馬 台国東遷説」が生まれる。)
■ 風俗・習慣の一致は?
『魏志倭人伝』と日本神話とには、のちの時代に一般的ではなくなった共通の習俗が、しばしば記されて いる。

たとえば、つぎのようなものである。
  1. 『魏志倭人伝』に、倭人の葬儀では、「水中にいたり、澡浴をする。それは、(中国における)練沐(ねり ぎぬをきての水ごり)のようにする。」と記されている。『古事記』神話では、黄泉の国、死の国をおとず れて帰ってきた伊邪那岐の命は、「いやなおそろしい汚らしい国にいた。禊をしよう。」といって禊をす る。

  2. 『魏志倭人伝』に、「死ぬと、喪を停めること十余日(始死停喪十余日)。」とある.「喪」は、「死んだ 人」、あるいは、「ひつぎ」を意味する。「停喪」は、「もがり(なきがらを喪屋においてとぶらうこと)」をい っているとみられる。「喪屋」の話は、『古事記』『日本書紀』の神話の巻にでてくる。「もがり」については、 『日本書紀』の神話に、「伊弉諾の尊は、その妹(妻)の伊弉冉の尊に合おうと思い、殯斂(もがり)のところに到った。」という形ででてくる。

  3. 『魏志倭人伝』には、人が死んだとき、「喪主は哭泣し、他人は歌舞飲酒につく。」とある。『古事記』 神話には、天の若日子が亡くなったとき、「天の若日子の父の、天津国玉の神とその妻子とは哭き悲し み、喪屋をつくり、八日八夜遊んだ。」という記事がみえる。「停喪十余日」と「八日八夜」も、やや近 いようにみえる。

  4. 『魏志倭人伝』には、「倭の風俗では、行なうこと、言うことのすべてについて、骨をやいて卜する。」 とある。「古事記」神話では、天照大御神が天の石屋にかくれたとき、鹿の肩の骨をとって、占を行な っている。また、弥生時代の遺物として、卜骨が出土している。

  5. 『魏志倭人伝』に、倭人は、「蚕桑し(桑を蚕に与え)、糸をつむいでいる。」とある。『古事記』神話に も、「蚕」の話はでてくる。また、吉野ケ里遺跡をはじめ、おもに九州の各地から、弥生時代の絹が出 土している。
■ 立花隆氏の「私の読書日記」
以上のべてきたような私の立場は、津田左右吉流の文献批判学の立場に固執する人々からは、陰に陽に、 さまざまな批判をうけている。しかし、正面からの論証的批判は意外に、すくないように思える。

逆に、文献批判学の立場にこだわらない、一般的にいって、現代のわが国の知性を代表しうるような人々 からは、しばしば、一定の評価をうけているようにみえる。

自己PRのきらいなしとしないが、現状を記録しておく意味で、すこし、書きとどめておこう。

このシリーズの前著『大和朝廷の起源』について、評論家の立花隆氏は、『週刊文春』の2005年8月 25日号の「私の読書日記」のなかで、つぎのようにのべる。

「×月×日 安本美典『大和朝廷の起源』(勉誠出版3200円+税)には、「邪馬台国の東遷と神武東征伝承」と いう副題がついている。

この本を読むまでは、私も通説に従って、神武天皇などというものは、神話伝説上の人物にすぎず、リ アルな存在では全くないと思っていた。

しかし、この本を読んだ後はちがう。神武天皇伝説の背景には、骨格において伝説に近い史実があった にちがいないと思っている。

古代史に関心がある人はよく知るように、安本美典は、古代史に関して数々の著書をものしてきたその 道の専門家であり、かつ激しい論争を好んでする当代一流のポレミストである。

安本は基本的に、戦後日本の古代史を縛ってきた津田左右吉の文献批判学を否定的にとらえる立場に立 つ。すなわち、戦後日本の史学で金科玉条とされてきた、「古事記、日本書紀に記録されている飛鳥朝 以前の初期天皇に関する記述は、ほとんどが天皇家の支配を合理化するために後世に作出された神話伝 説のたぐいで、史実として信用するに価しない」という津田史学の基本的考え方はおかしいとする側に 立つ。

津田左右吉の文献批判は、時代遅れの十九世紀的方法論に立つもので、科学的根拠に乏しく、その本質 において主観的思い込みにすぎないとする。現代の文献批判は、数理統計学的立場から科学的になされ るべきとして、その方法論を詳細に解説しつつ、それを適用実践していくところに本書の特色がある。 その方法論が「天皇の在位年数と寿命」の分析に適用される第2章と、その議論の延長の上に、「神武 東征の理由と時期」が論じられる第5章が圧巻である。

日本建国(神武天皇即位)を紀元前660年とした建国神話信奉者の考えは全くの誤りで、古代の天皇の 在位期間は平均十年前後と考えるのが正しく、神武天皇は西暦280年ごろ活動していた実在の人物と される。その陵墓の場所(現神武天皇陵)の誤りを説く「プロローグ」は秀逸。

記紀で神武天皇の五代前の祖先と伝えられる天照大御神は、西暦230年ごろの人で(神ではなく)、こ れは、魏志倭人伝に記されている卑弥呼が活躍した年代とピッタリ重なり合うところから、天照大御神 とは、邪馬台国女王の卑弥呼にほかならないことが論証されていくあたり、お見事というほかない。

その邪馬台国(北九州)が、国をあげて畿内の大和地方に東遷(武力を伴った民族大移動)していったのが、 神武天皇の東征神話にほかならないとされる。この大仮説に従って、これまで古代史の大いなる謎とさ れてきたことが、次から次にきれいに説明されていく。

論証の基本的方法論は、仮説検証推論(どの仮説が、知られている事実のすべてをいちばんよく説明するかを検 討していく)であるから、この説だけが絶対に正しいという絶対論証にはならない。従ってここに書か れた諸説はあくまで「推理」でしかないが、私はこの本によって、古代史にまつわる多くの謎のモヤモ ヤがきれいに整理され、取りのぞかれた思いがして、大筋これで結構と思っている。

もうこれ以上、「邪馬台国はどこだ?」式の議論に付き合って頭を悩ませるのは止めたときキッパリ思 った。」

私の立場からみれば津田左右吉流の文献批判学の立場に立つ方々は、その方法にこだわるあまり、ほとんど袋小路にはいっているように思える。

マルクス主義などでも、それを信じているあいだは、絶対的に正しく思えても、そこから一歩距離をおく と、いろいろな問題点がみえてくる。

いろいろな立場を、どれが諸事実を、総合的にうまく説明しているか、観測される諸事実にあっているか、 諸事実にあっているかいないかを判断する客観的基準を示しているか、どれが論証的か、どれが現代の科 学・技術の全体的な状況と呼応しているか(研究はどんな研究でも、それだけで孤立してしまうと、みずからの科学 性を喪失し、独断に近づいてゆく)、などを公平に検討してみる必要がある。

■ 林健太郎氏の評価
『大和朝廷の起源』の骨格というか、ラフなスケッチのようなものは、いまから、およそ40年まえの1968年に、中央公論社から『神武東遷』(中公新書)という題で出したことがある。そのころは、私も、若 かった。

じつは、そのさいにも、東京大学の学長などされた西洋史学者の林健太郎氏から、立花隆氏に近い評価を、 いただいたことがある。

林健太郎氏は、その著『歴史と体験』(文藝春秋社刊)のなかで、『神武東遷』をとりあげ、その方法論の大 略を紹介されたのち、つぎのようにのべる。

「私もこれが今日の史科学の正しいあり方であると思う。かつての史科学の素朴実証主義(津田左右吉氏 のような文献批判学をさす)は正に『樹を見て森を見ない』危険性を包蔵しているのである。」

このシリーズは、私のライフワークのつもりでいどんでいるものであるが、『大和朝廷の起源』は、『神武 東遷』に肉付けをし、新しい情報をもりこみより完成をめざしたものである。

■ 統計学者、林知己夫(ちきお)氏の見解
『神武東遷』については、当時、文部省の統計数理研究所の所長であり、新しい統計手法の開拓者であっ た林知己夫氏が、その編著の、『計量的研究−我が国人文・社会科学研究の最近の動向−』(南窓社、一九七四 年刊)のなかでとりあげておられる。

「歴史学では、近年、日本の古代をめぐって数理文献学mathematical text analysisとも呼ばれるべき 新たな方法が試みられている。これは文献の統計的分析に基づき、仮説の設定、推測、検定を行なうも のであり、とくに邪馬台国論争にこの方法が応用され興味ある結果がえられた。

系譜のみがわかり、活 躍の絶対年代が不明な諸天皇の在位時期を、活躍の年数がはっきりしている諸天皇の在位年数から推定 した結果、魏志倭人伝にあらわれる卑弥呼は、日本の伝説的女王・天照大御神と一致することが推定さ れた(安本、『邪馬台国への道』筑摩書房、1967年刊)。また神武天皇が活躍された時期は三世紀末と推定 された(安本、『神武東遷』)。

安本はさらに最近『数理歴史学』(筑摩書房、1970年刊)の発行により、 数理的方法の歴史学への導入について多くの示唆を与えた。」

なお、林知己夫氏の編著のこの『計量的研究』という本は、第二次戦後わが国の人文・社会学の諸分野で の計量的・数理的方法による研究が、どのような問題に対して、どのような方法で展開され、どのような成 果を示したかをまとめたものである。この本は、つぎのような事情で成立している。

すなわち、ユネスコ本部では、人文・社会科学の諸国の研究動向をレヴューする事業を進めていた。日本 ユネスコ国内委員会では、この事業に協力する趣旨で、「人文・社会科学研究主要動向調査」を実施し、そ の成果を、1973年に英文報告書として出版した。

この本は、この英文報告書のもとになった和文原稿を土台として成立したものである。

■ 統計学者の見解
統計学、数学を専門とする学者の方々の、拙著の評価には、ほぼ一定したものがあるようにみえる。

東京農工大教授の統計学者、藤沢偉作氏は、その著『邪馬台国は沈まず』(潮出版刊)の中で、つぎのよう に述べておられる。

「…第二次大戦後まもなく、佐藤春夫が、『現代人の日本史』(河出書房、1957年刊)のなかで『私は、 卑弥呼を日巫女と解しているせいか、神功皇后よりは、むしろ、神話に壮厳されるまえの、すなわち、 素顔の天照大御神のおもかげをそこに見出すような気がする』と詩人的直観で述べているが、統計的手 法を縦横に使って、卑弥呼は天照大御神であろうと推定したのは安本美典氏である。」

そして、藤沢氏は、拙著『邪馬台国への道』の内容を紹介されたのち、つぎのように述べられる。

「…歴史の研究にこの手法を活用した安本氏の立論は注目すべきであろう。 わたしも、かねがね歴史に統計的手法が使えないものかと考えていた。それゆえわたしは安本氏の先駆 的研究をさらに発展させ、他の方面にこれを適用して邪馬台国の謎にいどむつもりである。」

藤沢氏は、その著書であり、大学の統計学の演習書である『楽しく学べる統計演習』(現代数学社刊)でも、 拙著を引用されている。

同志社大学の教授で、統計学者であり、かつ計量文献学者である村上征勝氏は、計量文献学のよい入門書 である『真贋の科学−計量文献学入門−』(朝倉書店、1994年刊)、『シェークスピアは誰ですか?−計量文献学の世界−』(文春新書、2004年刊)などで、拙著を紹介しておられる。

とくに、『シェークスピアは誰ですか?』では、「『源氏物語』の計量分析の嚆矢」として、私の二十代の ころの仕事を、一つの小みだしのもとに紹介しておられる。五十年近く昔の仕事である。

このように、日本史の専門家以外の方々の評価には、好意的なものが、すくなくなかったようにみえる。

これに対し、日本史の専門家の方々は、沈黙を守るか、批判的な立場の方々が多かったように思える。

これは、「神話は作り話だ」とする疑古派的な見解に、強くこだわる方々が、日本史の分野では多いため とみられる。

しかし、疑古派的な見解は、結局、日本古代史に、不可知論と、混迷としかもたらさなかったと思う。

なお、『大和朝廷の起源』については、北海道新聞の理科系の記者の橘井潤氏が、インタビュー形式で、 『北海道新聞』の三分の一面をさき、「統計数学とコンピューターを使った新しい文献学の手法で、『古事記』 や『日本書紀』などの史料を分析。」「邪馬台国はどこにあったか。長く続いてきたこの論争に、今度こそ決 着がつきそうだ。」として、かなりくわしく、かつ要領よく紹介されている(2005年10月2日付け)。

■ 私の立場
異分野からの参入であっても、言語学(日本語の起源の探究)、国語国文学(作家の文体や、『源氏物語』の探究)、 統計学などの分野では、比較的スムーズにうけいれられたような思いがあるのに、日本史の分野では、かな り厚い参入障壁のようなものを感じたのはなぜであろうか。

私は、自分の専門を、「人間が生みだした諸情報の計量的、統計的、数理的探究」であると思っている。 そして、どの分野に参入するばあいも、基本的には、同じ方法によっていると思う。

日本史の分野は、特別に保守的な業界なのであろうか。

「神話は、天皇家の権威を高めるために、役人たちが机上で作りあげたものである。」 という見解は、第二次大戦後の風潮とも結びつき、あるていど、現代の天皇家の権威も引きさげるはたらき をもっていた。

天皇家の権威の源は、『古事記』『日本書紀』によれば、すでに神話の時代に発生していることになってい るからである。

『日本書紀』は、天孫降臨する瓊瓊杵の尊に、天照大神が、つぎのような神勅を下したことになってい る。有名な、「天壌無窮の神勅」である。

「葦原の千五百秋(ちいほあき)の瑞穂の国は、是、吾が子孫(うみのこ)の王(きみ)たるべき地(くに)なり。爾(いまし)皇孫(すめみま)、就(ゆ)きて治らせ。行矣(さきくませ)。宝祚(あまつひつぎ)の隆(さか)えまさんこと、当(まさ)に天壌(あめつち)とともに窮(きわま)り無けむ。

(葦原の千五百秋の瑞穂の国[この国土]は、私の子孫が 君主となるべき国である。なんじ皇孫[天照大神の子孫]は行ってこの国を治めなさい。さいわいであるように。天つ日嗣[天照大神の子孫]がさかえるであろうことは、天地とともに永久で、窮まることはないであろう。)」

遠く、千年、二千年以上さきを予言していることばである。神勅は、パラダイム(支配的なものの見方)と なり、日本の歴史は、この予言に縛られてきた。

ある人々はいう。

「神話があるていどの史実をふくむとして、その価値をみとめることは、天皇家に権威を付与すること になる。それは、絶対にみとめられないことである。太平洋戦争は、天皇の名において行なわれたでは ないか。」

このような現代の思想や、政治とも結びつくという思いは、結果的に、日本の神話の客観的探究を、さま たげるものとなっていると思う。

神話が史実を含んでいるかどうかの客観的探求よりも、史実をふくむと考えてはならないという判断のほうが、さきにたってしまうからである。

「天皇制は、本来廃止すべきである。」というような思いは、古代において、天皇が大きな権威・権力をも った存在であったことも、みとめたくない、ということになってしまうのである。

私は、思想や、政治的立場とはなれて、日本神話をできるだけ客観的に探究したいと考えている。

みずからの思想や、政治的立場にとってつごうが悪いから、客観的事実も認めません、というのであれば、 そのような議論は、どうか思想や政治の分野のことであるという認識のもとに行なってほしい。学問や科学 と、思想や政治との混同を、できるだけさけていただきたい。

私と議論をするのであれば、客観的根拠や事実をあげて、安本の議論は、これこれの理由によってみとめ られない、ここが事実誤認である、ここが論理的誤りである、という形で行なっていただきたい。それが、 客観的根拠や事実にもとづくものであれば、私はそれをうけいれるのに、けっしてやぶさかではないつもり である。

邪馬台国問題を解決する鍵は、『古事記』『日本書紀』にある。そして、日本史の分野での思想的状況こそ が、真の解決をむずかしくしているのである。

この本は、図表・写真が多く、編集は煩項なものであったと思われる。このような本に刊行の機会を与え られた勉誠出版の池嶋洋次社長と、多大の労をおしまれなかった編集部の方々に、深い謝意を表する。

2006年8月1日   安本美典


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