TOP > 著書一覧 >邪馬台国と出雲神話 一覧 前項 次項 戻る  


邪馬台国と出雲神話

銅剣・銅鐸は大国主の命王国のシンボルだった

邪馬台国と出雲神話

出雲から、大量の銅剣・銅鐸が出土した。
これは出雲神話の伝える「出雲の国譲り」の結果、うずめられたものではないのか。
358本の銅剣や銅矛の出土した神庭荒神谷遺跡にしても、39個の銅鐸の出土した加茂岩倉遺跡にしても、出雲の国の西がわの地で、大国主の命が活動したと伝えられる場所と、ほぼ一致している。
神話のなかに、歴史的事実の核があるようにみえる。
しかし、この事実から、多くの研究者は目をそらしつづけている。
それはなぜか。


本書「はじめに」より
■ 『古事記』の神話のおよそ三分の一は、「出雲神話」がしめている。

その「出雲神話」の中心的なテーマは、 大国主の命の「国譲り」の話である。大国主の命の領していた「葦原の中国」を、高天の原勢力に譲った という話である。

「出雲の国譲り」の話は、『古事記』に記されているばかりでない。『日本書紀』『出雲国風土記』『出雲の 国造神賀詞』などでも語られている。

出雲の神庭荒神谷遺跡から、358本もの大量の銅剣が出土し、さらに加茂岩倉遺跡から39個もの大 量の銅鐸が出現した。素朴に、大きく考えるとき、「出雲の国譲り」神話と関係しているのではないか、と だれしも考えそうなものである。

が、「専門家」は、そうは考えない。いたずらに複雑に考えて、問題を不透明にしているようにみえる。
  • 一つには、銅鐸の製作年代や埋納年代の問題がある。銅鐸は、年代をきめる手がかりにとぼしい。たとえ ば、銅鐸が、弥生時代の土器といっしょにでてくれば、土器が年代をきめる有効な手がかりとなりうる。し かし、銅鐸は、ほとんどのばあい、銅鐸だけが出土する。

    加茂岩倉遺跡のばあいも、弥生土器は、かけらも出土しなかった。そのため、一般の人には、ちょっと信 じられないことであるが、銅鐸の推定年代が、学者や学説により、ときとして数百年もちがうのである。こ のことについては、このシリーズの『古代物部氏と『先代旧事本紀』の謎』のなかでややくわしくのべた。

  • いま一つには、『古事記』『日本書紀』などの神話は、後世のつくり話とする津田左右吉の説が、第二次大戦後、日本の古代史学界を風靡したという問題がある。

    第二次大戦中に、本居宣長派のいわゆる皇国史観にもとづき、『古事記』『日本書紀』の、不合理な記事までも、そのまま信ずべし、とする教育が行なわれた。

    戦後には、その反動がきた。

    『古事記』『日本書紀』の神話に、「おぼろげな形でも史実の核があるのではないか」とする見解は、「それは、皇国史観にもとづくものだ」という批判をうけがちとなった。

    そのため、学者は、うかつには、神話の研究に手をだせなくなった.神話の研究をさけるようになった。
■ しかし、ギリシア、ローマの考古学や聖書の考古学は、すべての考古学のはじまりであり、母胎であったことを忘れてはならない。その考古学は、神話、伝承といったものに、みちびかれたものであった。

ホメロスの『イリアス』は、『古事記』『日本書紀』の神話よりも、神話性が強いといえるものである。そのホメロスの詩にみちびかれて、シュリーマンは発掘を行なったのであった。

日本の神話は、いわゆる出雲神話について多くを語る。そのなかでも、「出雲の国譲り」は、中心的なコ ンセプトである。そして、出雲には、巨大な神殿(出雲大社)がある。『延喜式』には、伊勢の国、大和の国につぐ数の、多くの神社の名が記されている。

「出雲には、なにかある。」古典をひもとき、古代をたずねる人は、そう思わないほうが、おかしい。 その出雲の荒神谷遺跡から、358本の銅剣が出土した。圧倒的ともいえる量である。またさらに、一カ 所の出土例としては最多の、39個の銅鐸が出土した。

銅剣や銅鐸は、みつめるだけでは、なにも語らない。

銅剣や銅鐸の様式、遺構の状況などは、くわしく説明された。しかし、それらの出土物は、古代史のどこ に、どのような形で位置づけられるのか。それがはっきりとは、みえてこない。

古代史の大きなストーリーが、発掘によって、明確にうかび上がってくる形になっていない。「出雲神話」を、直視しないからである。

江戸時代に、志賀島から出土した金印は、『後漢書』に、「倭の奴国に、(後漢の)光武(帝)は、賜うに印綬をもってす」という一片の記事があることによって、その意味を無限に拡大させた。文字や伝承があって、遺物ははじめて、重い口を開くのである。

■ すでに、1959年に、東京大学の実証的な日本史家、坂本太郎教授は、アメリカのスタンフォード大学のジョージ・サンソムの、『日本史』の第1巻を紹介した文のなかでのべている(『歴史と人物』坂本太郎著作集第11巻、吉川弘文館刊。なお、サンソムは、もともとはイギリス人)。

「戦後のわが史学界は、古代史の叙述において、神経質に過ぎるくらい、神話・伝説を排除し、考古学 の成果ばかりに依存して、古代史の骨格を作り上げた.科学主義に徹するとき、一応このような立場は 支持されようが、しかし考古学だけで歴史は成り立たない。

しいていえば、歴史の骸骨はできるかもしれない。けれど、血肉の通った歴史は生まれてはこない。神話・伝説を毛ぎらいした歴史は、まさに角をためて牛を殺した愚者のたとえにぴったりだと、私は思っていたのである。」

「(サンソムは)神武東征、日本武尊の遠征などの物語は、こまかに委曲を叙述して、それが歴史事実の 反映であることをみとめる。九州にあった邪馬台国の勢力が東に進んで、畿内の大和の勢力となった。 その東遷の事実が、神武天皇東征の物語となって伝えられたというのである。」

「(サンソムの著書では)神話・伝説はおちなく紹介され、合理的に解釈ぜられて古代史の初めを飾ってい るのである。考古学万能になれてしまったわれわれには、これは一つの驚きであった。しかし、私はこ れこそオーソドックスな歴史叙述のしかたであることを信ずるのである。」

「神話の尊重と天皇の強調とは、戦後のわが史学界が、ほかならぬ、アメリカの指図によりて弊履のよ うにかなぐり捨て、まったくその逆をおし進めたものである。

アメリカの指図が崇高な人類愛にもとづく、教育理想に出ているものか、日本の弱体化をねらう現実的な政策に出ているものか、私の知る限りではないが、少なくともサンソム卿が、特定の政治的目的をもたず、学者としての公平な立場から、この書物を書いていることはまちがいあるまい。そして、オーソドックスな日本の歴史叙述がいかにあるべきかは、ここに明瞭に示されていると思うのである。」

坂本太郎は、また、論文「古代の帝紀は後世の造作ではない」(『季刊邪馬台国』26号、1985年)で、くわしい根拠をあげたのち、つぎのようにのべる。

「婚姻関係から見て、帝紀(『古事記』『日本書紀』に記されている古代の皇室の系図的な記事)の所伝は、いろいろ問題はあるにしても、古伝であることは動かしがたく、後世の7世紀あたりの造作だという疑いは、まったく斥けることができる。

疑いは学問を進歩させるきっかけにはなるが、いつまでもそれにとりつかれているのは救いがたい迷い だということも、忘れてはなるまい。」

しかし、坂本太郎のこのような発言は、学界の主流とはならなかった。いわゆる「進歩派」の史家の説が、猖獗をきわめたからである。

現在でも、たとえば、卑弥呼のあとの台与が東遷したとか、邪馬台国ははじめから畿内大和にあったとす る説が、さかんにとなえられている。

これらの説は、『古事記』『日本書紀』にあれほどくわしく叙述されている「神武天皇東征」の話などを、まったく無視することによって成立している。

中国文献(『魏志倭人伝』など)や、ものを語ることのない考古学的な事実についての「解釈」に力点をおき、『古事記』『日本書紀』の伝えるところなどは、放擲してかえりみないのである。

『古事記』『日本書紀』をはじめとする日本の古典は、なんのために「出雲の国譲り」や、「神武東征」な どの話を、語らなければならなかったのか。これらの話が、後世の造作だとすれば、なんのために、これらの話をつくらなければならなかったのか。なっとくのできる説明が、聞かされることはないのである。

■ ソ連が崩壊し、マルクス主義の権威はうたがわれ、「進歩派」の幻想が成立する背景は失われつつある。学界の潮流は、すこしずつ変わってきている。

比較神話学者の大林太良は、つぎのようにのべている。

「ところで、僕はそろそろ神話と歴史の関係を考え直してもいい時期じゃないかと思うんです。という のは古代人が歴史を語るとすれば、やはり神話的なかたちで語るのがいちばん自然だからです。話自体 が荒唐無稽であっても、歴史的な背景が全然ないとはいえない。

たとえばヨーロッパに関しては、ローマとカルタゴが戦ったポエニ戦争がありますね。あれについてローマの記録がありますが、それを見る とひじょうに神話的に語られています。けれども、証拠はほかにたくさんあって、ポエニ戦争があった ことは間違いない。もし証拠がなくて話だけで考えたら、これはなかったと考えるかも知れない。

神話 と歴史のあいだには、何かの関係があるのですが、それをどうやって見抜くかが問題になるわけです。」 (『季刊文化遺産』「神話にみる古代出雲の原像」1997年VOL3、島根県並河万里写真財団刊)

文献にもくわしい考古学者の森浩一氏も、つぎのようにのべている。

「ぼくなんかは、長いあいだ、昭和30年代、40年代、『古事記』や『日本書紀』の神話の部分がまっ たくの事実ではないとか、弥生時代のものが伝承として後世に伝わるはずがないとか、そういうことは 考えることもいけないと思っていた。しかし、最近、よく考えてみると、3世紀の倭人伝で使っている 『対馬』というような字なんて、いまでもそのまま使っているわけでしょう。」(森浩一・石野博信共著『銅 鐸』学生社、1994年刊)

沈黙を守る銅剣や銅鐸は、雄弁になにかを語ろうとしているのではないか。

あらかじめタブーをつくってしまうと、見えるべきものが見えない。学間的探究が、合理的でない、妙な ものになってしまう。

銅剣や銅鐸が、千数百年の長い長い沈黙を破って、古代の「あの日」に起きた「事件」を、それにまつわ る物語を、語ろうとしている。それを聞ぎだす一つのきっかけになり、突破口となることを願い、私は、こ の本を書いた。


  TOP > 著書一覧 >邪馬台国と出雲神話 一覧 前項 次項 戻る