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邪馬台国と高天の原伝承
推理 邪馬台国と日本神話の謎 |
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本書「おわりに」より 1. |
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『風土記』『万葉集』『古語拾遺』『新撰姓氏録』『延喜式』『中臣寿詞(なかとみのよごと)』『続日本紀(しよくにほんぎ)』その他の、『古事記』『日本書紀』以外の文献を読んでみるとき、古代の人々が、『古事記』『日本書紀』に記されていることがらの大すじを、素朴に信じていたと思われる記事が、はなはだ多い。それは、いわぱ、当時の国民的常識であったようにみえる。
今日、ずっと時代が下っていると思われる仲哀天皇(第14代)や神功皇后(仲哀天皇皇后)などをも、その 存在を否定する見解がさかんである。しかし、たとえば、『風土記』などを読んでみても、「穴門の豊浦の宮に御宇しめしし天皇、皇后と倶に、筑紫の久麻曾(くまそ)の国を平けむと欲して、下り行でましし時」として仲哀天皇の時代を指定するときも、「難波の高津の宮に御宇しめしし天皇のみ世」として仁徳天皇(第16代)の時代を指定するときも、特別にとりあつかいが変っているわけではない。 また、神功皇后については、九州各地にさまざまな伝承が残っている。 『古事記』『日本書紀』の神話や、神武天皇をはじめとする初期の天皇に関する記事のほとんどを、机上の創作とするいわゆる「作為説」は、近世以後におこり、第二次大戦後に最盛となった。それは、現代の歴史記述とほぼ同じような文法で書かれた記事以外は、歴史を構成する資料として認めるべからずとする一種の合理主義によってもたらされたものである。しかし、それは、研究者の論理によってもたらされたものであって、たしかな文献的証拠をもっているわけではない。古代人のほとんどは、そのようには認識していなかったのである。 すでにいくつかの本でのべてきたように、「作為説」は、十九世紀的な合理主義の上にたつものであって、その論理の基礎に問題がある。したがって、多くの天皇の存在否定をはじめ、その論理によって得られた結論は、すべて再検討の必要がある。 |
2. |
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私の説いているところは、一種の「古典復興(ルネッサンス)」なのである。わが国の古代については、さまざまな「仮説」が成立しうるであろう。しかし、前著『倭王卑弥呼と天照大御神伝承』でのべたように、仮説がみたすべき条件として、「豊富性」がある。そして、「あれも作為」「これも作為」とするだけでは、仮説としての「豊富性」を、うちにもちえないのである。私は、むしろ、ほとんど無限に豊饒な古典の世界に眼をむけたい。それによってこそ、「仮説」は、無限のひろがりと豊かさとを獲得しうる。
千年をこえる歳月、さまざまな動乱の世をへてきた古典は、それなりの生命力をもっている。私が、古典 に声を与えなくても、いつかは、古典は、みずから叫ぶであろう。 しかも、戦後、文運は、ますます盛んである。『古事記」『日本書紀』などの古典の、良質の校定本は、かつてないほどの部数刊行されている。焚書坑儒のくわだてなくしては、古典をして沈黙させることは、できないであろう。 第二次大戦後、作為説にもとづく歴史書は、山なす書かれた。しかし、多くの本が書かれ、多くの宣伝が 行なわれたがゆえに、それが真理として残るとは、思わないでいただきたい。戦時中、皇国史観にもとづいて書かれた山なす歴史書は、いま、どこにあるか。私は、作為説は、戦後数十数年のあいだ、わが国の上をおおったひとつの大きな虚妄である可能性が、多分にあると考えている。 残りうるのは、真実の重みをもつものだけである。古典が残りえたのは、それが、そのなかに、真実の重みをつつんでいたからである。 |
3. |
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前漢の司馬遷が、中国最初の正史である『史記』を編んだのは、西歴紀元前百年のことであった。『史記』の「殷本記」は、西暦前千百年ごろに滅んだ殷王朝について、かなりくわしく記している。千年あとの史料が、千年まえの史実を語っていた。
また、ホメロスの詩のテキストは、紀元前215年に生まれたアレクサンドリアの文献学者アリスタルコ スが、それまでの多くの研究を集成し、校訂して、はじめて固定したものとなった。ところで、トロヤ戦争により、トロヤが火につつまれて落城したのは、西紀前千二、三百年ごろのことである。ここでも、千年以上あとに固定したテキストが、千年以上まえの史実を語っているのである。 殷王統も、ホメロスの詩も、あるいは神話といわれ、空想の所産といわれ、史実とは無縁とされた。しか し、現在では、かえってそのような学説こそ空想の所産であったことが明らかになっている。 邪馬台女王国は、三世紀、すなわち、いまからたかだか千七、八百年まえに存在した国である。そのころ のことを、わが国になんらの記憶も残らない蒙昧の時代のように考えるのは、妥当なことであろうか。 邪馬台国、それは、大和朝廷の成立以前の古代史のうえに、けんらんと咲いた大輪の花である。この本で のべてきたように、私たちは、わが国の古典を通じてこそ、その花の咲く花園の様子を、かいまみることができる。たとえ神話化した形であるにしても、わが国の古典は、この花園の様子を、さまざまに語り伝えているからである。 |
4. |
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最近私が、甘木市の付近をおとずれたのは、2002年の秋である。
筑後川は、ゆったりと平野をうるおしていた。旧安川村をつらぬく小石原川(夜須川)は、山なみをうつ
しながら、水音を秋空にあげていた。私は、この川にかかった橋にもたれ、白い河原の石をながめ、また、
青空をみあげた。白い雲が、点々と輝いている。小鳥がさえずり木々はすでに紅葉し、眼下の田は、金色に
色づいていた。
千七百年のむかし、卑弥呼も、この川をみたのであろうか。あの山をみたのであろうか。眼下にひろがる
金色の稲田をながめたのであろうか。そしてまた、魏への使が坂を下って行くのを見送ったのであろうか。
そう思ったとき、千年の歳月をこえて、神々の声が、風の与(むた:とともにの意)響きわたるように思えた。古代の花の香が、ふとあたりにただよっているように感じた。
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