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倭人語の解読

  卑弥呼が使った言葉を推理する

倭人語の解読
「倭人語」解読の鍵は、当時の中国音と「万葉仮名の読み方」にあった!
「卑弥呼」は新井白石が説くように、「日御子(ひみこ)」をあらわすのか。
本居宣長、内藤湖南、坂本太郎などが説くように、「姫児(ひめこ)」「姫子(ひめこ)」なのか。 松下見林、白鳥庫吉らの説くように、「姫命(ひめみこと)」の略なのか。
『魏志倭人伝』にあらわれる「倭人語」を、当時の中国音にもとづき、「万葉仮名の読み方」の原理で解読すると、卑弥呼たちは、はっきりと、日本語の一種いえるものを話していたことになる。
『魏志倭人伝』のなかに記されている「倭人語」は、さかのぼりうる最古の日本語である。
いま、解明の方法が整い、千七百年まえの原始日本語の姿が明らかにされた。


本書「はじめに」より

 1.「倭人語」は、日本語の一種である
ことばは、民族の根幹である。
日本人が、日本語を失うとき、日本人は、日本人でなくなる。
日本人の同一性(アイデンティティ)は、日本語を使うことにある。「日本語を使うこと」は、国籍にもまして、仲間意識をうみだす。

ことばは、民族をまとめ凝集させる見えざる力である。
この凝集力が、国民のエネルギーを創出する。
イスラエルが、建国にさいして、ユダヤ・ヘブライ語の復興・普及をはかったのは、ことばが、民族の凝 集力であるという認識のゆえであろう。

日本語は、つねに、影のように日本民族によりそい、民族の発展、民族の歴史とともにあった。
平和なときの語りあいも、戦争のさいのかけ声も、民族の悲運にさいしての慰めのことばも、私たちは、 この日本語で、行なってきた。

ふるさとの訛なつかし
停車場の人ごみの中に
そを聴きにゆく

石川啄木の歌のように、ことばは、ふるさとそのものである。
それと同じように、日本語は、祖国そのものである。戦争に負けても、日本語を失わないかぎり、私たち は、祖国を失ったことにならない。

「三つ子の魂百までも」という。
ある個人の特徴は、しばしば、もっとも素朴・純粋な形で、幼子のさいに出現する。その個人の特徴の本 質は、幼子のすがたのばあいの方が、とらえやすいことも多い。

日本列島のことばは、江戸時代も、鎌倉室町時代も、平安時代も、奈良時代も、たしかに、日本語として の特質をそなえていた。
では、邪馬台国の時代も、「倭人」は、日本語を話していたのであろうか。

『万葉集』が、朝鮮語で解読できるという本などが、刊行されて、ベストセラーとなったりした。
「やはり万葉集は韓国語だった。」(李寧煕著『もう一つの万葉集』文藝春秋杜刊)
「古代の日本語は事実上朝鮮語である。」(朴柄植『日本語の悲劇』情報センター出版局刊)

しかし、これらの発言は、誤りであると思う(これについてくわしくは、拙著『朝鮮語で「万葉集」は解読できな い』宝島社刊、参照)。卑弥呼の時代よりも、およそ、500年ていどあとの八世紀の奈良時代に編纂された 『万葉集」が朝鮮語ならば、三世紀の卑弥呼はとうぜん、日本語ならざる言語、朝鮮語系などの言語を用い ていたことになる。

しかし、『魏志倭人伝』に記されている「倭人語」をみれば、卑弥呼たちは、すでに、1700年前の弥生時代に、はっきりと、日本語の一種といえるものを話していた。朝鮮語とは、異質の特徴をそなえた言語を用いていたのである。

『魏志倭人伝』のなかに記されている「倭人語」は、さかのぼりうる最古の日本語である。これは、日本 民族が、幼子であったときのことばである。
1700年まえの、「倭人語」の解明は、原始日本語の解明である。
日本語ということばの流れの、水源は、ここからまえには、たどることはできない。

この水源のすがたは、私のみるところでは、なお十分に探検.解明されているとはいえない。
それは、おもに、これまで、探検・解明の方法が、ととのっていなかったためとみられる。しかし、最近、 この水源を探検・解明するための方法が、ようやくととのってきたように思われる。

この本を読み終えて下さった読者は、きっと、草むらをおおつていた霧がはれ、日本語の水源のすがたを、 目のあたりにして下さるにちがいないと信ずる。「倭人語」のことばの滴のひとつひとつが、きらめきながら岩のはしから落ち、水源を形づくっているありさまが、見えるところに立っていることを認めて下さるに ちがいないと信ずる。

そして、日本語の始原のすがたを知ることは、私たち自身の本質を知ることでもある。
「われら、いずこより来たりて、いずこへ行くか。」
このような問いに対して、この本は、民族の生命力の起源であることばを通して答えようとした。

ここで、この本をお読みいただくために必要な、ごく基本的な概念を、あらかじめ、すこしだけ、説明し ておこう。


2.「音韻」と「音声」
言語学的には、「音韻」と「音声」とは、別ものである。

たとえば、「 音」と「 音」とは、音が異なる。しかし、日本語では、「理論」を、「lilon」と発音し ようが、「riron」と発音しようが、意味は、異ならない。
つまり、日本語では、「 音」と「 音」との、 「音韻的区別」はない。「 音」と「 音」は、日本語では、「音声(発音)」は異なっていても、意味の違い をもたらさない。このようなばあい、「 音」と「 音」とは、日本語では、同じ「音韻」とみなされてい るという。

「山」を、男性が発音したばあい、女性が発音したばあい、子どもが発音したばあい、おとなが発音した ばあい、それぞれ「音声」は異なる。しかし、同じ「音韻」を発音しているとみられるとき、同じ意味をう けとる。

「音韻」は、「音声」よりも、抽象的な概念である。
英語では、「 音」と「 音」とのあいだに、「音韻的区別」がある。同じ「コレクション」でも、「 collection (収集)」と「 correction (訂正)」とでは、発音も音韻も異なり、意味も異なるとみなされる。
英語では、「 音」と「 音」とでは、意味の違いをもたらし、異なる「音韻」である。

どのようなものを、その言語の「音韻」としてみとめるかは、言語ごとに、歴史的・伝統的にきまってい る。集団での「約束」であるといえる。言語ごとに、その「約束」の体系、「音韻体系」が異なる。

フランス語では、「 音」を、「音韻」としてみとめない。そのため、「hotel 」を、「オテル」と発音する。 つまり、「ho 」と「 」とで、「音韻的区別」がないのである。
フランス語に、「 」という音がない、というと、では、フランス人は、笑うとき、「ハハハ(hahaha )」と笑わないのか、などというのは、「音声」と「音韻」とを、ごっちゃにした議論である。

フランス人でも、笑うときは、「 音」をだしている。
しかし、それは、「音声」としてその音をだしているのであって。「音韻」としては、みとめない「約束」にしたがっているのでる。

日本人が、「音声」としては、「 音」と「 音」もだしていても、それによって意味の区別をしない。それと同じように、フランス人は、「音声」としては、「ho 」も「 音」もだしていても、それによって、意味の区別をしないのである。

 」「 」「 」などの破裂音のあとに、激しい吐く息の音をともなうか、ともなわないかによつて、意 味の区別をする言語は多い。
唇のまえに下げた紙がゆれるような、激しい吐く息をともなった音、 」「 」「 」は、「h 」「h 」「h 」などのようにも書かれ、「帯気音」とか、「有気音」とか呼ばれる。
朝鮮語、中国、サンスクリット語、ギリシア語などには、「帯気音」と、そうでない「無気音(強く吐く息の音をともなわない音)}とのあいだに、(音韻的区別)がある。つまり、「帯気音」か、「無気音」かによって、意味の区別をする。

いっぽう、「清音」と「濁音」の「音韻的対立」のない言語もある。
そのような言語では、「カギ(鍵)}と「カキ(柿)}、「マド(窓)」と「マト(的)」などが、同じ音とみな されるのである。

個人は、無意識に、自国語の集団的「約束」をうけいれている。そのため、外国語を学ぶ ときは一定の意識的学習を必要とする。新しい「約束」の学習を必要とする。そうしないと、「カギ」と 「カキ」が、聞きわけられなかったりする。

以上を要するに、「音韻」とは、「意昧の区別」をもたらす音の違いである。


3.「民族」と「言語」
「ヤマ」という発音や、「山」という文字によって、「高くもりあがった土地の形態」という「意味内容」 をあらわす。
このように、単語は、発音や文字などによる「表現形式」と、その「表現形式」がさししめす「意味内 容」とをもつ。「表現形式」と「意味内容」とは、表裏一体をなしている。

単語ばかりでなく、「句」や「文章」、さらに、一般的には、ひろく、「ことば」「情報」といわれるものは、 「表現形式」と「意味内容」とをもつ。
「表現形式」と「意味内容」との結びつきは、「言語」によって異なる。
英語では、「mountain 」という 「表現形式」で、「山」の「意味内容」をさす。

どのような「表現形式」が、どのような「意味内容」と結びつけられるかは、これも、その「言語集団」における、「約束」にもとづく。
どのようなものを、「音韻」としてみとめるかも、「言語集団」での「約束」にもとづいていた。

このように、「言語」は、「言語集団」ごとの、「約束」の体系のうえに成立している。
「赤信号では道路をわたらない」「ジャンケンで、グーは、チョキ(ハサミ)に勝つ」なども、集団での 「約束」である。

このような、「約束」の総合体が、「文化」を形づくる。
歴史によって、「約束ごと」が形成され、「約束ごと」の共有、文化の共有によって、同一集団に属する意 識が生じる。
「民族」は、同一集団に属しているという仲間意識をもっているような集団である。

言語の共有は、民族意識の中でも、大きなウェイトを占める。それは、「言語」が歴史的・伝統的に形づくられ、個人が無意識のうちにうけいれた、巨大な「約束ごと」の体系だからである。長期間の学習を必要とし簡単には変えられない。

宗教や、生業のあり方、同じ地域に住むこと、共通の神話をもつていることなども民族意識の形成の要 因になりうる。しかし、同じ地域に住み異なる言語をもつ人よりも、異なる地域に住み同じ言語をもつ人の 方が、同一集団に属するという意識をもちやすい。
皮膚の色などの、生物学的、遺伝的特徴にもとづくいわゆる「人種」概念にくらべ、「民族」概念は、言語などを中心とする文化の共有にもとづくといえる。

なお、ここまでの説明で、「表現形式」と述べたものを、スイスの言語学者、ソシユールは、「signifiant(シニフイアン:記号で表したもの。日本語では、記号表現、あるいは、能記と訳される)」とよび、 「意味内容」と述べたものをソシュールは、「signifie;シグニフィエ(記号で表されたもの。日本語では、記号内容、あるいは、所記と訳される)」といった。ただ、これらの用語は、すこしむずかし表現なので、この本では、「表現形式」「意昧内容」という言葉を用いた。

この本は、発音記号や、面倒な図表なども多い。そのため、出版にあたって、大変なお手数をわずらわせることとなった。
このような本に、出版の機全を与えられた勉誠出版の池嶋洋次社長、そして編集部の方、に、甚深の謝意を表したい。
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