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古代物部氏と『先代旧事本紀』の謎

古代物部氏と『先代旧事本紀』の謎
大和王朝以前に、饒速日の尊王朝があった!

大和朝廷以前の古代王朝を推理して、日本神話の謎を解く!

『先代旧事本紀』とは何か?   いつ、誰が編纂したのか?


本書「はじめに」より

 1.『先代旧事本紀』の編纂者と成立年代
『先代旧事本紀』というふしぎな本がある。
この本は、だれによって、いつ書かれたのか。

『先代旧事本紀』は語る。
「神武天皇よりもまえに、物部氏の祖・饒速日(にぎはやひ)の尊が、畿内大和へ東遷降臨した。」
この伝承は、どこまで信用できるのか。
饒速日の尊と皇室の祖、瓊瓊杵(ににぎ)の尊とは、兄弟なのか。

『先代旧事本紀』は、饒速日の尊が、河内の国の哮峰(いかるがのみね)に天下った、という。
この哮峰は、どこなのか。
また、『先代旧事本紀』は、饒速日の尊を、登美の白庭の邑に埋葬したという。
この登美の白庭の邑は、どこなのか。
この本は、これら数々の謎にこたえる。

古代物部氏伝承は、本格的に探究される必要がある。

この本には、いくつかの特徴がある。
まず、編者と成立年代の不詳であった『先代旧事本紀』の編纂者は、明法博士(みょうぼう:法律学についての博士)の 興原敏久(おきはらのみにく)で、成立年代は、西暦820年代の末、827年−829年前後であろうことを、考証したことである。

幕末から明治時代の国学者で、系譜についての彪大な研究業績を示した人に、鈴木真年(すずきまとし:1831〜1897)がいる。
鈴木真年のあらわした『諸系譜』(国立国会図書館蔵)に、興原敏久(物部中原宿彌ともいう)を、参河(三河の国:現在の愛知県の東部)の人で、嘉祥2年(849年)年7月20日に、年62二歳で死去したと記され ている。むかしは、年齢を数え年で数えたから、この記述が正しいとすれば、興原敏久は、788年に生ま れたことになる。そして、『先代旧事本紀』を編纂したのは、興原敏久が、40歳前後のころのこととなる。

鈴木真年の記述が、かならず正しいとはいいきれないが、鈴木真年の編纂態度からみて、興原の敏久につ いての没年も、しかるべき資料によったものとみられる。

『諸系譜』によれば、興原敏久は、出雲の醜の大臣(しこのおおおみ:物部系の人で、饒速日の尊の曾孫)の子孫である。 このことは『先代旧事本紀』が、つぎのよつに記していることと、関係があるとみられる。

「参河の国の国造は、成務天皇の時代に、物部の連の祖、出雲の色(しこ)の大臣の5世の孫の知波夜(ちはや)の命を、(天皇が)国造にお定めになった。」
ここにでてくる知波夜の命も、『諸系譜』によれば、興原敏久の祖先の一人である、
つまり、『先代旧事本紀』の編纂者を、興原敏久であるとすれば、興原敏久は、『先代旧事本紀』のなかで、 みずからが、参河の国の国造家の系譜の一員であることを記していることになる。

興原敏久が、三河の国の人であることは、『日本後紀』の弘仁四年(813年)正月五日の条に、そう記さ れている。むかしは、中央で活躍するためには、そこそこの家系の出身者であることが必要であったから、 興原敏久が、 地方の国造の家柄の出身であることは、 なっとくのできる話である。

また、出雲の色の大臣や知波夜の命などが、『先代旧事本紀』の編纂者が創作した人名でないことは、「新撰姓氏録』にも、「神饒速日の命の三世の孫、出雲醜大使主の命」「(神饒速日の命の)三世の孫、出雲色男の 命」「神饒速日の命の十二世の孫千速見の命」などと記されていることからわかる。
 2.銅鐸と物部氏  
この本ではまた、饒速日の尊が天下ったとされる哮峰(いかるがのみね)や、饒速日の尊が埋葬されたという登美の白庭の邑が、現在のどこなのかについて考証する。
さらに、最末期の銅鐸である三遠式や近畿式の銅鐸の製作に、饒速日の尊系氏族が、深くかかわっている とみられることをのべる。(さきにのべた物部系の興原敏久の出身地の三河は、三遠式銅鐸の出土する代表的な地域の一 つである。)

最近あらわされた佐原真・金関恕編『銅鐸から描く弥生時代』(2002年、学生杜刊)という本がある。
この本のなかで、奈良県教育委員会文化財保存課の考古学者、寺沢薫氏が、鋼鐸のはじまりと終りとに ついて、つぎのような注目すべき見解をのべている。

「(銅鐸のはじまりを私は)中期の前葉からと考えています。せいぜいさかのぼっても前葉。それから、最後はおそらく、一般的には、弥生の終末といいますか、地域によっては、古墳時代に突入、近畿、奈良 県が古墳時代に突入している頃まで、作っているところがあるだろうというところです。」

この見解が、なぜ、注目すべき見解といえるのか。それは、つぎのような理由による。
  1. 銅鐸は、弥生土器といっしょに見つかった例がない。そのため、銅鐸の年代については、きめてに欠 ける。そのため、寺沢薫氏のような見解の成立する可能性は、十分ある。

  2. 「近畿式銅鐸」や「三遠式銅鐸」が、最末期の形式の銅鐸と考えられている。とくに、三河(愛知県東部)や遠江(静岡西部)でおもに行なわれた「三遠式銅鐸」は、もっとも遅く発生した銅鐸とみられている。

  3. 「三遠式銅鐸」や「近畿式銅鐸」は、銅にふくまれている鉛の同位体比からみて、北九州からおもに 出土する「小形傍製鏡第U型」とよばれる鏡や、「広形銅矛」などと同じ原料の銅が用いられていると判断される。

  4. 「小形傍製鏡第U型」は、甕棺から出土した例がなく、甕棺時代のつぎの墓制である箱式石棺から出土した例がかなりある。そして、邪馬台国九州論者たちは、箱式石棺の時代こそ、邪馬台国時代である と主張している。

  5. 「三遠式銅鐸」「近畿式銅鐸」「小形傍製鏡第U型」「広形銅矛」「広形銅戈」などは、鉛の同位体比からみて、「三角縁神獣鏡」などとは異なる銅原料が用いられている。それらは、「三角縁神獣鏡」などよ りも、一時代まえのものと判断される。

  6. 「三遠式銅鐸」や「近畿式銅鐸」のなかに、寺沢薫氏ののべるように、「地域によっては、古墳時代に突入、近畿、奈良県が古墳時代に突入している頃まで、作っているところがある」としてみよう。する と、「三遠式銅鐸」や「近畿式銅鐸」の行なわれた時代こそ、邪馬台国時代であることが、導きだされ ることになる。「三角縁神獣鏡」は、邪馬台国時代のものではないことになる。これは、「邪馬台国=北九州」論者の説くところで、「邪馬台国=畿内大和説」を説く寺沢薫氏の説と矛盾する結果を導出する こととなる。じじつ、三角縁神獣鏡は、確実に三世紀といえる遺跡から出土した例がない。確実には、 四世紀とみられる遺跡から出土している。

  7. 最末期の銅鐸の時代「近畿式銅鐸」「三遠式銅鐸」の時代にかぎれば、かって、哲学者和辻哲郎が、その著『日本古代文化』でとなえたような、近畿を中心とする銅鐸文化圏と、北九州を中心とする銅戈文化圏との対立がみとめられる。そして、これが、邪馬台国時代の状況であることになる。

  8. 『魏志倭人伝』に、「(倭人は、)兵(器)に矛を用いる」とある。この矛を銅製のものであるとしても、 鉄製のものであるとしても、「近畿式銅鐸」「三遠式銅鐸」の行なわれた時代、あるいは、邪馬台国時代 に近いとみられる時代に、近畿からは、矛がほとんど出土せず、圧倒的多数の矛は、北九州から出土す る。図A、図Bのとおりである。(銅の矛は、お祭リの道具とみられるので、邪馬台国時代に兵器として用いられ た矛は、鉄製とみられる。) 圧倒的多数の矛が、北九州から出土することも、「邪馬台国=北九州説」を支持する。

  9. 「近畿式銅鐸」や「三遠式銅鐸」が、邪馬台国時代のものであるとすれば、このように特徴のある金属器について、『魏志倭人伝』になにもふれないのは、不審である。

  10. 「邪馬台国=畿内大和説」の論者は、邪馬台国を、大和朝廷のある時期の姿と考える傾向がある。も しそうであるとすれば、『古事記』『日本書紀』が、鏡・玉・矛・剣についてはふれているのに、銅鐸について、まったくふれるところがないのも不審である。

  11. 「邪馬台国=畿内大和説」は、考古学者の多くが支持する説であるが、『古事記』『日本書紀』『先代旧 事本紀』など、多くの文献が記す事実を説明しえない。かつ、「邪馬台国=畿内説」は、その説内部に 矛盾をもっている。
 3.庄内式土器と物部氏  
私は、北九州で、庄内式土器といわれる形式の土器が行なわれた時代は、 小形傍製鏡第U型、広形銅矛、広形銅戈などの行なわれた時代と、大略重なりあうと考える。そして、これは、邪馬台国時代とも、重なりあうと考える。

これに対し、畿内で、庄内式土器の行なわれた時代は、邪馬台国時代よリもすこしおくれて、西暦280〜350年ごろであると考える。つまり、北九州と畿内とでは庄内式土器の行なわれていた時期がずれると考える。

畿内以東において、このころまで、地域によっては、最末期の銅鐸が行われた可能性があると考える。(畿内の庄内式土器が北九州よりも遅れるとみられることについては、『季刊邪馬台国』72号、73号で、ややくわしくのべたが、この安本美典著作シリーズでも、別に一冊を用意するつもりである。)

そして、畿内の庄内式土器の出土地は、物部氏の根拠地と一致する。
たとえば、大阪府で、庄内式土器が集中的に出土する八尾市や東大阪市(むかしの河内の国渋川郡)は、物部氏の本貫地(本籍地)であった。物部氏の中心勢力であった物部の守屋は、この地で、蘇我の馬子や聖徳太子らによって滅ぼされている。

以上、この本で述べようとすることの要点をのべた。

饒速日の尊系氏族の動向は、日本のもっとも古い歴史の数々の謎を解く、重要な鍵である。
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