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天照大御神は卑弥呼である |
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吉野ヶ里遺跡や平塚川添遺跡を含む最新の情報・データ、 あらゆる古文献・発表資料などを 数理文献学や内容分析学といった科学的な方法で分析整理し、 天照大御神は卑弥呼の神格化した姿だったことを明らかにする。 |
本書 はじめに |
最近の「邪馬台国論争」は、きわめておかしな方向に進みはじめている。
出発点である『魏志倭人伝』の記述を、まったく無視して、邪馬台国論争が行なわれる ようになってきている。はじめから、「邪馬台国畿内説」を前提として議論をし、なにか 一点でも、邪馬台国を「かする」点があれば、その点を強調し、マスコミでの宣伝戦にも ちこむため、論理的には、ほとんど、支離滅裂になっている。 たとえば、奈良県の纏向の地で、大きな建物跡が発見されれば、「卑弥呼の宮殿か」と 騒ぐなどである(2009年11月11日各紙朝刊)。 しかし、『魏志倭人伝』には、卑弥呼の「居拠」については、次のような記述がある。
プロローグでも触れるように、この種の騒動が、意図的に、くりかえし引き起こされて いる。事実による証明よりも、マスコミ宣伝というわけである。 奈良県の纏向遺跡は、おもに、四世紀の崇神、垂仁、景行天皇時代のものであろう。 邪馬台国の探求は、もっときちんと根拠をあげて、総合的な立場から行なわれる必要が ある。「考古栄えて、記紀滅ぶ」であってはならない。 古代史料を、内容分析学や数理文献学など情報科学の立場から分析整理した結果、私は 邪馬台国=九州説、いわゆる邪馬台国東遷説を支持する。卑弥呼は天照大御神という形で、 伝承化し、神話化したものと考える。その論拠を一つだけ、この場であげておく。 地名は言葉の化石といわれるように、古いものがいつまでも残る傾向がある。『古事記』 『日本書紀』に出現する日本神話の地名の統計をとってみると、九州の地名がいちばん多く、 その次は出雲の地名である。その神話の記述の中に、高天の原に「天の安の河」という川 があり、そこに神々が集まって会議を開いたというくだりがある。いま地図を開くと 、北九州のほぼ真ん中に福岡県朝倉市(旧甘木市)があり、その近くに朝倉郡筑前町という地 名がある。この筑前町は2005年に夜須町と三輪町とが合併して誕生した町であるが、 その旧夜須町は奈良時代の文献にも「安」の字で記されている。一帯を流れる筑後川の支 流は小石原川または甘木川といわれるが、明治のころまで夜須川と呼ばれていた。 さらに、夜須を中心に北に笠置山、御笠山、西に平群郡、三輪、小田、高田、朝倉、南 に基肆(紀伊)……と、畿内・関西の地名と非常によく似た地名が、ほぼ同じような位置 関係にある。21個の地名のうち、17まではほぼ完全に発音が一致し、相対的な位置 関係も同じである。地図を見ると、九州と畿内はほぼ重なり合う(172ページ参照)。 ほかにも、奈良、春日、恰土(または伊都)、那珂(那賀)の有名な地名が九州と畿内にある。 80にものぼる地名が一致または類似しているという奥野正男氏の調査研究もある。 江戸時代以来、「邪馬台国=九州説」と「邪馬台国=畿内、大和説」がえんえんと議論 されてきた。そのなかで、邪馬台国は初め九州にあり、ある時に大和へ移ったという、い わゆる東遷説を示唆したのは、明治期の東洋学者、白鳥庫吉・東京帝大教授である。東宮 時代の昭和天皇の教育にあたられたこともある著名な学者であるが、その見解を発展させ たのは同じく東京帝大の哲学者で、『古寺巡礼』で知られる和辻哲郎教授である。「大和朝 廷は邪馬台国の後継者であり、『古事記』『日本書紀』の伝える神武東遷の物語は、否定し がたい伝説にもとづくものであろう」といい、「邪馬台国東遷説」を打ち出した。これに 対して、京都帝大の内藤湖南教授が畿内説を主張した。以来、東大派と京大派に分かれ、 激しい論争を繰り広げることとなった。この論争は多くの学者、専門家をまきこんで今日 まで続いている。この間にこれらに関する本は五百冊以上も出版されているが、ほとんど が推論の域を出ていない。 『古事記』や『日本書紀』『魏志倭人伝』、考古学的な検討などを通じて、邪馬台国はど こにあったか、卑弥呼は何者か、についての研究などは、ほとんど出尽くされたといって よいだろう。もはや新しい方法なくしては、これらの問題は解決できない。 歴史学はすぐれて総合の学で、邪馬台国問題を解決するには、大きく分けて、
「内容分析とは、伝達内容を分析するための、客観的、体系的、数量的な方法である」(シ カゴ大学社会科教授・B・ベレルソン)。主観的な判断をできるだけ縮小し、本質的なも のを抽出するのである。数理文献学は、古文献に現れる用語や文体や内容を統計的、数理 的に分析し、整合性のある仮説を求めていくもので、計量文献学ともいう。 内容分析学や数理文献学の共通の特徴は、数量的、数理的な記述を行なうことである。 最近は、統計学、確率論、情報理論、多変量解析論などが導入され、コンピュータの発達 によりハイテク化し、精度はいっそう高まってきた。 私は、質的な思考様式と量的な思考様式とは、たがいに補完すべきものであり、研究目 的に応じて、それぞれ正当性を持っているものだと考えている。質的な直感や帰納によっ て、量的な分析を行なうための前提となる仮説が立てられる。そしてまた、量的な分析に よって仮説が成りたつか否かがチェックされ、得られた知識が、さらに新たな仮説を立て るのに役立つ。しかしながら、わが国ではこのような分野において、質的な思考様式に比 べ、量的な思考様式は、かならずしも十分な伝統を持っていない。 数量化の手続きをへることにより、主観的な判断の余地は小さくなり、本質的なものが 浮き彫りにされ、法則や規則性が見出されやすくなる。私は、この本のなかで、こうした 方法で夾雑物を除き、法則を見出し、矛盾は先鋭なかたちでとりだそうとした。そして、 矛盾を止揚して議論を発展させ、結論を導くことにした。このような操作を意識的にくり かえし行なった。すなわち、自然科学にきわめて近い立場をとったといってもよいだろう。 このような研究については、以前『数理歴史学』(筑摩書房刊)のなかでまとめて紹介 したことがあるし、同志社大学の村上征勝教授の『真贋の科学−計量文献学入門−』(朝 倉書店刊)というよい本が出ているので、関心のある方はご覧いただきたい。 内容分析学、数理文献学の立場から見るかぎり、「邪馬台国=九州説」は「邪馬台国= 大和説」に比べ、決定的に有利である。その論拠をこの本で展開したい。読者は読み進む にしたがって、内容分析学や数理文献学の手法や考え方を理解していただけるものと思う。 卑弥呼が魏に遣使したのは西暦239年(238年との説もある)で、死去したのはそ の十年後の247、8年ごろである。そのころ魏は蜀や呉と戦っていた。いわゆる「三国志」 時代である。魏の将軍、司馬懿仲達が蜀の名宰相諸葛亮孔明と五丈原で対峙し、孔明が 戦場で病没するのは234年である。卑弥呼はまさに同時代を生きていたことになる。そ の卑弥呼の墓は、福岡県朝倉市(旧甘木市)付近にあると推定する。卑弥呼が魏の皇帝か ら賜った「親魏倭王」の金印も、いまなおその地に眠っているのではなかろうか。 この本は、1967年に出版された『邪馬台国への道』(筑摩青房刊)、1998年の『最 新 邪馬台国への道』(梓書院刊)などをもとにして、漢字の原文や難しい数式などを削 除し、その後の知見を加え、できるだけ読みやすく編集しなおしたものである。邪馬台国 や卑弥呼についての、私の議論の要点をまとめたものといえる。 なお、昨年12月に発刊された『季刊邪馬台国』(100号、梓書院)で考古学者の石野博 信氏と「邪馬台国は畿内か九州か」をテーマに対論を行なっているので、ご覧になってい ただければ幸いである。 本書の刊行にあたってば、心支社の林宗宏社長から格別のご配慮をいただき、また、原稿の編集・整理にあたって、中村炳哲氏のお世話になった。記して深甚の謝意を表する。 2009年11月 安本美典 |
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