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天照大御神は卑弥呼である |
盗掘記録からはじめてあかされる、発掘が許されない天皇陵の内部!天皇としてはじめて火葬にされた持統天皇の遺骨は銀の筥に納められていた! |
本書 はじめに |
一 かつて、天皇は、神であった。天皇家の陵墓(りょうぼ)を盗掘(とうくつ)することは、神をおそれぬ行為であった。 それでも、世々、盗掘を行なうものたちが絶えなかった。 鎌倉時代、天武(てんむ)天皇陵の盗掘犯人が検挙され、犯人が大理門の前に引きたてられたとき、 「見物の車が路をふさぎ、壮観であった。」 (『百練抄(ひゃくれんしょう)』)という。 江戸時代の末期に、天皇陵盗掘の犯人グループが逮捕され、生き残った犯人は、奈良の町内を引きまわしのうえ、礫(はりつけ)になつている。取りしらべ中に、病死した犯人のばあいは、塩づけの死体を、引きまわし、礫にしている。 大正時代に、盗掘団が、垂仁(すいにん)天皇皇后の日葉酸媛(ひばすひめ)陵を中心とする諸陵墓を盗掘し、逮捕され、懲役刑(ちょうえきけい)をうけている。 1986年(昭和61)には、大阪の「履中(りちゅう)天皇陵」に考古学マニアの大学生らが侵入し、墳丘部で約50点の土器片を盗掘し、堺南署に窃盗容疑(せっとうようぎ)で逮捕されている(文化財保護法違反容疑ではない。天皇陵は文化財保護法の対象外)。周濠をゴムボートで渡ったという(『毎日新開』 [大阪]1986年12月21日付け)。 しかし、盗掘犯人が検挙された例は、ごくわずかである。 二 千年以上の歳月のあいだには、戦乱の時代もあった。朝廷の権威がおとろえ、盗掘にあうほうがむしろ自然な状態の時代もあった。 四世紀〜八世紀の古代天皇陵のほとんどは、盗掘されているとみられる。 橿原(かしはら)考古学研究所を創設し、のちにその所長となった考古学者、末永雅雄は、その著書『大和の古墳』 (近畿日本鉄道株式会社、近畿文化会、1941年刊)のなかで述べている。 「今日までわれわれが手がけて来たたくさんの古墳でほとんど無庇(むきず)のものはなかったといってよく、たまたま鬼の目をまぬかれて残るのがいくつかあった程度で、それほど盗掘が浸透している。」 「私の考古学徒としての既往六十余年にわたる古墳調査で、はじめて開封をして被葬者と対面したのは国内で一件(中略)だけであった。」 「私が祭良県の考古学調査を担当するための嘱託を受けたのは昭和2年(1927年)の春であったが、その当時丹波市(現在、天理市)に盗掘の常習者が居(い)て日(いわ)く『大学の先生とか県の役人といっても大したことはない。俺たちは鉄棒一本あれば石室・石棺はすぐ見つける』 と放言していた。」 「盗掘された資料では大ていその背後に悪徳業者があって、個人の趣味・収集者との間に闇取引が多かった。」 また、考古学者の茂木雅博(もぎまさひろ)氏(茨城大学教授)は、その著書『天皇陵とは何か』 (同成社、1997年刊)のなかで、つぎのように記している。 「古墳発掘は古くから宝探し的に行なわれていた。それは現在奈良県下に残されている200基を越える前方後円項の90パーセント以上が発掘されていることからもわかる。」 三 天皇陵盗掘のくわしい記録が残されていて、私たちに貴重な情報をもたらしている例がある。また、盗掘によって明らかになつた事実も、かならずしもすくなくない。 しかし、盗掘がもたらすものは、基本的には、長い歴史をもつわが国の文化財の破壊と消失である。天皇陵は、貴重な文化財としての一面をもつ。 文化財としての天皇陵を守るには、どうすればよいのか。 遠い歴史を学ぶのは、永(なが)い未来に備えるためである。天皇陵の盗掘の歴史を、ここにふりかえるのは、国民の財産である文化財を守るためである。 国民の道義心に期待するだけでは、不十分である。そもそも、道徳的教育自体が、やや 敬遠されるむきもある時代に、天皇陵に特化した教育などはできないであろう。 天皇陵を完全に警護することは、現在も、そして将来はさらに、予算的に無理がある。 四 すでに、「真の天皇陵」である可能性の大きいものが、発掘されている例がある。 天皇陵の発掘は、つぎのような事情などにより行なわれている。 たとえば、第26代継体(けいたい)天皇陵のばあい、宮内庁が継体天皇陵として認定している太田茶臼山(おおだちゃうすやま)古墳は、比定を誤っているとみられる。「真の継体天皇陵」は、別にある。それは、今城塚(いましろづか)古墳といわれるものである。そのため、宮内庁認定の継体天皇陵は発掘できないが、「真の継体天皇陵」とみられる今城塚古墳のほうは、発掘をみている。 発掘をみた「真の継体天皇陵」とみられる古墳には、盗掘のあとが残っている。 また、最近は、第37代斉明(さいめい)天皇の真の陵の可能性の大きい牽牛子塚(けんこしづか)古墳が発掘されて、大きく報道されている。これも、宮内庁認定の斉明天皇陵は、牽牛子塚古墳から2.5キロほど西の車木(くるまぎ)ケンノウ古墳だからである。 「真の斉明天皇陵」である可能性の大きい牽牛子塚古墳も盗掘をみている。そのことは、さきに紹介した末永雅雄の著書『大和の古墳』 の「牽牛子塚古墳」の項で、「むかしの盗掘で取り残された七宝飾りなどいろいろ残るものがあった。」「むかし盗掘されたが(以下、略)」などとあるとおりである。 古墳の発掘は、もちろん、発掘の許可を得て行なわれるものである。 ここで私は、素朴な違和感をおぼえる。「真の天皇陵」は、盗掘も発掘もされているのに、宮内庁認定の天皇陵のほうは、発掘されず、盗掘の可能性があるままに残されている。 宮内庁認定の天皇陵は、学術文化が現代ほどの水準でない時代に定められたものである。 過去に一度認定された天皇陵が、治定(じじょう)変更になった例はあるのであるから、現代の学術水準のもとで、再調査・再検討してみる必要があるように思う。 五 斉明天皇陵のばあいは、2010年(平成22年)に、日本共産党の衆議院議員、吉井英勝氏から、「牽牛子塚古墳が真の斉明天皇陵であるか否かの検証と、宮内庁による現在の斉明天皇陵の治定の正否の検証」「真の斉明天皇陵の学術的検証」などを求めた質問がだされている。 これに対して、2010年11月20日に内閣総理大臣菅直人名で答弁書がだされている(それらの内容はインターネットで見ることができる)。 答弁書の主旨は、「宮内庁としては、お尋(たず)ねにお答えすることは、種々な誤解を生じさせるおそれがあることから差(さ)し控(ひか)えたい。」であるとみられる。 しかし、この答弁書のなかに、つぎのような文がある。 「皇室においては、陵墓等に葬られている祖先を追慕するために祭祀を行なっていると承知している。」 誤っている可能性の高い陵墓に対して祭祀を行ない、「真の天皇陵」とみられるものには、祭祀を行なわない。これは、祖先を追慕するという趣旨にあわないのではないか。 宮内庁認定の天皇陵と、牽牛子塚古墳との、いずれが「真の天皇陵」であるかを、学術的に十分に検証するためには、宮内庁認定の斉明天皇陵の発掘は欠かせないであろう。 「真の斉明天皇陵」の可能性の高いものがすでに発掘されていて、誤っている可能性の高いものが発掘調査できない。すこし、奇妙な事態のように思える。 私個人としては、宮内庁認定の天皇陵は発掘し、十分な学術的な比較調査検討を加え、記録を残し、将来の盗掘にあわないよう手段を講じ、埋めもどすのがよいと思う。 国民が、天皇陵をおとずれたときは、近くに資料館、説明板、複製品などがあって、発掘の内容を含めて、その天皇陵についての知識が得られるようにする。 天皇と国民のあいだを近づけ、国民が遠い歴史をかえりみるよすがになればよい、と思う。 強い好奇心をもつ一部の国民のなかから、犯罪者をだすよすがとなることはさけたいものである。天皇陵が、皇室だけが追慕するものでなく、国民もまた追慕できるものであってほしいと願う。そのようにしてこそ、時代の激変をもこえて、天皇陵は、残りつづけるものとなるであろう。 この本の刊行にあたり、宝島社の佐藤文昭編集長には、特別のご配慮をいただいた。記して、謝意を表する。 2011年6月 安本美典 |
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