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吉野ヶ里の証言

倭の五王の謎 邪馬台国は筑後川流域にあった。

吉野ヶ里の発見と古代史をめぐる疑問に、
数理文献学の論客が徹底挑戦!

ついにつきとめられた、”邪馬台国はここだ!”



本書「プロローグ  吉野ヶ里を10倍楽しむために」より

古代史が10倍面白くなる!
この本は、徹底して論争的な本である。この本は、知的な刺激の本となればよいのである。

吉野ヶ里について楽しみながら考え、古代史に、推理小説的なおもしろさを感じていただければよい。

邪馬台国間題の本などというものは、きわめてマジメな学者がマジメに研究し、マジメに本をかいて、結果的に全然フザケタ結論をだしてしまうこともある。

私のように、フザケタ学者がおもしろがって研究し、フザケタ本を書いて、結果的に全然ホントの結論をだしてしまうかもしれないのである。この本は、案外、日本古代の真実にせまる本なのだ。

さて、筑後川流域の吉野ヶ里遺跡が発掘され、5月7日に、現地見学を打ちきるまでに、見学者は、多い日には十万人をこえ、のべで百万人に達したという。入場料を百円ずつとれば一億円で、維持費の一部がまかなえそうな大人数である。

空前ともいえる古代史フィーバー、邪馬台国フィーバーである。

現代人の多くは、日常生活そのものに耐えるために、時おり非日常の時間と空間とをもつことを願う。 吉野ヶ里の地に、足をはこび、邪馬台国の生活をすこしでも追体験すれば、心が洗われる。日の光も、風のそよぎも、鳥の声も、古代のままのものかと思えば、新鮮な感慨に打たれる。

吉野ヶ里遺跡についての写真集、特集をした雑誌などが、すでに何冊も刊行されている。 しかしそれらの出版物の多くは、吉野ヶ里遺跡はどんな遺跡なのか、どんな遺物がでたのか、邪馬台国間題とはなにか、などを記録あるいはおさらいするにとどまっている。

それらは、たしかに、古代をイメージし、追体験する材料を提供しているが、ある意味では、とりあつかい方がひどく静的である。

古代史には、今ひとつ、別の楽しみ方がある。与えられた材料にたずねかけ、推理し、古代をみずから構成して把握する楽しみ方である。これは、推理小説を読むのにも似た動的な楽しみを与えてくれる。それでこそ、古代を十倍楽しむことができる。

吉野ヶ里遺跡は、あらたに数々の論争の火種を提供している。 この本は、あなたが吉野ヶ里を十倍楽しむ材料を提供するための本である。

吉野ヶ里があらたに提供した論争の種のうち、主要なもの五つを列挙する。

論争点1 吉野ケ里は邪馬台国の地なのか
すでに発表されている意見のなかには、吉野ヶ里=即邪馬台国であるとするものがいくつかある。ほんとうなのだろうか。

吉野ヶ里遺跡の住居跡からみて、弥生時代後期、邪馬台国時代の吉野ヶ里の地の住民の数は、千人ていどであろうと推定されている。

いっぽう、邪馬台国のことを書いた中国の史書『魏志倭人伝』は、邪馬台国の戸数を「7万余戸」と記している。

一戸四人としても、邪馬台国の人口は、28万人となる。つまり、吉野ヶ里国ほどの国がおよそ300国集まって、やっと、邪馬台国ていどとなる。

『魏志倭人伝』には、卑弥呼は、婢千人をはべらせていたという。甕棺から推定される当時の人口が婢の数ていどというのは、すくなすぎないであろうか。

新聞・テレビから得られた吉野ヶ里の像は、あまりにも大きく、邪馬台国の戸数と比較した吉野ヶ里の像は、あまりにも小さい。この大きな落差は、どうやってうずめられるのか。

論争点2 吉野ケ里の墳丘墓に卑弥呼は眠っているか
吉野ヶ里の墳丘墓に、卑弥呼が眠っているかもしれない、などという意見をのべた人がいる。

そりゃあ、「可能性」ということだけからいえばどんな「可能性」もある。邪馬台国を、フィリピンやジャワにもっていく説もあるぐらいだ。

卑弥呼がマラカニアン宮殿の下に眠っていて、1700年の歳月をこえ、女性のよしみで、アキノ大統領に支援の鬼道流霊波を送っている「可能性」だって否定できないかもしれない。現代でも、女性が大統領になれるような国こそ邪馬台国の地にふさわしい、などという議論も成立するかもしれない。

要は、その「可能性」が大きいか、小さいかである。

吉野ヶ里の墳丘墓は、大方の考古学者は、弥生中期のものであるとしている。卑弥呼が生存していたのは、弥生時代の後期である。200年以上の年代差がある。下へ掘れば掘るほど、時代は古くなるばかりである。したがって、墳丘墓をいくら下に掘っても、卑弥呼の枢はでてこない。方向が逆なのだ。

時代の新古は、土の層の上下に対応する。卑弥呼の枢にゆきあたるためには、墳丘墓から上にむけて掘らなければならない。

それでも、墳丘墓に、卑弥呼が眠っている「可能性」があるのだろうか。

論争点3 吉野ケ里の地=即邪馬台国説はなりたつか
新井白石は、その著『古史通或間(こしつうわくもん)』のなかで、『魏志倭人伝』のなかに記されている30ほどの倭の国のなかの「弥奴国(みなこく)」を、九州の肥前の国「三根郡」にあてた。この説により、吉野ヶ里の地を、「弥奴国」にあてる説がとられている。

この説は、十分な根拠をもつのだろうか。

私には、そもそも新井白石の議論は、江戸時代の学問水準にもとづくもので、その名のとおり、「アライ」ように思えるのだが・・・。

論争点4 邪馬台国=畿内説はそれでも成立するのか
吉野ヶ里遺跡の発掘により、邪馬台国論争の振子は、「邪馬台国=北九州」のほうに大きく揺れている。それでもやはり、「邪馬台国=畿内説」は、成立するのだろうか。

「邪馬台国」を奈良時代の万葉仮名の読み方でよめば、「やまと」と読める。これは、今の奈良県の地である古代の国名「大和」の国と正確に一致する。

九州には、これほど正確に一致する大きな地名の「やまと」はない。

『潮』(1989年6月号)を読んでいたら、作家、江宮隆之氏の吉野ヶ里遺跡についての、つぎのような文章にであった。

「吉野ヶ里遺跡から西へ十数キロ行ったところに大和町がある。(佐賀に大和という地名があったのには驚かされた。邪馬台をヤマトと読ませるなら一致するからである。地名が最近のものかどうか尋ねたところ、かなり古くからの地名で、ここは肥前国府が置かれていた、と教えられた。国府のあった場所の地名がヤマトということは、記憶に留めておかなければならないだろう。)」

佐賀に「大和」という地名は、たしかに現存する。

しかし、この「大和」は、昭和30年に春日・川上・松梅の三村が合併したとき、「和」をはかって、「大和村(だいわむら)」といったのだ。そして、昭和34年に、町制を施行するときに、「大和(やまと)」と読むことにした。おなじ「やまと」でも、起源がちがう。

日本地名大事典1九州』(朝倉書店)の「大和町」の項にも、「昭和30年4月16日、春日・川上・松梅の三村が合併して大和町が発足した。」とある。

このように、地名事典が一冊あれば、活字になっているような見解でも、それが正しいかどうかを、しらべてみることができる。国名に焦点をあてれば、「邪馬台国=大和説」は、やはり分があることになる。

ほかにも、「邪馬台国=畿内説」にたしかに有利な根拠もいくつかは存在している。それらをどう理解すべきなのか。

論争点5 邪馬台国問題は、なぜ解けない?
これは、根源的な問いである。 『魏志倭人伝』には、卑弥呼が魏の王様から、「親魏倭王」という金のハンコをもらったと記されている。この金のハンコが出土したら、一発で邪馬台国がわかるじゃないか、と思われる方もおられるであろう。

ところが、考古学者の佐原真氏(奈良国立文化財研究所埋蔵文化財センター研究指導部長)は、『月刊Asahi』(創刊号)の「神秘の衣を脱ぎ始めた女王卑弥呼」のなかで、「親魏倭王の印は日本にない!」という小見出しのもとに、つぎのようにのべている。

「(親魏倭王の印が)九州で出れば決まりだ。しかし、たとえば奈良県で見つかっても、九州から奪いとったかも知れないし」(安本注−佐原氏は邪馬台国聾畿内論者なので、このようにのべる。私は、九州論者なので、邪馬台国の王様が畿内の銅鐸勢力をほろぼして、大和朝廷をたて、そのさいに金のハンコを腰にぶらさげて行った、という図式を考えてしまう。−この冗談、わかって下さるだろうか。

古代の人は、宝ものをかならずしも首にかけなかった。腰にぶらさげた。『播磨国風土記』 の賀古郡の条に、景行天皇が、剣をつるす紐に勾玉と鏡とをとりかけていた話がでている。)

「九州から見つかったって、大和朝廷が無用のものだからって与えたり、あるいは九州側が奪い取ったかも。」

「もっとショッキングな解釈があります。

このあいだ、大場脩さん(関西大学教授・中国古代法制史)に教わりました。お許しを得たので紹介させていただくと、大場さんは、『日本では見つからんと思っているんです』といわれたので絶句しました。」「卑弥呼が死んでから、266年に倭の女王壱与が晋(西晋)に朝貢する。王朝が代わったんだから、『このとき、親魏倭王印は返却して親晋倭王の印をもらってきても、不思議ではありません。冊封体制とは、そういうものではないでしょうか』−これが大場さんの言葉です。」

「中国で王奔が前漢を倒して『新』をたてたとき、匈奴は漢からもらっていた『匈奴干璽』を返して『新匈奴干章』を受けとる。あとで格落ちと気がついて、その印を取り返そうとしたが、破砕したあとだった、という話を思い出すな。」

なるほど、そう言われれば、『魏志倭人伝』を読めば魏の朝廷は卑弥呼に、「親魏倭王」の印を「与えた」とは書かれていない。『魏志倭人伝』には、つぎのように書かれている。

「いま、汝を親魏倭王となし、金印紫綬(むらさきのくみひも)を仮す。」「正始(魏の斉王、芳の年号)元年(240年)、(帯方郡の)太守の弓遵は、建中校尉(武官の名称)の梯儁などをつかわし、詔書・印綬 を奉じて、倭国にいたらしめた。倭王に拝仮し、あわせて詔をもたらした、……」

この「仮す」とか、「拝仮する」とは、どういう意味なのだろう。これについては、中国の古典をよく読んでいた『日本書紀』の編者が、大変適切な使用例を示している。『日本書紀』の孝徳天皇の大化元年8月の条に、つぎのような文がある。

「国郡の刀・甲・弓・矢を収め聚め、……尽に其の兵を数へ集めて、猶本の主に仮け授ふべし。」 この文は、「兵器を公におさめ、その数などを検してのちに、本主(武器のもとの持ち主)にもたせる。」と言う意味である。

兵器の所有権利は国家にあるので、「仮け授ふ」といっている。そして、『日本書紀』では「仮」は「仮(あづ)く」とよんでいる。「仮(か)す」は「貸(か)す」なのである。

このような解釈にしたがえば、「仮金印紫綬」は、「金印紫綬」の所有権は本来、魏の朝廷にあり、それをひとまず「親魏倭王卑弥呼」に「仮(あづ)けた」という意味になる。

また、「拝仮倭王」の「拝」には、(官職に)「任命する」という意味があるから、「拝仮倭王」は、「倭王に任命して(金印を)仮けた」という意味になる。「与えた」のではなく「仮けた」のだから、「仮ける」のが適切でなくなれば、金印はとりもどされることになる。

なお、後漢の光武帝が「倭の奴国」に与えた金印は、志賀島から出土している。しかし、こちらの方は『後漢書』に、「印綬を賜う」と書かれている。「仮け」たのではなく「賜った(与えた)」ことになっている。

話がやや余談になったが、金のハンコも、わが国からでてくる可能性がとぼしく、かつ、でてきたとしても、移動した可能性があるとしたら、今後、邪馬台国問題は、解決するみこみがあるのだろうか。

まあ、ざっと、五つほどの論争点をあげてみた。吉野ヶ里をめぐる以上のような論点について議論をした上で、邪馬台国問題について、私なりの解答をしてみようと思う。

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