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朝鮮語で「万葉集」は解読できない

朝鮮語で「万葉集」は解読できない

「万葉集」を、朝鮮語で説明するという流行の本のほとんどは、正しい言語比較の方法をとっていない。

「朝鮮語は、日本語と関係があるはずだ」という未証明の前提のもとに謎を解こうとしている。

かくて「暗合」が「暗号」に転化する。


プロローグ 「こじつけ」集がベストセラーに・・・

『万葉集』の謎は、英語でも解ける

「歴史はくりかえす。」という。同じようなことは、時をおいてくりかえされるものだ。

最近、『人麻呂の暗号』『もう一つの万葉集』『日本語の悲劇』など、古代の日本語が、朝鮮語で解読できるという趣旨の本が、つぎつぎと刊行されている。これらのなかには、数十万部というベストセラーになっている本もあ るようだ。

このような事件は、これまでにもあった。 とくに有名なものに、『万葉集の謎』事件があ る。

これは、いまでも、言語学者たちのあいだで、語り草になっている。

もう30年以上まえの、昭和30年(1955)のことである。

それまで連続5年間ベストセラーを続けた 全6巻の大著『人間の歴史』(光文社)の著者であり、フロイトの先駆的な紹介者として知られる安田徳太郎医博が、『万葉集の謎』(光文社)をあらわした。

安田徳太郎はいう。 「万葉時代の日本語が、今なお、ヒマラヤの谷底にすむレプチャ人によって語られている。」

そして、『万葉集』の歌のほとんどが、レプチャ語で、解読できるとした。

この大胆な説は、出版社の宣伝上手ともあいまって、たちまちベストセラーに躍りあがり、版を重ねた。

この本は、読み物としては、たしかに面白いものであった。

しかし、この種の本の常として、「日本語とレプチャ語の単語で、発音(形)が似ていれば、関係がある。したがって、それは、レプチャ語で解読できる。」という「未証明の前提」のもとに解読が進められていた。

いま、「レプチャ語」を、「英語」におきかえたならば、どうなるだろう。

国語学者の金田一春彦氏は、昭和31年7月号の『文藝春秋』に、「万葉集の謎は英語でも解ける」という軽妙な批判文を発表した。

「安田徳太郎博士のメスの使い方は無茶苦茶だ。あの方法でやれば日本語は地球上の何語とでも結びつく。」とリードのついたこの文章のなかで、金田一氏は、たとえば、つぎのような例をあげる。

「このへんで『万葉集』に入るが、まずこのman y shという名が、レプチャ語であるさきに、英語である。

最初のmanyの部分は言わずと知れた『多くの』の意味、次のは英語のodeの略で、『頒歌(しょうか)』のこと、shはshewで、これは、今のshow・・・ファッションショーのショーの古語だ。とコンサイス英和に も載っている。

つまり『たくさんの頒歌の陳列』の意で、巻一あたりに、柿本人麻呂等の宮廷頌歌を集めてあるところから、この名が出たとすることができる。」

「この調子で本文を読めば、『万葉集』20巻は至るところ英語の氾濫だ。……」このように『万葉集』は、英語ででも解読できてしまうのである。


「万葉集」は万華鏡?
『人麻呂の暗号』のオビ広告には、つぎのように記されている。

「人麻呂を中国語韓国語で読むと・・・
そこには全く別の恐しい意味が隠されていた
−千有余年の封印を解いて今明らかにする歌聖の出自と死の謎。文学史を覆す衝撃の書。」

「雄大な叙景歌が亡霊の歌に−
水遊びの歌が痛烈な宮廷批判に−
韓国語・中国語を触媒として人麻呂は戦(おのの)くばかりの変容を遂げた。
自らの歌に暗号をちりばめた万葉の歌聖の悲痛のメッセージとは。」

だが、「『万葉集』が、ある外国語で解読できる。」という未証明の前提に立って、自由に解釈してよいとすれば、『万葉集』は、まったくさまざまに「解読」されてしまう。

たとえば、「『万葉集』は、英語で解読できる。」という前提に立ったとする。

すると、金田一氏のような解釈のほかに、つぎのような5つの解釈もできる。
  1. 予言の本

    「man y sh」の「man」は、「manual」の「man」で、「手」の意味。フランス語で、「手」を意味する「マン(main)」やスペイン語で、「手」を意味する「マノ(mano)」と同じ源から来たことばである。

    「y」は、「yours」で、「あなたのもの」の意味。「sh」は、「shew」つまり「show」で、『万葉集』は「あなたの手をみせなさい」という意味だ。

    『万葉集』は、じつは、英語の暗号で、手相の秘義を記したもので、古代の人々が現代におくるメッセージなのだ。ここには、ノストラダムスの大予言にもおとらぬ、恐ろしい予言が隠されている。千有余年の封印は、英語と いう鍵で、いまこそ解かれ、衝撃の予言が、姿を現してきた。

    しかも、おどろくべきことに、この本には、編纂後千二百年余ののちに解読されることさえ、予言されているのだ。

  2. 古代航海についての本

    「man y sh」の、「man」は、「人間、男」の意味。「y」は「yore」で、これが「昔」のことを意味する古語であることは、研究社の『新英和大辞典』にものっている。

    さらに「sh」であるが、 「集」の字は、むかしは、日本語で「シフ」と発音されていた。ところで、日本語の「ハ行子音」が、むかしは、「P音」であったことは、東京帝国大学教授であった上田万年が、論文「P音考」を、明治末に発表して以来、国語学 界の、ほぼ定説になっている。したがって「シフ」は、むかしは「シプ」であった。

    これは、もちろん、英語の「ship」で、船のことである。『万葉集』とは、「男たちのむかしの船」のことで、古代航海についての本である。

    つまり、我々の祖先は、むかし、ヨーロッパからはるばる大航海を行って、この日本の地へやってきたのだ。『万葉集』には、この日本人の出自と建国の謎が記されている。

    『万葉集』の暗号を英語で解くことによって、文学史と日本古代史を根底から覆す衝撃の事実が明らかにされる。

  3. 戦争についての本

    「man y sh」の「man」は、「男」の意味。「y」は、「yeo」である。「yeo」が、「yeomanry」の略である ことは、英語の辞書にものっている。「yeomanry」には、「義勇農騎兵」の意味がある。

    「sh」は、「shew」で、「show」であるが、これには、軍隊用語に、「戦闘」という意昧がある。つまり、『万葉集』は、農民兵による戦争についての本である。

  4. 青春の愛の本

    「man y sh」の「man」は、「人間」の意味である。「y」は、「youth」で、「青年男女」のことである。「sh」は、「シプ」、すなわち、「sip」で、これには、英語の詩語で、「くちびるを当てる」という意味があ る。つまり、『万葉集』は、青春の愛をうたった本といえる。

  5. 「死者の書」

    「many s h」の、「many」は、「多くの」の意昧。「os」は、ラテン語からきた英語で、「骨」のこと。「hu」は、「who」で、「だれ?」の意味。すなわち、『万葉集』は、「累々たる骨は、だれのものか」という意味で、 日本の「死者の書」だ。
このように、『万葉集』は、英語を触媒として読むと、戦(おのの)くばかりの変容を遂げる。もしかすると、以上の5つの解釈は、いずれも正しいのかもしれない。

古代においては、一つのことばに、二つ以上の意味をもたせる「懸詞」という言語使用技法がさかんに用いられた。もしかしたら、それであるのかもしれない。いや、きっとそうなのだ。
  • あるときは、愛の歌にー
  • あるときは、戦いの歌にー
  • あるときは、日本建国の一大叙事詩にー
  • あるときは、恐ろしい予言の歌にー
  • あるときは、心も凍る冥界の書にー
『万葉集』、このたった一語が、見る角度によって、万華鏡のようにめまぐるしく、かつ、きらびやかに変化する。ここには、私たちの人生のすべての姿が、5種の暗号のなかにちりばめられている。

『万葉集』という一語に、英語による5つ、あるいは、それ以上の意味を同時に含ませた古代人のおどろくべき知恵。

英語という鍵によって解く。私たちは、これまで誰もこころみなかった最初の一歩を、今おののく心をもってふみだ したのだ。


正しい方法によつて解読がなされているかどうか
以上は、もちろん、『人麻呂の暗号』のパロディである。

しかし、『万葉集』を朝鮮語で解く、というこころみは、『万葉集』を英語で解く、のとは、まったく別のこころみであるという証明がなされているのであろうか。

このような問題について考えるさいに、まず必要なことは、『万葉集』などに盛られてい る「ことば」を、どのようにあつかうべきなのか、という基本的な「論理」や「方法」である。

「ことば」というものの性質や、言語比較の方法、語源探究の方法などについて基本的な知識を身につけておかないと、私たちは、容易に、「こじつけ」、「ごろあわせ」という落とし穴におちいる。

この論理や方法を、十分検討しないままで、「『万葉集』は、英語で解けるはずだ。」「『万葉集』は、朝鮮語で解けるはずだ。」という前提で作業をすすめるとどうなるか。

英語や朝鮮語について、広く十分な知識をもっていればいるほど、「こじつけ」や「ごろあわせ」が、いっそううまくいくということになる。

日本語でも、朝鮮語でも、英語でも、あるいは、世界のどのような民族の言語でも、何万という単語をもっている。

いっぽう、人間が発声し、弁別できる音の数はかぎられている。

したがって、A、B二つの言語に通じてい ればいるほど、二つの言語から、同じか、近い発音の単語を、より容易にとりだせるということになる。

しかし、『万葉集』の歌を、朝鮮語なら朝鮮語で説明するときに必要なことは、「その歌は、朝鮮語で説明するときにだけ十分うまく説明することができる。他の言語では、同じようにこころみても、そのようにうまくは説明できない。」という「客観的な証明」なのである。


まったくちがう「たらちね」の解説
たとえば、『万葉集』のある歌を、A氏は、「レプチャ語で十分うまく説明することができる。」と主張したとする。B氏は、「朝鮮語で十分うまく説明することができる。」と主張したとする。また、さらに、C氏は、「英語で十 分うまく説明することができる。」と主張したとする。

レプチャ語と朝鮮語と英語とは、それぞれ別の系統の言語であるから、三人のうちの一人が正しければ、他の二人は誤っていることになる。あるいは、三人とも誤っている可能性がある。

このようなばあい、A、B、C、の三氏の主張のうち、どの主張が妥当であるかを、「客観的に」弁別する方法を知っていることが、まず大切なのである。

日本語を、ある外国語Gで解読できたと主張する本のばあい、しばしばおちいりやすい心理に、つぎのようなものがある。

「外国語Gで、『万葉集』が、こんなにうまく説明できることは、私の説が正しい証拠だ。 もし、私の説が誤りだというのなら、外国語G以外の言語で私と同じようにうまく説明できることを示してほしい。」

じじつ、さきの安田徳太郎医博は、『万葉集の謎』の続刊の『天孫族』(光文社)のなかで、つぎのように記している。

「かりにわたくしがどんなに『こじつけの名人』であったとしても、三千や四千もの言葉を一つ残らず巧妙に合わせていくという、そんな手品のような芸当ができるはずはない。」

『万葉集』をレプチャ語で解くというこの安田徳太郎の発言が正しいものと仮定しよう。

とすると、『万葉集』を、朝鮮語や英語で解読できたとするのは、誤りであることになる。同様に、『万葉集』が、朝鮮語で解読できるものであるならば、レプチャ語や英語で解読できたとするのは、誤りであることになる。

したがって、「ある外国語Gで、こんなにうまく説明できた。」という研究者の主観的判断は、その説が正しいことの、客観的な証明にはならない。

たとえば、「たらちね」という枕詞を、安田徳太郎は、レプチャ語で説明し、『人麻呂の暗号』では、朝鮮語で説明されている。説明の内容はまったくちがう。どちらかが正しければ、どちらかが誤っているはずだ。



五千年もたてば言語はちがってくる
あるいは、つぎのような基本的な疑間をもつ人がいるかもしれない。

「人間は、さかのぼれば、もともと、一つの祖先から生まれたのではないか。したがって、もとは人間のことばは、一つだったのではないか。とすれば、『万葉集』が、レプチャ語でも説明できるし、英語でも説明できるし、朝 鮮語でも説明できるということがあってもよいのではないか。

つまり、レプチャ語説も、英語説も、朝鮮語説も、三つとも正しい、というようなことがあってもよいのではないか。」

このような考えにたいしては、つぎのように答えることができる。
  1. 比較できるのは五千年まえまで

    人間が、他の霊長目ヒトニザル科の動物から分かれた時期は、学説によって違いがあるが、だいたい三百万年から、一千万年まえといわれている。

    ところが、人間の言語は、分裂してから二千年たてば、まずたがいに通じなくなる。英語とドイツ語は、いまからだいたい二千年ていどまえに、同じ源となる言語から分かれた言語である。現在でも、たがいによく似ている。

    しかし、ドイッ語だけしか知らない人に英語で話しても、まったくといってもよいほど通じない。分裂してから五千年もたてば、そうとうちがった言語になってしまう。

    A、B二つの言語が似ているとか、似ていないとか、Aの言語のあることばは、Bの言語のあることばで説明できるとかという議論は、A、B二つの言語が一つの言語から分裂したり、影響しあってから、まずは、二千年たらず、長くみつもっても五千年たらずの時間しかたっていないときに、はじめていえることなのである。

    人類が他のヒトニザル科の動物から分かれて言語を獲得した時期の、何百万年もまえの話とは、まったく別次元の話である。

    人類がひとつの祖先から分かれたとしても、その祖先がつかっていた言語(単語や文法)を現在 の多くの民族がつかっているわけではない。五千年もたてばそうとうちがった言語になってしまうのである。
  2. ちがう「約束」を発展させた

    「犬」という「動物そのもの」と、「イヌ」というその「動物の名称」とは、本来直接的な関係がない。

    「犬」という「動物そのもの」は、「ドッグ」とよんでも、「ネコ」とよんでもよかったのである。たまたま、日本語では、その動物を「ドッグ」や「ネコ」とよばず、イヌという「約束」になっているだけである。
このような「約束」が、言語によって、そうとうにちがう。つまり、それぞれの言語が、ちがう「約束」を発展させたからこそ、ちがう言語になっているのである。

したがって、レプチャ語ででも、英語ででも、朝鮮語ででも、説明できるというようなことにはならない。

それぞれの言語がちがう「約束」を発展させたため、現代の日本語で、「アイ」といえば、一般に「愛」を意味する。英語で、「アイ」といえば、「私」や「目」を意味する。

このとき、「アイ」というのは、「愛」を意味するというのも、「私」を意味するというのも、「目」を意昧するというのも、全部正しいというような議論をすれば、その議論は、かならず、そうとうな「こじつけ」になる。


「論理」よりも、「感激」に酔う
古代日本語を、他の外国語で解くという研究者は、つぎのような心理におちいりやすい。

「『万葉集』のこのことばも、あのことばも、みな、私のよく知っている外国語Gによって解読できるように思える。かたっぱしから謎が解けるような気がして、面白くて、やめられない、とまらない。まるで、カッパエビセ ンを食べているような感激だ。」

このカッパエビセン的「面白さ」「感激」は、読者にも伝わりやずい。上手に書かれた本はベストセラーにもなりやすい。

安田徳太郎も記している。

「わたしは、これまで読者の希望や注文に応じて、仕事をつづけてきたが、こんどの『万葉集の謎』にたいしても、熱心な読者から千通以上の激励の手紙をいただいた。わたしは、そういう手紙を襟を正して読んで、その真剣 さに感激した。」(『天孫族』)

が、「感激」は、「真理」とは、かならずしも結びつかない。

安田徳太郎も、そして『人麻呂の暗号』の著者も、同様に、このような「感激」を味わっているとすれば、かならず、そのどちらかが誤っている。

一般読者が求めるのは、「古代日本語の単語のかなり多くが、ある外国語Gによって説明ができるという事例」である。 そして、古代日本語が、かたっぱしから、その外国語Gで説明できるという爽快感を味わいたがる。そして、それで満足する。

ところが、言語学者や、国語学者が求めるのは、「古代日本語が、ある外国語Gによって説明できるという証明」である。

「古代日本語が、その外国語Gによって説明できるという証明」は、「論理」にもとづいて行われる。そして、一般の人は、「論理」よりも、「感激」のほうが欲しいのだ。

『万葉集』にでてくる「たらちね」という枕詞は、レプチャ語(あるいは、朝鮮語)では、このように解釈できる、という説明のほうがわかりやすい。それは、中学校や、高等学校でならう英語の辞書を引く操作にも、似てい るからだ。

ところが、「古代日本語が、その外国語Gによって説明できるという証明」のほうは、説明が、論理的、学問的になりがちで、わかりにくい。

そのために、どうしても、事前の証明を抜きにした事例主義に走ってしまうということになりがちなのだ。

しかし、古代日本語を、朝鮮語で説明するというようなことを行うには、一定の学問的手つづきが必要なのである。


木村鷹太郎は、獅子吼する
明治時代の評論家に、木村鷹太郎という人がいた。陸軍士官学校の教授などもした人であった。

木村鷹太郎は、『日本太古史』(上下巻、博文館)をあらわし、また、諸種の雑誌などで、自説を、さかんに主張した。

東京大学で哲学を学んだ木村鷹太郎は、日本民族の発祥地は、ギリシアであるとした。

そして、日本語は、ギリシア語系の言語であるとし、たとえば、高皇産霊(たかみむすび)の神の別名、神漏伎(かむろぎ)の神は、「言語」を意味するギリシア語「ロゴス」を神名の語幹としている、というような説明をした。

さらに、日本神話にあらわれる地名を、アフリカやバビロニアの地名によって説明した。

木村鷹太郎の研究は、新村出(『広辞苑』の編者。東大助教授、京大教授を歴任)、安藤正次(日本女子大教授、早稲田大学教授を歴任)など、専門の言語学者から、強い批判をうけた。しかし、木村鷹太郎は、けっして納得せず、これらの批判者たちを、つぎのように、罵倒しつくしている。

「日本に於ける言語学者は多くは頭脳不良の輩にして、研究法を心得ず、該博なる参考上の知識なく、其学狭隆浅露にして、到底吾人の謂う所の研究に堪えざるなり。」

「帝国大学の史学科言語学科の教授等には天才の士なし。其平凡なるや言を要せず。彼等の頭脳や幼稚なり、其研究や児戯に類す。」

「敢て是等の言を為すは、近時大学斯学の教授輩の頭脳不良、学刀低劣且つ研究に不忠実なるもの多く、不徳義にも民間の篤実なる研究を防害し、或は之を中傷し天下を害毒すること寡なからざるを憂うるが為めなるのみ。」 (『日本太古史』)

このように、この種の研究を行っている人は、批判をうけても、けっして納得しないものである。

しかし、私は、このブックレットを書くことにした。ひとつには、私たちが使っている「日本語の起源」について、より正しいと思われる知識をより多くの人に知っていただきたいと思ったからである。

また、いまひとつには、二つの言語を比較するさいの正しい方法を、すこしでも多くの人に知っていただきたいと願ったからである。

このような本を書くことは、科学や学問の発展に、多少は寄与するかもしれない。それが執筆の動機である。

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