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卑弥呼は日本語を話したか PHP研究所

卑弥呼は日本語を話したか
原始日本語は朝鮮語では解読できない。

計量比較言語学の第一人者が、あらゆる”こじつけ”を排し、
万葉仮名の読み方に依拠した
科学的手法で日本語の起源に迫る。



はじめに
ことばは、民族の根幹である。

日本人が、日本語を失うとき、日本人は、日本人でなくなる。

日本人の同一性(アイデンティティ)は、日本語を使うことにある。「日本語を使うこと」は、国籍にもまして、仲間 意識をうみだす。

ことばは、民族をまとめ凝集させる見えざる力である。

この凝集力が、民族のエネルギーを創出する。

イスラエルが、建国にさいして、ユダヤ・ヘブライ語の復興・普及をはかったのは、ことばが、民 族の凝集力であるという認識のゆえであろう。

日本語は、つねに、影のように日本民族によりそい、民族の発展、民族の歴史とともにあった。 平和なときの語りあいも、戦争のさいのかけ声も、民族の悲運にさいしての慰めのことばも、私た ちは、この日本語で、行なってきた。

ふるさとの訛(なまり)なつかし 停車場の
人ごみの中にそを聴きにゆく

啄木の歌のように、ことばは、ふるさとそのものである。

それと同じように、日本語は、祖国そのものである。戦争に負けても、日本語を失わないかぎり、 私たちは、祖国を失ったことにならない。

「三つ子の魂百までも」という。

ある個人の特徴は、しばしば、もっとも素朴・純粋な形で、幼子(おさなご)のさいに出現する。その個人の特 徴の本質は、幼子のすがたのばあいの方が、とらえやすいことも多い。

日本列島のことばは、江戸時代も、鎌倉室町時代も、平安時代も、奈良時代も、たしかに、日本語 としての特質をそなえていた。

では、邪馬台国の時代も、「倭人」は、日本語を話していたであろうか。表題に則していえば、 「卑弥呼は日本語を話したか」。

最近、『万葉集』が、朝鮮語で解読できるという本が、つぎつぎと刊行されて、評判となっている。 「やはり万葉集は韓国語だった」(李寧煕著『もう一つの万葉集』文藝春秋社刊)

「古代の日本語は事実上朝鮮語である」(朴柄植『日本語の悲劇』情報センター出版局刊)

しかし、これらの発言は、誤りであると思う(これについてくわしくは、拙著『朝鮮語で「万葉集」は解 読できない』JICC出版局刊参照)。

卑弥呼の時代よりも、およそ、五百年ていどあとの八世紀の奈 良時代に編纂された『万葉集』が朝鮮語ならば、三世紀の卑弥呼はとうぜん、日本語ならざる言語、 朝鮮語系などの言語を用いていたことになる。

しかし、『魏志倭人伝』に記されている「倭人語」をみれば、卑弥呼たちは、すでに、千七百年ま えの弥生時代に、はっきりと、日本語の一種といえるものを話していたのである。朝鮮語とは、異質 の特徴をそなえた言語を用いていたのである。

『魏志倭人伝』のなかに記されている「倭人語」は、さかのぼりうる最古の日本語である。これ は、、日本民族が、幼子であったときのことばである。

千七百年まえの、「倭人語」の解明は、原始日本語の解明である。

日本語ということばの流れの、水源は、ここからまえには、たどることはできない。

この水源のすがたは、私のみるところでは、なお十分に探検・解明されているとはいえない。

それは、おもに、これまで、探検・解明の方法が、ととのっていなかったためとみられる。しか し、最近、この水源を探検・解明するための方法は、ようやくととのってきたように思われる。

この本を読み終えて下さった読者は、きっと、草むらをおおっていた霧がはれ、日本語の水源のす がたを、目のあたりにして下さるにちがいないと信ずる。「倭人語」のことばの滴のひとつひとつ が、きらめきながら岩のはしから落ち、水源を形づくっているありさまが、見えるところに立ってい ることを認めて下さるにちがいないと信ずる。

そして、日本語の始原のすがたを知ることは、私たち自身の本質を知ることでもある。

「われら、いずこより来たりて、いずこへ行くか」 このような問いに対して、この本は、民族の生命力の起源であることばを通して答えようとした。

この本は発音記号や面倒な図表なども多い。そのため、編集にあたられたPHP研究所の兼松悟氏 には、大変御手数をわずらわせることとなった。このような本に、出版の機会を与えられたPHP研 究所と兼松悟氏とに、甚深の謝意を表したい。



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