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騎馬民族は来なかった! |
騎馬民族が朝鮮半島から日本に来たのではない!
日本が朝鮮に出兵したのだ! スケールの雄大さと発想の大胆さ故に今なお人気の「騎馬民族征服説」だが、これは史実を反転させた学説である。 内外の諸文献、考古学的成果を比較検討し、騎馬民族による征服はなかったことを実証する。 |
本書「エピローグ」より 大和朝廷は、どのようにして成立したか |
3世紀末、北九州の邪馬台国は東遷して、大和朝廷=古代国家をうちたてた。 この立場にたつとき、「騎馬民族征服説」の入り込む余地は、まったくない。 1. 国際主義vs国粋主義 SF作家の豊田有恒氏の作品に、『騎馬民 族の思想(徳間文庫)という本がある。 この「解説」の執筆を依頼され、私が 書いたのがつぎの一文である(一部略)。 かつて、高木彬光氏の『邪馬台国の秘密』(光文社刊)が刊行され、大変評判 になったことがあった。『邪馬台国の秘密については、いろいろな批判もあっ たが、私は、邪馬台国問題についての入門 書としては、一流のものであると思った。 高木彬光氏の、邪馬台国=宇佐説は、 私じしんは、賛成ではないが、「邪馬台国 の入門書としては、なにが良いですか。」 と聞かれたときには、まず、高木氏の本 をあげることにしている。 豊由有恒氏の『騎馬民族の思想』を読 んでうけた印象は、高木彬光氏の『邪馬 台国の秘密』を読んださいの印象に、は なはだ近い。 『騎馬民族の思想』は、「騎馬民族征服 説」の、もっともわかりやすい入門書で あるともいえる。 豊田有恒氏が、日本古代史について、 なみなみならぬ造詣をもつ方であること は、その古代史に材をとった数々の作品 を読めば、あきらかである。 私じしんは、江上波夫氏の騎馬民族征 服説に対して、賛成ではない。それは、 日本の古代史について、私じしん、江上 波夫氏とはまた別の説明体系をもってい るからである。 日本の古代史の姿は、パラダイム(もの の見方、光のあて方)の差によって、大き く違ってみえる。それは、ちょうど、ど の色メガネをかけるかによって、風景が まったく違ってみえるのと同じである。 ただ、私じしん、学説というものは、 すべからく、重箱のすみをほじくるよう なものであってはならないと思う。 マルクスの学説にしても、フロイトの 学説にしても、細部には、さまざまな問 題があるにしても、それぞれ、一つの学 説として屹立している。江上氏の説も、 それに近い。 別の説明体系を考えるのならば、願わ くは、そのようでありたい。 豊田有恒氏と、私との、パラダイムの 違いは、どこからくるのであろうか。 おそらく、豊田氏は、やや国際主義的 な人であり、私は、やや国粋主義にかた むく人間なのであろう。 この二つの立場は、新井白石や藤原貞 幹の国際主義に対して、本居宣長や平田 篤胤の国粋主義というように、歴史の研 究において、あざなえる縄のように、対 立しながら、研究史を構成してきた。 私は、もちろん、本居宣長や平田篤胤 の皇国史観のような立場をとらない。 しかし、豊田氏にくらべれば、国粋主 義よりといえるであろう。 豊田氏は、江上波夫氏の見解にしたが い、征服者を、いわゆる天つ神の流れを ひく人々と考え、征服協力者を、渡来人 たち、被征服者を、国つ神とよばれる日 本土着の豪族にあてる。この説明は、わ かりやすい。 しかし、私は、天つ神を、日本に、弥 生時代が成立してから、かなりな時間が たってのちに発生した概念であると考え る。そして天つ神を、北九州の邪馬台国 時代の人々にあたると考え、それは、す でに、日本人的な特質をそなえていたと 考える。 そして、邪馬台国東遷説の立場 をとり、国つ神を、邪馬台国の後継勢力 によって征服された人々であると考える。 天つ神を、日本列島以外から来たと考え ず、天つ神も国つ神も、日本国内の二つ の勢力を示すと考える。 いわゆる天つ神を祭っている神社建築 がある。千木があり、かつお木を置き、高 床式である。 このような形式の建築は、 現在でも、タイ族などの東南アジアの民 家の建築に、容易に見いだせる。朝鮮半 島では、見いだしにくいのではなかろう か。 つまり、光のあて方、資料のとり方に よって、同じ天つ神が、北方騎馬民族的 にも見えてくれば、南方就船民族的にも 見えてくる。 こまかい議論を、ここで行なう必要は ない。要するに、いずれの説も、ある種 の真実を含んでいる部分があるのだ。 本 居宣長のような極端な皇国史観に立って さえ、その史観にもとづく情熱によって、 『古事記伝』という立派な実証的研究が生 まれた例もある。 読者は、青い色のメガネをかけたり、 赤い色のメガネをかけたり、いろいろこ ころみてそのなかから、ご自分に、もっ ともよくあったメガネをえらべばよい。 2.私自身のパラダイム 他説の批判ばかりをしていても仕方がない ので、最後に、日本民族の成立や、日本国家 の起源などについて、私自身のパラダイムを まとめておこう。 ■ 「倭人」の成立と奴国の台頭 私は、つぎのように考えている。 縄文時代には、日本列島に住む人々は、言 語的、民族的に、統一がなされていなかった と考える。日本列島には、地域によって、北 方から来た人々や、南方から来た人々が、ま とまって住んでいたと考える。 縄文時代の末期に、朝鮮半島南部、そして、 対馬、壱岐、北九州などに、ユーラシア大陸 からおしだされてきた一群の人々が住んでい た。 その人々を、「原倭人」と呼ぶことにする。 「原倭人」は、すでに、ツングース語や朝鮮 語とは異なる系統の言語を用いていた。 「原倭人」の言語は、もうすでに、のちの 「大和ことば」、あるいは、現代日本語と親近 性をもつ言語を用いていた。 「私は本を読む。」などの語順も、現代日本 語と同じであったとみられる。 縄文時代の末から、弥生時代のはじめにか けて、中国の江南地方から、ビルマ系を主と する人々が、稲作文化をたずさえてやってき て、「原倭人」と混交し、「倭人」が成立した。 江南から来た人々は、おもに語彙面で、 「原倭人語」に影響を与えた。 江南からきた人々が、高床式住居、高床式 住居にとりつけられたネズミ返し、千木、かつお木、羽 子板でのはねつき、たけうま、げた、歌垣、妻問婚などの、稲作にともなう文化複合体 をもたらした。 甲元真之・山崎純男氏共著の『弥生時代の 知識』に、「東アジアの初期農耕類型」を示す地図がのっている(図1)。 この地図の、「稲・粟・麦地帯」とされ ているものが、「倭人」の原郷とみられる。 地図において、出雲あたりまでが含まれてい ることが注目される。 なお、計量言語学的な方法で、日本語と日 本語の周辺の諸言語との近さの度合を測定し てみると、日本語は、朝鮮語にくらべ、南方 の諸言語の語彙をとかしこんでいる度合が大 きい。 「倭人」の中から、まず、「奴国」を中心と する勢力が台頭した。 「奴国」は、中国の後漢によって権威を与え られており、57年に、後漢の光武帝から、 「金印」を与えられている。 「奴国」では、人をほうむるのに、「甕棺」 を用い、また武器に、銅剣、銅矛、銅文など、 青銅の武器を用いた。また、いわゆる弥生式 土器を用いた。 博多湾沿岸国家であった「奴国」は、筑後川流域に新たに勃興した「邪馬台国」によっ て滅ぽされた。180年ごろのこととみられ る(これについては、拙著、『奴国の滅亡』毎日新聞社刊参照)。 この「奴国」と「邪馬台国」 との争いが、『後漢書』や『魏志倭人伝』に 記されている「倭国大乱」の実態とみられる。 ■ 邪馬台国から大和朝廷へ 「邪馬台国」は、中国の魏王朝によって権威 を与えられることになる。239年、「邪馬 台国」の卑弥呼は、魏から「親魏倭王」の金 印を与又られた。 「邪馬台国」時代には、人をほうむるのに、 箱式石棺・石蓋土こう墓などを用いた。「甕棺」 は、ほとんど使われなくなった。 武器に、鉄 剣・鉄刀・鉄矛・鉄文を用い、青銅の武器は 使わなくなった。土器は、西新式土器を用い た。 「邪馬台国」の時代のことは、『古事記』『日 本書紀』では、天照大御神を中心とするきわ めて神話化した形の物語として伝えられてい るとみられる。 「邪馬台国」は、出雲や南九州にも勢力をの ばしたが、三世紀末に、後継勢力が東遷して、 畿内に大和朝廷をうちたてた。そのときの史 実は、『古事記』『日本書紀』では、神武東征 伝承という形で伝えられているとみられる。 図で描けば、図2のようになる。この立場 のほうが、「騎馬民族征服説」よりも、はる かに簡明に、かつ不自然な点が少なく、文献 的、考古学的諸事実を説明できると思う。 ちょうど三世紀末ごろから、畿内を中心に、 前方後円墳の時代がはじまる。 大和朝廷は、300年ごろから、長年月を かけて、全国を「倭人語化」していった。 ■ 大和朝廷の発展 崇神天皇は、四世紀後半の人で、神武天皇 とは別の人である。 『日本書紀』によれば、 崇神天皇の時代に、
『古事記』では、崇神天皇の時代に、大彦の 命を、高志(越)の道につかわし、その子の 武淳川別の命を、「東方十二道」につかわし たとある。 また、『日本書紀』によれば、崇神天皇の 時代に、天皇が、天照大御神の神威をおそれ て不安を感じられたので、それまで宮中に祭 られていた神体である八たの鏡を、大和の笠 縫の邑にうつし、崇神天皇のつぎの垂仁天皇 の時代に、伊勢の五十鈴川の川上に社殿をた てて神鏡を奉祭し、皇女倭姫の命をして祭 らせた。それが、伊勢の皇大神宮の起源であ るという。 私は、これらの話は、あるていど の史的事実にもとづくとみる。 ■ 「倭の五王」の時代 400年前後、朝鮮半島への、かなり大規 模な出兵が行なわれた。私は、神功皇后の実 在説をとる。 五世紀に、五人の倭(日本)の王がいた。 「倭の五王」といわれる。 五王の名は、讃、 珍、済、興、武である。その名は、中国の歴 史書『宋書』『梁書』などに記されている。 「倭の五王」の問題は、「邪馬台国」問題に つぐ、日本古代史上の大きな謎である。 「倭の五王」の問題は、大きく、つぎの二つ に分けられる。
私は、応神天皇は、倭王讃で、413〜420年ごろの人とみる。応神天皇が、阿知の 使主(あちのおみ)・都加の使主(つかのおみ)を、江南の宋につかわした ことは、『日本書紀』にもみえている(拙著 『倭の五王の謎』講談祉現代新書参照)。 仁徳天皇は、倭王珍にあたると考え、ほぼ、 430年代に活躍した人であるとみる。 『日本書紀』の「仁徳天皇紀」に、上毛野の 君の祖、竹葉瀬(たかはせ)の弟の田道(たじ)が、精騎をつらね て、新羅軍を撃ったという記事がみえる。 おそらく、日本は、このころには、騎馬に よる戦いの方法をとりいれるようになってい たのであろう。 ほぽ以上のとおりである。このようなパラ ダイムにしたがうとき、「騎馬民族征服説」 のはいりこむ余地はない。 『古事記』『日本書紀』の記述をも生かし、 外国の文献資料や考古学的事実とも矛層せず に、わが国の古代を、総合的に把握すること が可能であると思う。 私は、『古事記』『日本書紀』をはじめとす る古文献に記されていることがらは、明確な 内部矛盾がなく、外国の文献資料や、考古学 的事実などによってあるていど裏づけられる ばあい、できるだけ尊重する立場にたつ。 江上波夫氏の「騎馬民族征服説」のように、 『古事記』『日本書紀』に記されている説話を 分解し、それを組みあわせ、また人物なども、 適宜二人の人物を同一人とすることが許され るならば、みずからの先入観にしたがって、 どのような古代史でも構成することができて しまう。 それは、よし説得力はあるとしても、 客観性をもちえないと思う。 |
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