西暦57年、博多湾沿岸国家「奴国」は、後漢王朝から、金印紫綬を与えられる。
後漢王朝の権威を背景に、以来、100年以上、「奴国」は、近隣に威をふるう。
しかし、
「奴国」は、後漢の衰退とともに、威をうしなって行く。
二世紀の後半、中国では、「蒼天すでに死す。黄天まさに立つべし。」のスローガソをかかげて、
黄巾の賊が兵をあげた(184年)。
そのころ、わが国でも、大乱がおこり、博多湾沿海国家「奴国」は、筑後川上流域の山地に勃興した「邪馬台国」によってうち滅ぼされる。『魏志倭人伝』の記す「倭国の大乱」の実態は、「奴国」と「邪馬台国」との争闘とみられる。
西暦239年、邪馬台国の女王卑弥呼は、魏王朝から、金印紫綬を与えられ、名実ともに、倭の諸
国の盟主的存在となる。
この本は、この「奴国」から「邪馬台国」にいたる200年間近くの歴史を復元しようとしたもので
ある。
「奴国」から「邪馬台国」へ。この間に、背景となる中国の勢力が、後漢から魏へと、うつり変わっ
たぱかりではない。
私は、邪馬台国の時代は、「弥生時代」ではなく、「西新(にしじん)式」(西新式土器)の時代であると考える。
「奴国」から「邪馬台国」へのうつり変わりは、「弥生時代」から「西新式時代」へのうつり変わり
に対応する。また、葬制も変化する。「甕棺」の時代から、「箱式石棺」の時代へと移行する。
この本は、このような、私の「新説」をまとめたものである。はじめに、そのおもなポイントを紹
介しておこう。ポイントは、おもに、つぎの五つである。
- 邪馬台国の時代は、「弥生時代」ではなく、「西新式時代」である。
かつて、「弥生時代」という時代は、存在したかった。1917年(大正6年)までの時代区分
では、最初に石器時代があり、そのあとすぐ、古墳時代が続くと考えられていた。
中山平次郎氏や森本六爾氏によって、「弥生時代」が、あらたに設定されることによって、明確
た特徴をもつ「弥生時代」がうかびあがってきた。
今日、「邪馬台国時代」を、「弥生時代」にいれる見解と、「古墳時代」にいれる見解とが、対立
しているが、「弥生時代」と「古墳時代」とのあいだに、邪馬台国の時代として、「西新式土器」
の時代約100年を設定すると、事態は、鮮明となる。「西新式時代」は、ひとつの明確な特徴をも
っている。
すなわち、つぎの二つを区分する。
区分 | 特徴 | 中心地 |
弥生甕棺文化の時代 |
奴国を倭の盟主とする時代であり、「甕棺」の時代である。青銅器
の武器をつかう。 |
福岡平野 北九州沿岸地域 |
西新式土器をもつ箱式石棺文化の時代 |
邪馬台国を倭の盟主とする時代であり、「箱式石
棺」の時代である。西新式土器が用いられる。青銅の武器は、つかわれなくなる。武器は、鉄製
のもののみとなる。「長宜子孫」銘内行花文鏡と、小形傍製鏡第U型が用いられるようになる。
| 筑後川流域 |
- 博多湾沿岸国家であった「奴国」は、筑後川流域に勃興した「邪馬台国」によって滅ぽされた。
「奴国」は、後漢王朝のバック・アップをうけ、「邪馬台国」は、新興の魏王朝のバック・アップをうけた。
弥生時代の後期ごろに、甕棺墓は、激減する。福岡平野および近隣地域では、墓そのものが激減
する。
- 「西新式文化」の内容は、そのまえの、「甕棺−銅利器」の時代よりも、むしろ、つぎの古墳
時代と共通するところが多い。ただ、古墳時代には、中心となる場所が、北九州から、畿内にう
つっている。これは、「邪馬台国の東遷」によって説明できる。
- 纏向(まきむく)古墳群の年代を、3世紀にくりあげる見解がしぱしぱみられるが、そのような見解は、土器や鏡による編年と合致していない。
纏向古墳群はほぽ4世紀以後のものとみられる。纏向遺跡は、崇神天皇のころの大神(おおみわ)神社信仰や、『古事記』『日本書紀』の伝える四世紀の、垂仁天皇の「纏向の珠城(たまき)の宮」や、景行天皇の「纏向の日代(ひしろ)の宮」とむすびつくところの多い遺跡であろう。
- すでに、中山平次郎氏がのべているように、奴国と邪馬台国との争いこそ、『魏志倭人伝』の
伝える「倭国の大乱」の実態である。
以上のような「仮説」によってこそ、古代の諸事実は、整合的に説明でき、私たちは、古代を、鮮
明な形で把握できると信ずる。