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倭の五王の謎 |
邪馬台国から約150年、謎の世紀、空白の古代
史の沈黙を破り、突如として中国の歴史書に
姿を現わす五人の王、讃・珍・済・興・武。
彼等は一体、誰なのか。そして、何をしよう としたのか。 貴重で乏しい史料を使いながら、 著者独自の数理文献学、計量言語学の手法に よってデータを弾き出し、その実像に迫る、 東アジア史に新たな視点を投げ掛ける一冊。 |
本書「プロローグ −五世紀の闇を照射する− 」より 1 |
歴史は、小説ではない。歴史家が、勝手に歴史を構築するものではない。
まず、歴史家をはなれて、客観的に、事件や事象が存在していたという前提にたつ。 歴史家は、残された諸種の資料を用いて、その事件や事象を復元する。 ところが、個人にも、思いだしたくない事件があるように、民族にも、思いだしたくない 事件がある。 太平洋戦争は、侵略戦争であった、とされる。そのため、古代にも、太平洋戦争と同じよ うな侵略戦争があったというような史実は、太平洋戦争のあとでは、語るのにためらいをと もなうこととなった。 このような事情のため、西暦400年前後に行われた大規模な対外出兵について、正面か らとりあげられることは、第二次大戦後においては、ほとんどなかった。 が、西暦400年前後は、日本がひきおこした極東アジアの大動乱の時代であった。 万をこえる倭(日本)の軍隊が、朝鮮半島の奥地にまで侵入し、かささぎの群れ飛ぶ朝鮮 の野山で、戦いをくりひろげ、屍が地をおおった。 そのことは、朝鮮側の史料「広開土王の碑文」に記されている。 また、それを裏づける記事が、わが国の『古事記』『日本書紀』『風土記』『万葉集』などの 奈良時代文献や、朝鮮側の史書『三国史記』『三国遺事』、さらに中国側の史書『宋書』な どにみえる。 この本のなかでくわしく紹介するが、「広開土王の碑文」によれば、「倭人は、新羅の国境 に満ち」ていた。 西暦400年、高句麗第19代の王、広開土王は、軍令を発し、歩騎五万を派遣して、新 羅を救った。 高句麗軍が、新羅の国城にいたると、倭がそのなかに満ちあふれていた。 高句麗軍がいたると、倭賊は、退却した。 しかし、その4年ののちの404年に、「倭は不軌(無軌道)にも、帯方界(もと帯方郡の あった地域)」に侵入した。 帯方界といえば、現在の京城から、その北のあたりをさす。倭は、朝鮮半島の、そうとう 奥地にまで侵入しているのである。 さらに、407年、広開土王は、「軍令を下し、歩騎五万を派遣して」、「合戦して、残らず 斬り殺し、獲るところの鎧ナ(よろいかぶと)は、一万余領であった。持ち帰った軍資や器 械は、数えることができないほどであった。」 朝鮮に侵入した倭は、正規の高句麗軍五万と、くりかえし戦う力をもつ、万を越える大軍 であった。 このときの、倭(日本)がわの主役は、だれであったのであろうか。 |
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私は、いわゆる「邪馬台国東遷説」の立場にたつ。 私は、邪馬台国は、北九州にあったと考える。 卑弥呼は、西暦250年前後に没する。 西暦280年〜290年ごろに、邪馬台国の後継勢力が、畿内にはいり、大和朝廷をうち たてた、と私は考える。 西暦300年〜400年の4世紀には、大和朝廷の力は、日本列島の広い範囲に伸張する。 畿内を中心とする前方後円墳の各地への波及は、そのような史実を反映していると考える。 この本のなかで、ややくわしく展開するが、天皇の平均在位年数約十年の年代論によれば、 西暦400年前後の、大和朝廷の主役は、神功皇后とよばれる女性であった。 そして、『古事記』『日本書紀』をはじめとする諸文献は、、この神功皇后が、朝鮮半島に、 大規模な出兵を行ったと伝えている。 外国文献と、日本文献との記事内容の一致から、私は、神功皇后伝承には、史実の核があ ると考える。第二次大戦後の何人かの史家の説くような、神功皇后=架空の人物説を、私は とらない。 戦後の多くの史家が、避けてふれない史実を、私はあえて発掘し、復元しようとする。 わが国の長い歴史上、大規模な対外出兵はおよそ三度行われた。すなわち、つぎのとおりである。
心の痛みをともなわずに、これらの史実を語ることはできない。 しかし、古代の史実を正確に把握するためにば、西暦400年前後の、朝鮮半島出兵の経 過を、明確に認識しなければならない。 それを避けて通れば、古代を、あいまいな霧のなかに放置することとなる。 知が、痛みをともなうのは、歴史学という人間にかかわる学問の宿命である。 |
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五世紀は、戦乱にはじまる。
そしてまた、中国の史書『宋書』『梁書』などによれば、5世紀には、倭(日本に、5 人の王がいたという。「倭の五王」とよばれる。 5人の王の名は、讃、珍、済、興、武である。 「倭の五王」の問題は、「邪馬台国」問題につぐ、日本古代史上の大きな謎である。 「倭の五王」の問題は、大きぐ、次の二つに分けられる。
今から、30年ほど前、鬼才、前田直典氏は、「倭の五王」の研究史上はじめて、「倭王讃=応神天皇」説をとなえた。 前田直典氏は、30代前半で、夭折した。前田氏は、井上光貞氏や直木孝次郎氏など、現代の代表的歴史家と、ほぼ同世代の人であった。生きながらえていたならば、現代を代表する東洋史家となったであろうにと惜しまれる。 前田氏は、日本古代史の、5世紀の暗闇を見た。そして、前田氏の英知は、その暗闇に、 光を投げかけ、一瞬確かな形象を浮きあがらせた。しかし、その後、前田氏の説を受けつぎ、 発展させる人もいないまま、日本の5世紀は、ふたたび、霧におおわれはじめた。5世紀を めぐって行われた多くの論争は、霧と闇とを、かえって濃くしたかのようにさえ思える。 私は、前田直典氏の「倭王讃=応神天皇」説を、受けつぐものである。 昭和53年(1978)に、5世紀の闇を照らす、閃光がひらめいた。稲荷山古墳出土 の鉄刀銘文の発見である。 この発見は、雄略天皇の存在についての確かな証拠を提供している。しかし、稲荷山古墳 出土の鉄刀銘文については、言語学的に、確実な証拠のある議論が、意外に少なかった。そ のため、獲加多支歯大王を雄略天皇とする議論さえ、確証を欠くとする見解が見られる。 私は、この本の中で、数理文献学や、計量言語学の方法により、この鉄刀銘文は、大和朝 廷の文化のなかで記されたものであること、獲加多支歯大王は、雄略天皇であること、など についての、ほぼ確実な根拠を提供しようと思う。真実は、意外に、平凡なところにある。 話として面白い説が、かならずしも、多くの妥当性をもつわけではない。 倭王讃を応神天皇とし、倭王武を雄略天皇とするとき、倭の五王についての闇は消えてい く。5世紀の舞台は、照明のなかにあり、主人公である五王たちの動きは、観客の眼の前にある。 そして、倭王讃を応神天皇とするとき、その母の神功皇后の名によって伝えられる日本の 新羅進出は、西暦400年前後の史実にもとづく可能性があらわれてくる。 多くの材料は、出そろってきている。あとは、それを統合し、有機的に関係づける作業のみが必要なのである。前田直典氏が、かつてかいま見たものを、私たちは、今、ありありと、 正面から見る機会にめぐまれている。 |
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