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本書「エピローグ」より抜粋
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新説!日本人と日本語の起源

日本人と日本語の起源
最新のデータを駆使して、史上最大の謎に挑戦!

言語を有していた可能性のある秩父原人の言葉が、
日本語の起源なのだろうか?
     


本書「エピローグ」より抜粋
日本人と日本語の起源についての仮説のまとめ

第一章



最近、大都市の電車内や街なかなどで、つぎのような光景に、よく出会う。

  1. みたところ日本人と変わらない容貌、服装をした人たちが、日本人には全く理解できない言葉で、大声で話している。このような人たちは、中国か東南アジアなどから来た人たちであろう。

  2. 金髪碧眼、長身の、一見して白人とわかる人が、日本人と区別がつかないほどの、流暢な日本語を話している。
このどちらの場合も、私たちは「日本人」とは、異質なものを感じとる。

私たちが、「日本人」なるものを考えるとき、おもに、「ことば」という文化的側面と、「からだ」という遺伝的側面との二つを考えていることが多い。

このうち、「からだ」のほうは、皮膚の色、頭髪、身長、頭の形、血液型などの生物学的特徴を考える。

これまでの日本人起源論は、「ことば」か、「からだ」かの、どちらかを主にしているものが、ほとんでであった。

しかし、日本人の起源を考える場合は、「ことば」に関する諸事実も、「からだ」に関する諸事実も、ともにうまく説明できる仮説を考えなければならない。
この本では、「ことば」に関する諸事実と「からだ」に関する諸事実とを、総合的に考えようとした。
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第二章


アメリカの英語は、もちろん、イギリスから来たものである。

しかし、2億7400万人をこえるアメリカの人口は、イギリスの人口約5900万人の約4.6倍である(1998年度の人口統計)。

アメリカの建国者たちはイギリスから来たが、人口の大部分がイギリスから来た、とはいいがたい。イギリスがからっぽになったわけではないから。

国が豊かになれば、いろいろなところから人が流れこみ、また、繁殖によって、人口は急激にふえるのである。

アメリカのような場合、アメリカの英語はどこから来たかという議論は成立しえても、アメリカ人はどこから来たかという議論は、正確には成立しにくい。

日本の場合も、古代人がどこかある地域から、もとの地域がからになるほど、大量に流れこんできたとみるのは、正しくないようである。

おもに、北九州方面の人口が急激にふえその人々が、やがて、そして、しだいに、日本列島全体をおおっていったとみるのが、遺伝人類学の成果からも、計量言語学の成果からも正しいようである。

人口増をささえたのは、水田稲作技術を主体とする長江下流域から来た文化である。その文化は、租税をとり、国家というシステムを作る力をもっていた。

「魏志倭人伝」の記すように、倭人の身分の高い人たちは、四、五人の妻をめとるのは、ふつうのことであった。

「古事記」「日本書紀」を読めば、天皇家を中心とする人々は、多くの妻をめとっている。一夫一婦制などではなかった。

この方法により、倭人たちは、遺伝子と言語とを、急激にふやすことが可能になったとみられる

国家権力につながる人々は、食にめぐまれ、子孫をふやす機会にめぐまれた。
国家権力の外にいる人々は、北九州起源の国家におかされ、おされ、食うや食わずの状態になったり、子孫を残す機会をうばわれがちになった。

西から東へ、国家の版図は、しだいにより大きくなり、権力もまた巨大化していった。
「古事記」「日本書紀」も、大和朝廷の祖先が、「九州方面から来たという伝承をもっていた。

日本祖語(倭人語)は、その初現において、「環日本海人」の一支流の北九州および南朝鮮の人々の言語が、中国の長江流域の文化と言語との衝撃をうけて成立したとみられる。

日本祖語は、比較的少数の人たちの言語であったであろう。

その意味では、日本祖語の成立時期は二千数百年前といえる。

約2000年まえの弥生時代、北九州に存在した日本祖語は、おそらく、数万ないし数十万ていどの人々が用いている言語にすぎなかったのであろう。

その言語をつかう人々が、北九州に成立した邪馬台国の母胎となった。

邪馬台国の後継勢力が東遷して、大和朝廷となり、大和朝廷の政治的発展により、日本語を使用する人口が、急激に増大していった。

ロシアが、地つづきで、広大なシベリアを植民地化していったように、大和朝廷の原勢力は、日本列島を植民地化していった。

7世紀の奈良時代の日本の人口は、600万人から700万人といわれる。
これは、1500年ころの全世界での英語の使用人口約500万人よりも多い。英語は、ここ500年ほどのあいだに、使用人口がおよそ50倍になった。植民地政策による。

奈良時代には、「古事記」「日本書紀」「万葉集」なども成立し、「日本人」という意識もそうとう明確になっていたとみられる。そして、日本語はついには、現在みられるように1億2000万人をこえる人々によって用いられる大言語になった。

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第三章


この本で述べている仮説を、いま一度まとめればつぎのようになる。

1.

太古、日本海をとりまくように分布する環日本海人とでも呼ぶべき人たちがいた。
環日本海人は、ユーラシア大陸の東北部におしだされともいえるし、日本海のまわりに避難してきたともいえる。

環日本海人は、私たち日本人の母胎である。

現代日本人は、遺伝的な諸特徴を、おもに環日本海人からうけついでいる。
「私は、本を、読む。」などの、日本語の語順など、日本語の骨格をなす文法的・音韻的特徴なども、環日本海語からうけついだとみられる。

2.

日本海の北回りで大陸とつながるような環日本海人の子孫が、縄文時代人の大多数であり、さらにその主なる子孫がアイヌとみられる。
(原人や旧人、さらには細石刃使用の人々も、北回りで大陸とつながることが多かったようにみえる。)

3.

日本海の南回りで、大陸とつながるような環日本海人が、縄文時代も南朝鮮、対馬、壱岐、北九州などにいた。
この人たちが、長江下流からの水田稲作や文化などを積極的にとりいれ「弥生文化」を成立させた。

長江下流域から来た人たちは、人口的にはそれほど大きくなかったが、文化や、「租税制度」という概念をもつ政治的な先進性のゆえに、一時期、政治的な力を持っていた可能性がある。
「国」づくりを行った可能性がある。

水田稲作、弥生文化、長江下流域の言語からの語彙的影響などは、時期的にみて重なりあうことがらのようにみえる

4.

日本祖語の成立地域のうち北九州を中心とする地域に、のちの三世紀ごろ邪馬台国が成立した。

邪馬台国勢力は、出雲地方に、南九州に、そして近畿へと勢力を伸張させた。

やがて、邪馬台国後継勢力が、畿内(大和)に大和朝廷をたてた(邪馬台国東遷説)。

大和朝廷は、さらに東へと勢力を伸ばしつづけ、ついには、日本列島全体を日本語化した。

なお、東京大学の言語学者、服部四郎氏は、その著「日本語の系統」(岩波書店、1959年刊)のなかで、すでにつぎのようにのべている。

「日本祖語は紀元前後に北九州で栄えた「弥生文化」の言語ではないか。
そして、紀元後二、三世紀のころ。北九州から大和や琉球へかなり大きな住民移動があったのではないか。」

5.

朝鮮半島南部にいた日本祖語を用いた人たちは、562年の任那の滅亡、663年の、「白村江の戦い」での敗北などをへて結局、海の外へとおいだされた。

朝鮮半島は、新羅による統一などで朝鮮化された。


以上のような仮説は、人や稲についての遺伝的な成果や、計量言語学的な成果などを、無理なく説明しうる仮説であるように思われる。
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