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第231回 魏志倭人伝を読む その2

 

 1.魏志倭人伝を読む

■ 『三国志』は信頼できる歴史書か

『三国志』は280ー285年ごろに、陳寿(ちんじゅ)が書いた歴史書である。このような古い時代の歴史書の記述は信頼できるのだろうか、と言われることがある。

古代の中国は日本に比べ遥かに進んだ文明国であった。 歴史書『春秋』が編集されたのが紀元前480年、司馬遷が『史記』を著したのが紀元前91年である。

3世紀に編まれた『三国志』はりっぱな史書であり、その記述は信頼できるものである。

■ 『三国志演義』

元の時代の末か、明の始めに羅貫中(らかんちゅう)が、陳寿の『三国志』をもとに、『三国志演義』を書いた。

これは一種の講談本のようなもので、フィクションも多くある。

日本でも、横山光輝の劇画や吉川英治の小説は『三国志演義』の方をもとにしている。

■ 魏志倭人伝の構成

『魏志倭人伝』はつぎのような3章できちんと構成されている。
  1. 倭の国々
  2. 倭の風俗
  3. 政治と外交
■ 帯方郡の歴史

『魏志倭人伝』の冒頭に、「倭人は帯方(郡)の東南の大海のなかにある」と記述されている。帯方郡は、朝鮮半島のつぎのような歴史のなかで成立し滅んでいった。

  • 漢の武帝は、燕国からの亡命者の衛満(えいまん)が朝鮮北部に建国した衛氏朝鮮を滅ぼし、前108年に楽浪郡、真番郡、臨屯郡、玄菟郡の四つの郡を設置して郡県統治を行った。(上図)

  • 前82年には真番、臨屯が廃止され、その一部が、玄菟、楽浪の二 郡に吸収された。

  • 前75年には玄菟郡が、中国側の遼東郡に吸収された。前1世紀の中ごろには高句麗が 建国された。

  • 190年に公孫度(こうそんたく)が南満州に独立し、その子の公孫康は、205年 ごろ、楽浪郡を分けて、北を楽浪郡、南を帯方郡とした。

  • 238年、司馬仲達は公孫度の子、公孫淵を滅ぼし、魏は楽浪、帯方の二郡を接収し た。
■ 帯方郡と卑弥呼

『魏志韓伝』に、帯方郡と倭の関係について次のような記述がある。

建安中、公孫康、屯有県以南の荒地を分かちて帯方郡と為し、公孫模・張敞等を遣わして(漢の)遺民を収集せしめ、兵を興して韓・(わい)を伐つ。旧民(韓より)稍出ず。是の後、倭・韓は遂に帯方に属す。

倭が帯方郡に属していたとすると、卑弥呼は帯方郡の公孫氏に使者を出していたのではないか。

卑弥呼が帯方郡の傘下に属していたとすれば、238年に公孫氏が滅ぼされてしまったので、急遽、魏に使いを出したと考えられる。魏への使いを出した年が238年か239年かの議論にも関係しそうである。


 2.最近の話題 「遣唐使の墓誌発見」

■ 墓誌発見の新聞記事

2004年10月11日の『朝日新聞』は唐の都・長安(現在の西安)で、8世紀前半に 遣唐使として派遣された日本人留学生の墓誌が発見されたと報道した。

記事によると、この墓誌は、阿倍仲麻呂と同期に留学した中国名:井真成(せいしんせい)のものであり、現存の実物資料としては国 号「日本」が使用された最古の例となる。

井真成は死後に玄宗皇帝から「尚衣奉御」という従五品上の役職を贈られたが、阿倍仲麻呂もこの時期に従五品下に昇格しているので 、二人はほぼ同じ程度の出世であり、似たコースを歩んでいた可能性が強い。阿倍仲麻呂はその後安南節度使(ベトナム地方の長官) にまで昇進した。

■ 気賀澤保規明治大学教授(中国史)による墓誌の抄訳

姓は井、字(あざな)は真成、国は日本と号す。生まれつき優秀で、国命で遠くに やってきて、一生懸命努力した。学問を修め、正式な官僚として朝廷に仕え、活躍ぶり は抜きんでていた。

ところが思わぬことに、急に病気になり開元22年(734年)の1月に官舎で 亡くなった。36歳だった。

皇帝は大変残念に思い、特別な扱いで埋葬することにした。体はこの地に埋葬されたが、魂は故郷に帰るにちがいない



■ 中国古代の墓誌

有力者が亡くなると、名前や先祖、役職や家族などの情報を石に刻み墓に収めた。 北魏の5世紀後半に始まり、盛んに作られた唐時代のものは約6500個発見されて いる。大きさはおおむね80センチ四方から40センチ四方。

■ 最古の「日本」表記

「日本」という呼び名は7世紀から使われたとされ、大宝律令(701年)には「国号 は日本を使う」との条項がある。 しかし、今まで最古とされるものは、天平18年(746年)の年号がある役人の報告 書で、「『日本帝記』という本を書写した」と記されたものであった。

今回の発見で、734年に没した井真成の墓誌に「国号日本」と刻まれていたことから、これが最古の「日本」表記ということになる。

■ 「井真成」とは何者か

2005年2月5日の『朝日新聞』は、井真成の墓誌を巡り日中両国の専門家による研 究検討会の結果を伝えた。このなかで「井真成」の日本名について以下のようにいくつかの仮説 が提示された。

  1. 井上氏とする鈴木靖民・国学院大学教授(日本古代史)の説

    日本名を中国語で表記する時、ほとんどの場合、姓は日本名の一字目を使うとして、「井」で始まる奈良時代の姓を分析し、渡来系の 「井上」氏がふさわしいとする。井上氏は、忌寸(いみき)という渡来系に多い姓(かばね)を与えられ、遣唐使など外交官の任務に つくものが多く出ている。

  2. 葛井(ふじい)氏とする東野治之・奈良大学教授(日本古代史)の説

    「葛井」氏は、対外交渉の任に着いた人物を多く輩出し、当時の対外交渉の中で大きな役割を果たしており、一族には外交官の「広成 」や、万葉歌人の「大成」などの有名人もいる。「井真成」は、渡来系氏族が多く住む藤井寺市を本拠として対外交渉で活躍する「葛 井」氏の出ではないかとする。

    元北海道大教授の佐伯有清も次のようなことを述べ「葛井氏」ではないかとする。

    「葛井」の姓を中国で「井」と名乗ったことについては、遣唐船師佐伯金成の従者の 「井替(せいきゅうたい)」の例がある。

    「葛井」の姓は、720年に「白猪(しらい)」から変わった新しい姓で、「井真成」が渡航したときには存在しなかったとする主張に対して、天平4年(732年)の遣唐使によって、「井真成」が34歳のときに中国で知らされた。その結果、墓誌に「井」と表記されたのであろう。

  3. 中国の姓から選んだとする中国の王維坤教授の説

    小野妹子が蘇因高、阿倍仲麻呂が朝衡と名乗ったように、日本名と無関係の改名が多かったと指摘。 「井」は中国で古くからある姓で、西安がある陜西省に多い姓であるとした。
■ 安本先生の見解
  • 井真成が中国へ渡った時期

    霊亀二年(716年)に派遣されたと考えると、井真成が18歳で中国へ行ったことになるので、36歳で死去したことと話が合う。

  • 「井真成」の出自

    宝賀寿男の『古代氏族系譜集成・下巻』(出典は鈴木真年『百家系図稿』)に葛井氏の系図が記載されている。この系図は元の文献に当たるなどして注意深くみる必要があるが、この系図に記載されている次の内容は『続日本紀』の記述と一致しており、ある程度信頼して良い。

    • 「葛井」の姓は、もとは「白猪」であった。
    • 「葛井」は、百済の辰斯王の子孫である。

    この葛井氏の系図には、728年に従5位下になった「大成」、731年に外従5位下になった「広成」、さらに「乙成」という末弟が記載されている。

    「成」の文字を共通にすることから「真成」はこの「大成」「広成」兄弟の弟であったと考えられる。外交関係に人材を輩出した家柄や、「真成」が活躍した年代と一致することなどもこれを裏付ける。



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