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第230回 魏志倭人伝を読む その1
       神武天皇の東征経路 その3

 

 1.魏志倭人伝のテキスト

■ テキストの変遷

現在、私達が見る『三国志』のテキストが成立するまでには、およそ次のような変遷を経ている。
  1. 陳寿により撰述されてから以後、約130年間の写本の時期。 この時期の『呉志』の写本の一部が敦煌などから出土している。現在のものと異なる箇所があ る。

  2. 南朝の宋の裴松之(はいしょうし)が注をつけた裴注本の成立(479年)以降 約570年間の写本の時期。裴注本が好評だったので、その他のテキストは駆逐されてしまった。

  3. 北宋の咸平年間(1003年頃)に、初めて木版印刷された国子監本(北宋咸平 刊本)の発行から、今日に至るまでの諸本の刊行期。しかし北宋咸平本は現在残っていない。現存するのは、南宋以後のもの。
講演中の安本先生 ■ 紹興本と紹熙本(慶元本)

『魏志倭人伝』を含む『三国志』のテキストとしては、紹興本と紹熙本の二つがよく知られている。
  • 紹興本

    南宋の初期の、平安時代末期にあたる紹興年間(1131〜62)に刊行されたもので、 「倭人伝」を含む刊本としては現存最古。

  • 慶元本(いわゆる紹熙本)

    南宋の紹熙年間(1190〜94)に刊行されたとしばしばいわれているテキストで、「倭人伝」の部分は、中華民国の学者張元済が百納本二十四史を編纂したときに、宮内庁書陵部に存在するものを写真印刷した。

    南宋中期の建安で印刷された坊刻本(民間で刊行された本)だが、紹熙年間に刊刻された根拠は存在せず、慶元年間(1195〜1200)の刊本が存在するだけなので慶元本と呼ぶのが妥当である。俗字や略字が多くテキストとして余り良いものではない。
■ 紹興本と慶元本のちがい

『魏志倭人伝』に関する限り、紹興本と慶元本の違いは下表の程度で、差異は少ない。下表のうち、1と7は「紹興本」が正しく、2と5は「慶元本」が正しいとみられる。その他は判断しがたい。

NO紹興本慶元本
対馬国対海国
自女三国以北自女王国以北
其戸数道里可略載其戸数道里可得略載
都支国郡支国
其木有豫樟其木有杼豫樟
重者滅其門戸及宗族重者没其門戸及宗族
検察諸国諸国畏憚之検察諸国畏憚之
下戸與大人相遥下戸與大人相逢

このようにみていくと、ある一つの系統の刊本だけが正しくて、それと一致しない他の 系統の刊本の文字がすべて誤りである、というようなことは主張できない。 いくつかのテキストを照らし合わせて、もっとも妥当とみなされるものをえらぶ以外に方法がない。

■ 現代のテキスト

現在、『三国志』原本の代表的テキストには次のようなものがある。
  1. 標点本『三国志』
    現在における標準的なテキスト。現代の中国人学者たちが判断した標準的な区切り方がわかる。

  2. 百納本『三国志』
    清国から中華民国時代の学者、張元済が宮内庁の版本などいくつかの資料を集め写真にとってまとめたもの。

  3. 『三国志集解』
    清の考証家、盧弼(ろひつ)の撰による。諸本の差異をくわしく記しているのが特徴。

  4. 『和刻本正史 三国志』
    日本の出版社から出されている。容易に手に入れることができる。
■ 成立年代

『三国志』は晋の史官陳寿によって執筆され、太康年間(280〜289)に成立したと考えられている。『晋書』「陳寿伝」には成立年代が明記されていないが、『華陽国志』によれば、呉が平定された後のこととされる。たしかに『呉志』には280年の呉の滅亡記事がある。しかし、『魏志』の成立はもっと前という説もある。

■ 『魏志』と『魏略』の関係

『魏志』と『魏略』の記述は大変似ている。この二つの文献の関係については従来から次の三つの説がある。

  1. 『魏志』は『魏略』に全面的に依拠したものとする説

  2. 『魏志』は『魏略』に依るが、それ以外の新資料により修正・補訂を行ったとする説

  3. 『魏志』と『魏略』の両書とも、共通の資料とくに魏朝の対外記事に依ったものとする説
■ 卑弥呼の朝貢は景初二年or三年

翰苑や日本書紀などの諸資料での記述は以下の通り。
資料記述
翰苑景初三年
日本書紀景初三年
紹興本景初二年
宮内庁書陵部本景初二年



卑弥呼の朝貢は、景初三年(294年)の方が正しいと思われる。景初二年は、朝鮮半島の公孫氏が、まだ、魏と戦っていた時期であり、公孫氏が滅亡した景初三年に、卑弥呼が魏に使いを出したとするほうが自然である。


 2.「朱」と神武東征伝承

■ 神武天皇の進軍経路

熊野から奈良方面に向かう神武天皇の経路を『古事記』は次のように描く。
  1. 熊野から八咫烏について進み、吉野川の下流の阿陀に至った。 ここで鵜飼の祖先で国つ神の贄持(にえもつ)の子と出会う。

  2. 更に少し進むと、井戸の中から吉野の首(おびと)の祖で国つ神の井氷鹿(ゐひか)が現れた。

  3. そこから吉野の山に入ると、尾の生えた人にあった。吉野の国巣の祖で国つ神の石押分(いわおしわく)の子である。

  4. さらに、山坂道を穿ちこえて宇陀に行った。ここを、宇陀の穿(奈良県宇陀郡菟田野町宇賀志)という。
『日本書紀』には少し異なる記述がある。奈良方面への進軍経路を『古事記』『日本書紀』で比較すると、

資料記述
古事記熊野 → 吉野川の川尻、阿陀 → 吉野(井氷鹿) → 国巣 →宇陀の穿
日本書紀紹熊野 → 宇陀の穿の邑 → 吉野(井光) → 国巣 →阿陀

『古事記』と『日本書紀』ではルートが逆になっている。

ポイントは「いひかひ」を「飯貝(いがい)」にするか「井光(いかり)」にするかで ある。

■ 「朱」との関係

『古事記』には、このあたりの伝承として、井光(いひか)という地名や、尾の生えた人が現れる。

これらの伝承は、次のように、古代に珍重された「朱(辰砂)」と関係があるとする説がある。
(松田寿男博士、市毛勲氏)

  • 井光
    水銀採掘抗の形容で、自然水銀が抗壁や底で光ることから付けられた地名。

  • 尾の生えた人
    腰に尻当を紐でぶらさげた水銀採鉱者のこと。
また、『古事記』には次のような話がある。

宇陀の穿で、兄宇迦斯(えうかし)弟宇迦斯(おとうかし)を平らげようとしたときに、反抗した兄宇迦斯を斬り散らし、そこを宇陀の血原(ちはら)といった。

血原という地名について、市毛勲氏は『新版 朱の考古学』のなかで次のように記す。

血原とは血のように赤い色の土地という意味で、おそらく、宇陀の地域には辰砂粒が散在していた時期があり、それは血が散った結果と理解され、血原の地名起源伝承を生んだものと考えられる。

■ 水銀鉱床と丹生神社の分布

水銀鉱床は大和、四国、九州に分布する。大和、四国の鉱床近辺に丹生神社が多い。

吉野川沿いに、丹生川上神社の上社、中社、下社があり、宇陀にも丹生神社がある。


 3.古代八母音について

会場のようす
語源的に、「あま(天、ama)」であった語の末尾に、「i」音がつき、「amai」 となり、この「mai」という二重母音が、乙類の「メ」の原形である。

語源的に、「かむ(神、kamu)」であった語の末尾に、「i」音がつき、「kamui」 となり、この「mui」という二重母音が、乙類「ミ」の原形である。

では、なぜ語尾にこのような「i」が付いたのだろうか?

■ 「準後置定冠詞イ」

体言または体言に準ずることばの後に付いて、とくに取り立てて強調するために用いられる「い」がある。このような指示強調の助詞と見られるものは、万葉集に次のような用例がある。
  1. 「母もれども」(ははが私を守っているけれど)
  2. 「紀の関守とどめてむかも」(紀伊の国の関の関守が、私をとどめてしまうだろう か)
  3. 「君し無くは」(あなたがいなければ)[「し」は強めの助詞]
このような指示強調の語が名詞の後ろに置かれる用例は、ルーマニア語や北方ゲルマン語にもあり、後置定冠詞とよばれる。

ヨーロッパ諸言語の定冠詞のほとんどすべては、発生的には指示代名詞から転化したものなので、上記の「い」を日本語における「準後置定冠詞イ」と呼ぶと、「準後置定冠詞イ」も、発生的には「指示代名詞イ」から来たと考えられる。

「指示代名詞イ」の用例には次のようなものがある。
  1. が作り仕へまつる大殿」(お前がお造り申しあげた大殿)『古事記』
  2. 「噫(あ)、入鹿・・・(い)が身命(いのち)、亦(また)殆(またあやふ)からずや」(ああ、入鹿・・・お前の生命は、あぶないものだぞ)『日本書紀』
日本語でも、「指示代名詞イ」から転化して「準後置定冠詞イ」が名詞の語尾に付くようになり、この「イ」と直前の音とが合成されて乙類の音になったのではないか。

「準後置定冠詞イ」が語尾に付いて、乙類の音を持つようになったとみられる名詞には、次のようなものがある。古代人の生活に密接で、特別な重要性をもち、使用頻度の比較的高い単語が多い。
  1. 古代人が、なんらかの尊敬をもっていたかと見られる語。
    「天(あめ)」「神(かみ)」
  2. 中国の原子論の五行説の五元素である、木、火、土、金、水
  3. 大きなもの
    「天(あめ)」「土(つち)」「海(うみ)」
  4. 天然自然
    「日(ひ)[甲類]」「月(つき)」「星(ほし)」「陰(かげ)」「雨(あめ)」 「風(かぜ)」
  5. 身体語
    「目(め)」「耳(みみ)[甲類]」「口(くち)」「毛(け)」「髪(かみ) [甲類]」「胸(むね)」「手(て)」「足(あし)」「爪(つめ)」「身(み)」 「乳(ち)」「血(ち)」
  6. 食物・植物
    「稲(いね)」「米(こめ)」「黍(きび)」「酒(さけ)」「種子(たね)」
  7. 用具
    「瓮(へ)」「笥(け)」「樋(ひ)」「船(ふね)」

  8. 「家(いえ)」「戸(へ)」
  9. その他
    「亀(かめ)」「占(け)」
■ 乙類の音の起源を「準後置定冠詞イ」以外に求める説
  1. 朝鮮語の主格助詞にも「i」がある。 渡来人の影響によって「i」がついたかもしれない。しかし日本語の「イ」は主格を表すとは限らない。

  2. 中国語の「これ」を意味する語の多くが「イ」か「シ」の音をもつ。
    • 「伊(これ)」「惟(これ)」-----「イ」
    • 「之(これ)」「此(これ)」「斯(これ)」「是(これ)」----「シ」
    そして、日本語でも「イ」や「シ」の形の指示代名詞があり、また、「イ」や「シ」 の形の、語をとくに強調するための助詞がある。 中国語の影響があるのかもしれない。

  3. アイヌ語にも「それが」「それを」を意味する「i」がある。 古代ではアイヌとの繋がりもあるので、言語の影響もあるのかもしれない。
安本先生は、結論としては、日本語の「準後置定冠詞イ」が、生活においてとくに重要ないくつかの語 につくようになったものと考えるのが、いちばん可能性がおおきいと述べる。

しかし、日本語のまわりの、朝鮮語、中国語、アイヌ語などのすべてが、意味的に近い 「i」という語をもっているから、複合的な要因が働いている可能性もあるとのこと。


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