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第245回 
倭の五王の時代  額田王の暗号

 

1.額田王(ぬかたのおおきみ)の暗号

万葉集には、読み方のわからない歌がある。その代表的なものが 『万葉集』の「巻第一」の「紀の温泉(ゆ)に(斉明天皇が)幸(いでま) せる時に、額田王の作る歌」と題する次の歌である。特に、初句と二句が、読み方も意味も難解であるとされている。

「莫囂円隣之大相七兄爪謁気 吾瀬子之 射立為兼吾可新何本」

鎌倉時代の万葉学者の仙覚(1203〜?)が『万葉集註釈』に、はじめてこの歌の読み方を次のように記して以降、多くの、学者や研究者が解読に取り組み、さまざまな解釈が試みられた。
「夕月の 仰ぎて問いし 吾が背子が い立たせるがね いつかあはむ」

武田祐吉の増訂『万葉集全註釈』(1956)は諸学者の33種の解釈をのせ、伊丹末男は『万葉集難訓考』で60種以上の解釈を集めている。だが、未だ定説というものがない

今回は、この難解な暗号の謎解きに挑戦した。

■ 額田王

額田王は斉明天皇から、天智天皇にかけて活躍した歌人であるが、年齢、出自ははっきり しない。

彼女の娘十市皇女は、大化四年(648)生まれの大友皇子の妃となっているから、十市の生まれたのも大化四年ごろと思われる。

かりに、額田王が白雉元年(650)に18才で十市を生んだとすると額田王は舒明五年(633)生まれということになり、この歌を読んだ頃の年は26歳と推定できる。

■解読のヒント

「莫囂円隣之大相七兄爪謁気 吾瀬子之 射立為兼吾可新何本」の、「吾瀬子之」を「わがせこが」とするのは問題はない。

  1. 「之」と「気」
    短歌は「5・7・5・7・7」の5句からなる。初句・二句にあたる「莫囂円隣之 大相七兄爪謁気」は12文字からなる。これはこの部分が一字一音で記されていることを示している。

    これを「莫囂円隣之」と「大相七兄爪謁気」のように5文字と7文字に分けてみると、それぞれの終わりの文字「之」と「気」は万葉集に多くの使用例がある。

    用例を分析すると、「之」は「し」と読まれることが最も多く、「の」がそれに続き、「が」と読まれる例が最も少ない。また、「気」は「け」と読まれている。

  2. 「莫囂円隣之」の解読

    「莫」は『万葉集』に例があり、「ない」「なかれ」という意味なので万葉仮名として「な」と読んでいる。

    「囂」は万葉仮名に例はないが、漢音は「ゴウ」「キヨウ」。漢字の意味は「かまびすしい」で、喧々囂々(けんけんごうごう)の熟語がある。「囂」と母音部が同じで語頭が濁らない「高」を、万葉集では「こ」と読む例があることから、「囂」は「ご」と読めるであろう。

    「円」は万葉集の例から「まど」か「ま」と読める。また、「隣」は「八十一隣之宮」を「くくりのみや」と読むように「り」と読まれている。

    これらのことから、「莫囂円隣之」は「なごまりし」と読め、「和やかな気持ちになった」という意味になる。

    面白いことに、この「莫囂円隣之」は、実は言葉遊びになっていて、漢文で読んでも「囂(うるさく)すること莫く、(静かな温泉で)まるく、之(彼)に隣す」のように同じような意味になる。

  3. 「大相七兄爪謁気」の解読

    この部分は、奈良時代の童謡(わざうた)などで、わりと行われていた言葉の順番を入れ替える言葉遊び(アナグラム)によって記されていると考えると解読できる。

    アナグラムとは文字をばらばらにして、組み合わせを変えるものである。『日本書紀』の斉明天皇紀や、『続日本紀』の孝謙天皇の記事に事例がある。たとえば、『続日本紀』の孝謙天皇条には、藤の木の根本に虫が彫りつけた次のような不思議な文字の話が記されている。

    「王大則并天下人此内任太平臣守昊命」

    天皇が、博士たちにこの16文字の解読を命じたところ、文字の順番を入れ替えて次のように読むべきだという結論になった。
    「臣、天下を守り、王の大いなる則并(のりあわ)す。内をこの人に任せば、昊命(こうめい)太平ならむ。」

    「大相七兄爪謁気」をアナグラムとしてみると、この中の「大」「兄」は、斉明天皇の行幸に同行した中大兄皇子を指すのではないか。

    「相」は「あう」で万葉集の例では、ただ会うということではなく男女の関係を持つ意味で使われている。
    「七」は「何回も」「数多く」の意味。
    「爪」はやはり『万葉集』の例から、「妻」の意味で、夫婦、恋人を表記と考えられる。
    「気」は「け」と読む。
    「謁」は万葉仮名の例が無いが、随・唐音で「謁」と同じ母音部をもつ「英」が、万葉集では「あ」と読まれていることから「謁」も「ア」と読める。この結果、「謁気」は「あけ」で「明ける」の意味であろう。

    「大相七兄爪」の部分のアナグラムをもとに戻すと「大兄七相爪」となり、「大兄、七たび妻に相う」と読むことができる。中大兄が何度も愛してくれたことをいいたかったのであろう。

    最後の「謁気」は、その期間が明けてという意味であろう。なお、「謁」は「湯」の誤記という説もある。 したがって「大相七兄爪謁気」の意味は、「中大兄皇子が何回も私を愛して下さった期間が終わって」となる。とりあえずここでは「あいあふそあけ」と読んでおくことにする。

  4. 「吾可新何本」の解読

    『古事記』の「雄略天皇紀」に、「赤猪子(あかいこ)」の伝承がある。雄略天皇が年若い赤猪子と言い交わしたまま、召すことを忘れてしまった。あるとき、長い年月、操を守って年老いてしまた赤猪子は雄略天皇の宮殿を訪れた。雄略天皇は、赤猪子を大変気の毒に思って次のような歌を詠んだ。ここに、「厳白檮が本」ということばが出てくる。

    『みもろの厳白檮(いつかし)が本(もと)、白檮(かし)が本(もと)、ゆゆしきかも、白檮原童女(かしはらおとめ)』

    この意味は、「御諸(みもろ)の神聖な樫の木、その樫の木は、神聖で近よりがたいよ。 その樫の木と同じように、三輪の社の樫原乙女は神聖で、タブーなので、近より がたいよ(どうも、あなたを抱くわけには行かないな)。」

    額田王の歌に現れる「吾可新何本」は「五可新何本」で「いつかしがもと」と読むのであろう。その意味は、上に見るように厳白檮(いつかし)とは、触れてはならない神聖な木ということである。

    そして、さらに踏み込んで考えると、「五可新何本」の真の意味は、孝徳天皇の皇后であり、中大兄皇子の同母の妹である間人皇女(はしひとのひめみこ)のことを指していると思われる。

    国文学者の吉永登氏が説くように、間人皇女と中大兄皇子の間には男女関係があったと考えられる。同母の妹と関係することはタブーでとされていたことから、触れてはならない間人皇女のことを神聖な樫の木にたとえたのだろう。
■解読結果

「莫囂円隣之 大相七兄爪謁気 吾瀬子之 射立為兼吾可新何本」は、
「なごまりし あひあふそあけ わがせこが いたたせりけむ いつかしがもと」
と読み、直訳すると、
「心のなごむことであった 何回も愛をかわすのが終わり わが君が  その木のそばにお立ちにになるであろう 神聖な樫の木」というような意味になる。

さらに深読みした解釈は
「心のなごむことであった 何回も愛をかわすのが終わり わが君は 触れてはならない女性(間人皇女)のところに帰っていったよ」というように理解できる。

額田王は、少し誇らしいようなさみしいような心情をあからさまに表現せずに、事情の分かった限られた人だけが理解できるようにこのような暗号にして歌を詠んだのだろう。

白雉4年(653年)中大兄皇子は孝徳天皇の反対を押し切って、できたばかりの難波宮を捨てて大和へ遷ってしまった。このとき、孝徳天皇の皇后である間人皇女も孝徳天皇を置き去りにして中大兄皇子に従った。。

これほど間人皇女と中大兄皇子は親密だったので、当時は、間人皇女と中大兄皇子の仲は知らないものはいなかったのであろう。タブーとされた同母妹と関係を持った中大兄皇子は、23年もの長い間即位しなかった。皇太子のまま政務を執っていた彼が、即位して天智天皇となったのは、間人皇后が亡くなってから3年後のことである。


2.倭の五王の時代

倭の五王の比定については、倭王武を雄略天皇とするのはほぼ定説だが、他の王についてはさまざまな説がある。

■倭の五王を各天皇へ比定

前回は、天皇の在位年数を平均10年強とする見方によって倭王讃が応神天皇であることを説明した。その他の王についても、中国文献の倭の五王関係の記事と、天皇の在位年数を平均10年強とする説とから下記のように、倭の五王と天皇を対応させることができる。
  1. 賛−−−応神天皇
  2. 珍−−−仁徳天皇
  3. 済−−−允恭天皇
  4. 興−−−安康天皇
  5. 武−−−雄略天皇

中国文献の倭の五王関係記事
番号西暦年中国年号記事文献
413年義熙9年この年、高句麗・倭国、および、西南夷の銅頭大師が、ともに方物を献じた。『晋書』「安帝紀」
396〜
418年
晋(東晋)の安帝のとき(396〜418在位)、倭王があった。使いを遣わして、朝貢した。
(晋の安帝のとき、倭王があった。)
『南史』「倭国伝」
(『梁書』「倭伝」)
421年永初2年(永初2年2月乙丑)、倭国は使いを遣わし、朝貢した。『南史』「宋本紀上」
421年永初2年高祖(南朝劉宋第1代武帝420〜422在位)の永初2年、詔していうには、「倭のが、万里はるばる貢をおさめた。遠誠のこころざしはよろしくあらわすべきで、除授を賜うであろう」と。『宋史』「倭国伝」
(『南史』「倭国伝」にほぼ同じ文がある)
425年元嘉2年太祖(第3代文帝424〜453)の元嘉2年、は、また、司馬曹達を遣わして、表をたてまつり、方物を献じた。『宋書』「倭国伝」
430年元嘉7年(元嘉7年春正月)この月、倭国王は、使いを遣わし方物を献じた。『宋書』「文帝紀」
430年元嘉7年この年・・・倭、百済、呵羅単、林邑、呵羅他、師子等の国が、ともに使いを遣わし、朝貢した。『南史』「宋本紀中」
が死んで弟のが立った。使いを遣わして貢献した。
みずから使持節・都督 倭 百済 新羅 任那 秦韓(辰韓)慕韓(馬韓)六国諸軍事・安東大将軍・倭国王と称し、上表して除正されるよう求めた。詔してともにゆるした。
『宋書』「倭国伝」
438年元嘉15年(元嘉15年4月)己巳。倭国王をもって安東将軍とした。・・・この年、武都王、河南国、高麗国、倭国、扶南国、林邑国等の国が、ともに使いを遣わして、朝貢した。『宋書』「文帝紀」
10438年元嘉15年この年、武都・河南・高麗・倭・扶南・林邑等の国が、ともに使いを遣わして、朝貢した。『南史』「宋本紀中」
11443年元嘉20年二十年。倭国王が使いを遣わして、奉献した。またもって、安東将軍・倭国王とした『宋書』「倭国伝」および、『南史』「倭国伝」
12443年元嘉20年この年、河西国・高麗国・百済国・倭国が、ともに、使いを遣わして、方物を献じた。(河西・高麗・百済・倭が、ともに使いを遣わし朝貢した)。『宋書』「文帝紀」
(『南史』「宋本紀中」)
13451年元嘉28年(倭王に)使持節・都督 倭 新羅 任那 加羅(任那の一国。または、任那と同一に用いられている場合もある)秦韓 慕韓六国諸軍事を加える。安東将軍はもとのとおり。ともにたてまつるところに23人を、軍郡に除した。『宋書』「倭国伝」(『南史』「倭国伝」にほぼ同じ文がある。ただし、『南史』は、「軍郡」を「職」と記している。)
14451年元嘉28年秋7月、甲辰。安東将軍、倭国王綏を安東大将軍に進号した(安東将軍、倭国王綏を安東大将軍とした)。とした『宋書』「文帝紀」
(『南史』「宋本紀中」)
15が死んだ。世子のが、使いを遣わして貢献した。『宋書』「倭国伝」および『南史』「倭国伝」
16460年大明4年(大明4年、12月丁未)倭国は、使いを遣わして、方物を献じた。『宋書』「孝武帝紀」および『南史』「宋本紀中」
17462年大明6年(大明6年3月)壬寅。倭国王世子をもって、安東将軍とした。(倭国王世子をもって、安東将軍・倭国王とした)。『宋書』「孝武帝紀」
(『南史』「宋本紀中」)
18462年大明6年世祖(第4代孝武帝454〜464在位)の大明6年、詔していうには、「倭王世子は、奕世(代々)すなわち忠。藩を外界になし、化をうけ、境をやすんじ、うやうやしく貢修を修め、新たに辺業をうけついだ。よろしく、爵号を授けるべきで、安東将軍・倭国王とせよ」と(詔して、に安東将軍・倭国王を授けた)。『宋書』「倭国伝」および『南史』「倭国伝」
19が死んで、弟のが立った。みずから使持節・都督 倭 百済 新羅 任那 加羅 秦韓 慕韓七国諸軍事・安東大将軍・倭国王と称した。『宋書』「倭国伝」および『南史』「倭国伝」
20477年昇明元年冬11月己酉。倭国が使いを遣わして、方物を献じた。『宋書』「順帝紀」
21478年昇明2年5月戌午。倭国王が使いを遣わし方物を献じた。をもって安東大将軍とした(倭国王をもって安東大将軍とした)。『宋書』「順帝紀」(『南史』「宋本紀下」)

■使持節(しじせつ)について

使持節の「節」とは、8尺(1.8m)の竹に、旄牛(ぼうぎゅう:からうし)の尾でつくった三重の房飾りをつけたもの。天子の使者のしるし。

節を授けられることによって次のような権限を持つと言われる。

使持節二千石以下を殺すことを得。つまり、軍の長官の「太守」をも、殺すことができる大きな権限を持つ。
持節官位なき人を殺し、若し軍事ならば使持節と同じきことを得。
仮節唯軍事にのみ軍令を犯す者を殺すことを得。

1949年、朝鮮の黄海北道安岳郡柳雪里で発見された安岳里三号墳の壁画に、半円形の毛房を上下三つ重ねてつけた、長い棒状のものが二カ所に描かれていた。

この古墳には下記のような被葬者を示す墨書銘があり、使持節の高官が葬られていることが明らかであることから、壁画の毛房のある棒状のものが節と考えられる。
「使持節、都督諸軍事、平東将軍、護撫夷校尉、楽浪□、昌黎・玄菟・帯方太守、都郷候。」

■都督(ととく)

倭王武は「使持節・都督 倭 新羅 任那 加羅 秦韓 慕韓 六国諸 軍事・安東将軍・倭王」に任命されている。

『日本書紀』は、都督を「かみ」と読んだり「おほみこともち」と読んでいる。「おほみこと」は天皇のことばを意味し、「おほみこともち」は勅命を奉じて任地にくだり、政務を執る官をさす。

都督を「かみ」と解釈すれば、倭王武は倭などの六カ国の「長官」という意味になる。

都督は、中国の三国時代には地方の軍事をつかさどり、ときには刺史を兼ねた。唐代は節度使に かわって民政もつかさどった。

日本では、考謙天皇時代の時代に道鏡が勢いを得たとき、藤原押勝(恵美押勝)がこれに対抗して、都督四畿内三関近江丹波播磨等国兵事使となった例がある。

■三角縁神獣鏡と「黄幢」と笠松模様

『魏志倭人伝』には魏の皇帝が、倭の難升米に「黄幢」を与えたことが記される。

奥野正男氏は、三角縁神獣鏡に現れる特徴的な「笠松」文様は、黄幢を描いたものであろうとのべる。

そして、中国鏡には見られないこの模様が、三角縁神獣鏡のみに存在することが、三角縁神獣鏡が国産であることの根拠になるとする。

三角縁神獣鏡の「笠松」模様と、安岳三号墳の壁画を見ると、「笠松」文様と「節」は似ているように見える。 「黄幢」と「節」は同じようなものではないだろうか。





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