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第248回 
欽明天皇と仏教の伝来   欽明天皇の陵

 

1.欽明天皇と仏教の伝来

■ 欽明天皇

武列天皇を継ぐ直系の天皇が存在しなかったため、応神天皇の五世の孫で、北陸にいた袁本杼(をほどの)命が、群臣の要請に従って即位し継体天皇となった。

継体天皇のあと、皇位は安閑天皇、宣化天皇によって引き継がれ、その後、欽明天皇が即位する。

安閑・宣化天皇は、継体天皇の北陸時代の女性の子であったため、応神天皇からの血筋が薄い。

それに対し、欽明天皇の母は仁賢天皇の娘の手白香(たしらかの)皇女であり、欽明天皇は天皇家の血の濃い血筋が良い天皇といえる。

■ 仏教伝来

6世紀に百済の聖明王より日本の朝廷に仏像や教典などが贈られた事実をもって仏教の公伝とする。

ただし、民間では、司馬達等(しばのたつと)の造寺伝説などによって公伝以前より、とくに渡来人の間で仏教信仰が行われていたことが知られる。

仏教公伝の年次については、『日本書紀』には欽明13年(552年)と記されている一方、『上宮聖徳法王帝説』や『元興寺縁起』では、欽明7年(538年)とされている。

『上宮聖徳法王帝説』や『元興寺縁起』は安閑・宣化を天皇と認めない立場で記されているようで、『日本書紀』とは年代感が異なっている。『上宮聖徳法王帝説』などの欽明7年(538年)は『日本書紀』では宣化3年にあたる。

『古事記』『日本書紀』などに記される継体天皇の没年に相違があり、仏教の伝来とも関連して、安閑・宣化天皇や欽明天皇の年代については、以下のようにさまざまな説がある。
  • 『日本書紀』
    継体天皇が531年に崩御、531年から534年まで空位。安閑天皇が534年に即位、宣化天皇が 536年に即位、欽明天皇が540年に即位としている。仏教伝来は欽明天皇13年(552年)とする。

  • 喜田貞吉説
    『日本書紀』にある安閑・宣化天皇の年代はそのまま認める。しかし欽明天皇が532年 から即位し、安閑・宣化朝と欽明朝の二つの王朝が並立で存在したとする説。仏教伝来は『上宮聖徳法王帝説』などが記す欽明7年(宣化3年)。

  • 平子鐸嶺(たくれい)説
    継体天皇崩御の年は『日本書紀』の531年ではなく『古事記』が丁未の年と記す527年とする。527年から安閑天皇、続けて宣化天皇が即位、532年に欽明天皇が即位したとする説。仏教伝来は欽明7年。

  • 沖森卓也説
    安閑・宣化は応神天皇の六世の孫になるため、天皇とは認められなかったとする。ただし、欽明天皇が幼かったため、実際の政治は安閑・宣化が行った可能性がある。
喜田や平子の説は、『上宮聖徳法王帝説』『元興寺伽藍縁起』の、欽明7年を538年とする記述をもとに考えられているが、『上宮聖徳法王帝説』などの著者が、『日本書紀』の内容を読んで書いたことも疑われる。

つまり、継体天皇が崩御したのが531年なので、安閑、宣化を認めないとする立場で、その次の年の532年に欽明天皇が即位したと記した可能性がある。

いずれにしても決め手がないので、本当のところはどうなのか判断が難しい。

■ 三角縁仏獣鏡

上記のように、公式に日本に仏教が伝えられたのは、552年または538年のこととされている。

しかし、それよりも100年以上古い4世紀ごろに築造された古墳から、仏像を鋳出した三角縁仏獣鏡とよぶ鏡が何面も出てくるのはなぜだろうか。(下表参照)

三角縁仏獣鏡は、中国では呉の時代と東晋時代に出土している。

しかし280年ごろの呉の時代のものが輸入された可能性は小さく、東晋時代のものが輸入されたと考えられる。

なぜなら、倭王武の上奏文に「道は百済を経て」と記されるように、中国の文物は百済経由で日本に渡来してきたとおもわれるが、朝鮮半島に仏教が伝わったのは、次のように4世紀後半である。

『三国史記』によると、東晋から百済に仏法が伝わったのは、384年であると記されている。また華北の前秦王の苻堅が高句麗に仏像と経文を伝えたのは372年であるとしている。

朝鮮半島に仏教が伝わる前に、仏像を鋳出した三角縁仏獣鏡が百済経由で日本に来ることは考えにくいと思われるからである。

また三角縁仏獣鏡がわが国で製作されたとすると、東晋の工人がわが国に来て製作した可能性が高い。工人はやはり百済経由で来たであろうから、百済に仏教が伝わるはるか前の呉の時代にきたとは考えにくい。年代としては4世紀後半ではないだろうか。

三角縁仏獣鏡 (画文帯仏獣鏡を含む)
出土地年代
獣文帯三角縁三仏三獣鏡岡山県一宮天神山1号墳天神山2号墳の築造時期が4世紀後半
獣文帯三角縁三仏三獣鏡奈良県新山古墳古墳は4世紀後半ごろの築造
櫛歯文帯三角縁三仏三獣鏡京都府寺戸大塚古墳後円部古墳は4世紀末から5世紀初期の築造
櫛歯文帯三角縁三仏三獣鏡京都府百々ケ池古墳古墳は5世紀前半の築造か
櫛歯文帯三角縁三仏三獣鏡京都府園部垣内古墳
四仏四獣画文帯仏獣鏡長野県御猿堂古墳古墳は6世紀中葉の築造
獣文帯三角縁四神四獣鏡群馬県赤城堂古墳
(古墳の年代は、大塚初重他編『日本古墳大字典』、『続日本古墳大字典』による。)

■ 三角縁神獣鏡と三角縁仏獣鏡

三角縁神獣鏡と三角縁仏獣鏡には次のような類似点がある。
  • 鉛の同位体比の調査データでは、三角縁神獣鏡と三角縁仏獣鏡とは、同じ分布で区別がつかない。
  • 三角縁仏獣鏡の出土地が、群馬県にまで広がっているのも、三角縁神獣鏡と同じ傾向である。
これらのことから、三角縁神獣鏡が作られた時期は、三角縁仏獣鏡とそれほど違わないと考えられる。

この三角縁物獣鏡について、次のような議論がされている。

中国社会科学院考古研究所の楊泓氏が、三角縁神獣鏡を魏の鏡とする直木孝次郎氏に、およそ、次のような内容の質問をしている。

日本の古墳からは、何枚も三角縁神獣鏡が出土している。中国の南方からは、仏像鳳(きほう)鏡や、画文帯仏獣鏡が出土している。また、江南では、銅鏡のほかに、陶磁器や銅の帯金具、その他の器物においても、仏像が装飾として幅広く使われている。
しかし、北方の魏の領域では、仏像を用いて装飾する銅鏡その他の器物は、まったく発見されていない。
かりに、三角縁神獣鏡を、中国北方の魏で、倭人のために特鋳によって製作したものであるとすると、三角縁仏獣鏡も魏で作ったことになるのか。
仏像を装飾に使う例は、南にはあるが、北にはないから、三角縁仏獣鏡は、北の方の製品とはとうてい考えられない。三角縁仏獣鏡にある仏像の起源は、どこにあることになるのか

これに対して、直木孝次郎氏は、次のように応えている。

三角縁仏獣鏡まで魏で作ったとは考えておりません。これはやはり楊先生のおっしゃるとおり江南地方で作られ、日本に舶載されたもの、というふうに考えております。
(『三角縁神獣鏡の謎』角川書店)

しかし、この直木孝次郎氏の回答は成立しない。

鉛の同位体比において、三角縁仏獣鏡と三角縁神獣鏡とは区別できない。三角縁仏獣鏡も三角縁神獣鏡も江南のデザインと銅が用いられている。

三角縁仏獣鏡が北方の魏の鏡でないのなら、三角縁神獣鏡も魏の鏡ではないことになる。

2.欽明天皇の陵

■ 見瀬丸山古墳の内部

1991年12月27日の朝日新聞に次のような内容の記事が掲載された。

「市民が知らずに奈良県橿原市五条町の見瀬丸山古墳の内部に入り込み、内部のようすや石棺などを撮影した。

このとき撮影したの写真から、玄室は明日香村の石舞台古墳の二倍もある巨大なもので、見瀬丸山古墳は欽明天皇の陵ではないか。」

しかし、現在、宮内庁は明日香村の梅山古墳を欽明天皇陵としている。欽明天皇陵はどちらであろうか。

■ 檜隈(ひのくま)と身狭(むさ)

見瀬丸山古墳は右図に示すように、「見瀬」または「軽」の地にある。「見瀬」は「身狭」がなまったものと言われる。

一方、欽明天皇の陵は『古事記』に記載がなく、『日本書紀』に「檜前の坂合(さかひ) の陵(みささぎ)に葬(はぶ)りまつる」と記されている。

『日本書紀』は「檜前」と「身狭」「軽」とをかなりきちんと書き分けているので、「檜前の坂合の陵」を「身狭」の地に求めるのは間違っていることになる。

■ 欽明天皇陵の特徴

『日本書紀』には、推古天皇28年(620年)十月の条に、欽明天皇陵について次のようないくつかの特徴を記している。
  • 陵に砂礫(さざれいし)を敷いたこと
  • 域外に土を積み上げて山を造ったこと。
  • 各氏に命じて大きな柱を土の山の上に建てさせたこと
推古天皇20年(612年)に欽明天皇の妃の堅塩媛(きたしひめ)を欽明天皇の陵に 改めて葬ったので、葺石で装飾したとみられる。

これらの特徴は、現在、欽明天皇の陵に指定されている、明日香村の梅山古墳の方と一致する。

たとえば、江戸時代に河村秀根・益根父子によってまとめられた『書記集解』(1785年成立)には、欽明天皇陵から、推古天皇の時代に建てさせた大柱が実際に出土したことが記録されている。


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