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第268回特別講演会 
三角縁神獣鏡は魏鏡か 新井宏先生


 

1.三角縁神獣鏡は魏鏡か                           新井宏先生

■ 三角縁神獣鏡と同笵鏡論の現状

10年ほど前までの研究の状況
  • 富岡謙蔵
    作り、文様、文様の意味などについて鑑識眼があり、鏡の分析に長けていた。
  • 浜田青陵
    鏡については、金属分析、文様、文献の三方面で研究することが重要だといった。
  • 梅原末治
    笵の崩れ、亀裂など、同笵鏡判定の根拠について基礎的なことを研究
  • 小林行雄
    古墳時代の骨格を示す。一つの型から5枚の同笵鏡を作ったとして、分布論を構築。
  • 森浩一・奥野正男
    中国から出ていないこと等から、三角縁神獣鏡は国産であると主張。
  • 王仲殊 
    中国の側からの研究で、魏鏡ではなく、呉の工人が日本に来て作ったとする。
  • 網干善教
    詳しい研究で、三角縁神獣鏡は同笵鏡ではなく、踏み返しによるコピー鏡とした。
  • 福永伸哉
    長方形鈕孔などが魏の領域の鏡と類似するとして魏鏡であることを主張。魏鏡論延命。
最近の研究の進展
  • 車崎正彦:(2000)
    舶載三角縁神獣鏡と製三角縁神獣鏡の連続性および魏晋鏡の技法変遷などから、製三角縁神獣鏡もすべて中国製とする学説を発表。
    王仲殊は、連続性こそ三角縁神獣鏡が日本製の証拠と直ちに反論。
  • 西川寿勝:(2000)
    卑弥呼に下賜された鏡は宝飾鏡であり、三角縁神獣鏡はそれを真似て楽浪で製作したもの。
  • 森博達 :(2000)
    銘文の韻律が拙劣さから魏朝の「特鋳説」を幻想だとして否定。
  • 柳田康雄:(2000)
    平原遺跡の公式報告書の中で、出土鏡のうち2枚を除く他のすべてを国産鏡とした。
  • 小山田宏一:(2000)
    三角縁神獣鏡の源は楽浪か中国東北部とするが、三角縁神獣鏡は国産。
  • 御所市:(2001)鴨都波古墳(20mの小さな方墳)から三角縁神獣鏡が4面出土。小古墳からの出土に、分配説が揺らぐ。(分配説では小さな古墳から出土しないはず)
  • 清水克朗:(2002)
    伝世鏡論議の中心であった鶴尾神社4号墳鏡は手ずれではなく、鋳肌の不鮮明さであり、踏み返し鏡の可能性が高い。
  • 中井一夫:(2003)
    キサゲ加工跡などの観察(磨きを入れた鏡を元に型を造った)により、踏み返し鏡の存在を直接的な観察で確認。「青龍三年銘」の太田南鏡は踏み返し鏡であり、同型の安満宮山鏡とは製作の流れが異なる。
  • 鈴木勉:(2004)
    三角縁神獣鏡の復元研究。多岐にわたる成果があるが、複製ができること、同笵鏡が可能であること、三角縁神獣鏡に多く現れる線キズの再現ができること(二層式鋳型の使用で微細な凸面キズが再現できる)、鏡のそりや縮径についての技術資料を提供。石神神社の七支刀が鋳物であることも証明した。
  • 泉屋博古館:(2004)
    Spring8の強力蛍光X線により、三角縁神獣鏡は中国鏡の組成と一致すると発表。一時、魏鏡説で決まりとの雰囲気まであった。
  • 新井宏 :(2005)
    泉屋博古館の解析方法に金属考古学上の重大な誤りがあり、結果は無意味と批判。
  • 新井宏 :(2005)
    紀年鏡に鉛同位体比の異なる二系列がある。年号の異なる鏡を後で一緒に製作した可能性が高い。国産鏡説を示唆。
  • 福永伸哉:(2005)
    『三角縁神獣鏡の研究』。従来の研究(魏鏡説)を集大成。内容は2000年以前とほとんど差が無い。
  • 橿原研 :(2006)
    『古鏡総覧』学生社。鏡形状のデジタル化と三角縁神獣鏡に関連する技術的な論考を多数収録。異型同笵鏡・線キズを共通する異型鏡などの指摘がある。舶載・製の区分表示を止める。バックアップの型は同じであることを示した。
  • 新井宏 :(2006)
    鉛同位体比の解析から、三角縁神獣鏡の大部分は朝鮮半島または日本の製作と結論。国産説に弾み。
  • 森下章司:(2007)
    中国出土鏡の実態が判明するにつれて、中国鏡も地域的に多様で、拙劣な鏡もあるので、従来の、製=拙劣の区分が合わなくなっている。
  • 辻淳一郎:(2007)
    『鏡と初期ヤマト政権』すいれん舎。一応、魏鏡説に立脚するが、三角縁神獣鏡は下賜鏡ではなく、楽浪で製作したものとする。
  • 池上曽根弥生学習館フォーラム(2007年11月17日)に新井宏が参加。
    • 福永伸哉
      華北東部の銅鏡生産の中にいくつかの決定的な三角縁神獣鏡との類似性があることは否定できない。
    • 菅谷文則
      洛陽近辺と山東省の出土鏡をことごとく調査したが、合計1700枚の中に同型鏡は見なかった。
    • 森下章司
      中国においても技術レベルに大きな差があり、拙劣な鏡もある。日本で「製鏡」と言われてきた鏡と類似する鏡が魏晋鏡にも見つかっている。
■ 研究の動向まとめ
  • 舶載三角縁神獣鏡と製三角縁神獣鏡の間に、明確な区分が認め難くなってきた。
  • 中国における鏡の地域的な実態や魏晋倣古鏡と称する「製鏡的な鏡」の存在が不十分ながら明らかになった。
  • 鏡の製作技術についての解明が進んだ。
  • 製作地:魏の中心地(洛陽)→渤海沿岸地域→楽浪郡(旧公孫氏地域)
  • 製作時期:卑弥呼への下賜鏡(特鋳説)→下賜鏡に続く特注の鏡(特注説)
  • キサゲ加工跡などにより、踏み返し鏡の存在が明らかになった。青龍三年鏡 も複製。鉛同位体比の研究結果と一致
  • 同笵鏡の製作が可能で、三角縁神獣鏡特有の線キズ成因が推測できた。これらの キズは魏晋鏡にはない。
  • 一般的に言って、舶載鏡、製鏡の区分があいまいになった。三角縁神獣鏡でも舶載から製へ変化が連続している。
  • 原料面での研究、特に鉛同位体比による研究が進展した。製作地は楽浪郡か日本に絞られつつある。
■ 論点を変えて生き残る魏鏡説
  • 当初は「師出洛陽」の銘文を根拠に、洛陽で卑弥呼への下賜鏡を製作したとされた。
  • 今は、卑弥呼の鏡ではなく、楽浪郡でつくられた鏡。
  • そのためかつて魏鏡説を否定するのに有効であった諸事実が意味を失ってしまった。
  • 例えば、拙劣な韻律、粗悪な作り、景初四年鏡(年号の間違え)、三角縁仏獣鏡、 洛陽付近に類似鏡が見付からない、などである。
  • もう一息で、洛陽→渤海→楽浪郡→日本(?)
■ 意味の薄れる産地論争

もし、三角縁神獣鏡が「卑弥呼の鏡」から自由になれば、三角縁神獣鏡をもって古墳 時代の年代を定めてきた旧来の学説も、三角縁神獣鏡をもって古代国家像を描いてきた 旧来の学説も、大きな変質を余儀なくされるであろう。

いわば中国鏡か国産鏡かの議論の重要さも、意味が薄れてしまうのである。

更に、三角縁神獣鏡に特徴的な「線キズ」が、中国鏡に認められない(?)ことから、鋳造技術面からも、国産鏡説への流れがあるように見受ける。

■ 鉛同位体比による判定

ウランやトリウムが崩壊した後の落ち着き先は全て鉛。その鉛は質量の異なる4種類 (204,206,207,208)の同位体で成り立っている。

この4種類の比率が地域や鉱山で微妙に異なっているので、指紋やDNA鑑定のように 青銅器の区分にも使える。

■ 三角縁神獣鏡と斜縁二神二獣鏡の比較

卑弥呼の三角縁神獣鏡神獣鏡と中国鏡の鉛同位体の比較をしてみる。

ところが、中国は夏とか殷のように古い時代に研究に熱心であり、漢、魏の頃のものの研究は後回しに なっている。そのため中国で発見された魏時代の鏡で鉛同位体比分析されたものがない。

そこで、福永伸哉氏が魏鏡としている斜縁二神二獣鏡と、三角縁神獣鏡の様式の中でも、卑弥呼の鏡とされる初期段階のものの鉛同位体を比較した。

その結果、この二つの鏡は異なるデータを示し、三角縁神獣鏡は、斜縁二神二獣鏡よりも庄内・古墳早期の製鏡に近い数値となった。

鉛同位対比分類
208Pb / 206Pb
2.105

2.110
2.110

2.115
2.115

2.120
2.120

2.125
2.125

2.130
2.130

2.135
2.135

2.140
斜縁二神二獣鏡2141
三角縁神獣鏡5952
庄内・古墳早期製鏡1412

■ 自給されていた鉛原料
  • 鉛は融点も低く精錬が簡単なので、銅や錫を中国に依存していた時代でも、鉛だけは 自給していた可能性がある。
  • 最近朝鮮半島遺跡の方鉛鉱の鉛同位体比が2件判明した。   
    • 楽浪土城出土の方鉛鉱: 朝鮮京畿道鉱山鉛に極似   
    • 金海内徳里古墳出土の方鉛鉱: 対馬の鉱山鉛に極似   
    これらは弥生期の佐賀県久里大牟田遺跡や春日市ウトロ遺跡、古墳期の岡山県中原25号墳出土の鉛製品と同位対比が良く一致している。鉛は弥生末期、古墳時代には自給されていた!!
■ 平原弥生古墳の漢式鏡
  • 40面の大量の青銅器群は、超大型4面の製鏡を含み方格規矩鏡(31面)や 内行花文鏡(7面)が主体である。
  • 半数は漢代の代表的な鉛同位体比であるが17面に朝鮮半島の鉛が添加されている。
  • 鉛の添加は鋳造技術と関連している。朝鮮半島か日本での製作である。
  • 前原市の公式報告書で柳田康雄氏は、詳細な理由を挙げて2面の鏡を除く大部分が 製鏡であると結論付けている。

    三角縁神獣鏡より、前に製鏡がつくられていた!!
■ 技術水準が高かった大型製鏡
  • 三角縁神獣鏡に先立ち、秀麗な超大型製鏡や舶来鏡と見紛う鏡が作られていた。
  • 当時、中国では20cm以上の鏡はほとんど作られていなかったので、30cm以上の大型鏡の製作技術では日本が上だったのではなかろうか。いつの時代でも製品を多量に作った地域で技術が発展する。
  • 平原弥生古墳の鏡の大部分が製鏡と確定すれば、その事実だけでも、三角縁神獣鏡が製鏡である可能性が非常に高くなる。
■ 舶載鏡は中国鏡とは限らない
  • 複製鏡ができる以上、いわゆる「舶載鏡」が全て中国製とは言えない。したがって、 もし中国から三角縁神獣鏡が続々と出土したからと言って、日本の三角縁神獣鏡が 中国製と決まる訳ではない。
  • ブランド品のイミテーションやコピーが流行るのは世界の常識。平原弥生古墳がその 良い例。
  • 舶載鏡には、日本で作られた複製鏡も含まれているので、この鉛同位体比をどう 見分けるか。
■ 結論

大部分の三角縁神獣鏡は国産である。しかしオリジナル鏡など魏鏡の存在を排除する ものではない。



2.三角縁神獣鏡は誰が作ったのか                    安本美典先生

■ 「同デザイン同型鏡」と「同デザイン踏み返し鏡」とは区別すべき

三角縁神獣鏡には、同じ形式、同じ文様の鏡がかなり多い。これを「同デザイン鏡」と呼ぶことにする。

かつて、京都大学の梅原末治は「同デザイン鏡」は同一の鋳型で作った鏡と考えた(同笵鏡説)。しかし、青銅は冷えて固まる時に縮んで鋳型を壊してしまうので、同じ鋳型で二面以上の鏡を作らない。

現在は、「同デザイン鏡」のなかには、「同デザイン同型鏡」と「同デザイン踏み返し鏡」があると考えられている。

「同デザイン同型鏡」とは、一つの原型となる鏡をもとにして、型押しによりいくつもの鋳型を同時に作り、これによって製作した同じ型の同デザイン鏡である。

ところが、原鏡となる鏡をもとにして作った鏡、つまり、コピー鏡、あるいは、母鏡をもとにして作った子供の鏡を、新たな原鏡として、もとの母鏡の孫コピー鏡を作ることができる。このようにして作った「同デザイン鏡」を「同デザイン踏み返し鏡」と呼ぶ。

「同デザイン鏡」でも、「同デザイン同型鏡」と「同デザイン踏み返し鏡」とは、区別して考えなければならない。「同デザイン同型鏡」は、同時期に作られた兄弟鏡である。しかし、「同デザイン踏み返し鏡」の母子関係にある鏡は、製作時期が異なると考えられるからである。

樋口隆康氏、岡村秀典氏、福永伸哉氏などの議論では、「同デザイン鏡」はすべて「同デザイン同型鏡」で、製作時期は同じとして、三角縁神獣鏡の製作年代、編年を考えている。ここに、最も大きな、根本的な誤りがある。

三角縁神獣鏡では、子コピー鏡、孫コピー鏡、曾孫コピー鏡が作られている。従って、兄弟関係いとこ関係、おじ・おい関係などになる鏡が多数存在している。三角縁神獣鏡の編年はこのような事実をもとにして考えるべきである。

■ 異なる古墳から出土した三角縁神獣鏡は異なる時期に鋳造されている。

以下の例のように、「同じ古墳から出土した同デザイン鏡は面径が一致する。」という強い法則性がある。

表1. 奈良県佐味田古墳などから出土している「天王日月」銘唐草文帯四神四獣鏡
出土地面径(センチ)
奈良県佐味田宝塚古墳23.9
京都府椿井大塚山古墳23.7
静岡県赤門上古古墳23.7
兵庫県吉島古墳23.4
兵庫県吉島古墳23.4

表2. 福岡県原口古墳などから出土している「天王日月」銘獣帯三神三獣鏡
出土地面径(センチ)
福岡県原口古墳22.6
福岡県天神森古墳22.6
大分県赤塚古墳22.6
京都府椿井大塚山古墳22.6
福岡県石塚山古墳22.4
福岡県石塚山古墳22.4

表3. 大阪府紫金山古墳などから出土している獣文帯三神三獣鏡
出土地面径(センチ)
大阪府紫金山古墳24.4
大阪府紫金山古墳24.4
福岡県沖の島17号遺跡24.3
京都府百々ヶ池古墳24.2
大阪府壺井御旅山古墳24.0


これまで出土した三角縁神獣鏡のデータ(『倭人と鏡 その2』(埋蔵文化財研究所関西世話人会編)巻末データ+黒塚古墳出土鏡)をもとに、一つの古墳から二面以上出土しているケースを全て取り出して調べると、
  • 同じ古墳から出土した同デザイン鏡の面径の一致率は、82.1%
  • 異なる古墳から出土した同デザイン鏡の面径の一致率は、25.5%
1ミリ以内の面径の差を誤差範囲として計算しても
  • 同じ古墳から出土した同デザイン鏡の面径の一致率は、92.9%
  • 異なる古墳から出土した同デザイン鏡の面径の一致率は、62.0%
であり、同デザイン鏡が、同じ古墳から出土する場合と異なる古墳から出土する場合とで、上記いずれの場合も、統計学的に偶然とはいえない差が認められる。

踏み返しによって同デザイン鏡を製作すると、銅の収縮によって、新しい鏡は元の鏡よりも面径が1.2%ほど小さくなる。この現象を考慮すると、上記データは、次のようなことを示していると考えられる。
  • 同じ古墳から出土した同デザイン鏡は、古墳築造の時に同時に作った「同デザイン同型鏡」がほとんどである。
  • 異なる古墳から出土した同デザイン鏡は、「同デザイン踏み返し鏡」がほとんどである。
このデータをみれば、やはり、異なる古墳から出土した三角縁神獣鏡は異なる時期に製作されていると考えるべきであろう。

岡村秀典氏は三角縁神獣鏡の伝世を説くが、岡村氏の言うように、中国大陸で製作されて日本に運ばれ、時間を経てから各地に埋納されたものであれば、伝世の過程でバラバラになるので、上記のような高い確率で同デザイン同型鏡が同じ古墳から出土することは考えにくい。

■ 三角縁神獣鏡の年代

岡村秀典氏は『三角縁神獣鏡の時代』のなかで、三角縁神獣鏡をはじめから「三世紀の中国鏡」と決めてかかり、三角縁神獣鏡がどのような年代の古墳あるいは遺跡から出土したかは、ほとんど無視して話を進める。

しかし、三角縁神獣鏡は前方後円墳から多量に出土していて、三角縁神獣鏡と土器との「確実な 共伴関係」は多い。

そこで明らかなのは布留式以降の土師(はじ)器と共伴することが多く、これまでのところ確実な庄内式土器との共伴がみられないという事実がある。

たとえば、徳島文理大学の石野博信氏は著書の中で次のように述べる。

墓から出てくる三角縁神獣鏡について土器で年代がわかる例を見ると、四世紀の「布留式土器」と近畿で呼んでいる土器と出てくる例はありますが、その前の、三世紀の土器といっしょに出てくる例は一つもない。それは埋葬年代を示すのであって、製作年代は示さないということはあるんでしょうが、それにしても、ひとつもないのはおかしい。新しいんだろう。

学者によって多少意見が異なるが、邪馬台国時代は、庄内式土器の時代あるいはそれよりも前の時代とされている。

庄内式土器よりも一時代あとの布留式土器と共伴する三角縁神獣鏡は、三世紀の邪馬台国の時代の鏡ではないことは明らかである。

方格規矩鏡や内行花文鏡をはじめとする中国北方系の鏡こそ、庄内式土器や庄内式以前とみられる土器とこれまでしばしば共伴関係が見られるものである。

■ 三角縁神獣鏡の製作者

三角縁神獣鏡が国産鏡とすると、この鏡は誰が作ったのであろうか。

『古語拾遺』神武天皇の段に次のような記述がある。

「また、天(あま)の富の命(高皇産霊の命の子で、忌部氏の祖神)をして、もろもろの齊部(いんべ)氏をひきいて、種々の神宝、鏡、玉、矛、盾、木綿(ゆう)、麻(お)などを作らせた。」

また、崇神天皇の段には、「崇神天皇の時代にいたって、宮中にまつられていた天璽(あまつしるし)の鏡と剣とから天皇は威圧を感ずるようになられ、同じ宮殿に住むことに不安をおぼえられた。そこで、齊部氏をして、石凝姥(いしこりどめ)の神の子孫と、天の目一箇(まひとつ)の神の子孫との二神をひきいて、さらに鏡を鋳造し、剣を作らせて(レプリカを作らせて)、天皇の護身用のものとした。これがいま践祚する日にたてまつる神璽の鏡と剣である。」と記される。

これでみると、宮廷の祭祀をつかさどる氏族である忌部氏が、石凝姥の神の子孫(鏡作り氏)などをひきいて鏡を鋳造したという。鏡作り氏は職業集団をひきいる伝統のあるリーダー氏族である。

鏡作り氏は各地の部民を指揮して鏡を作り、それを大和朝廷に貢納していたとみられる。大和の国、伊豆の国田方郡にある鏡作り郷に加えて、各地にある香美(土佐)、各務(美濃)などの郡名や、覚美(摂津)、香美(美作、安芸、阿波)各務(美濃)などの郷名が部民の存在を示している。

鏡作り氏の首長は鏡作造(かがみつくりのみやつこ)であり、天武天皇の時代に連(むらじ)姓になっている。

鏡作り氏を中央で掌握していたのは、忌部氏であった可能性が高い。忌部氏は祭祀具の製造に従事した氏族で、持統天皇の即位式では神璽の剣と鏡を奉った記録がある。

その後、忌部氏が中臣氏におされて衰えるにつれ、鏡作り氏も衰えたものであろう。



■ 鏡作り氏の役目

大化前代の4世紀を中心とする時代において、各地にいた鏡作り氏の役目は、およそ次のような物であったと考えられる。
  • 各地で、鏡作り部という部民をひきい、鏡を製作し、作った鏡を、各地の大和朝廷 関係の豪族、あるいは、大和朝廷そのものに貢納した(生産品の貢納。貢納型の仕事)

  • 各地の鏡作り部の工人などが、交代で故郷をはなれて畿内に上番(勤務につき)、 中央で、大和朝廷の必要とする鏡を製作した。そのばあい、工人などの生活費などは、 出身地の鏡作り氏が負担する(労働の貢上。上番型の仕事)。

  • 中央の鏡作り氏は、渡来系の工人をかかえ、それらの工人の生活費などを各地の 鏡作り氏が負担する(資養型の仕事)
各地の鏡作り氏は、おそらく、この三つの役目を、ともにはたしていたのであろう。

各地の鏡作り氏に属する部民は、平生は、農民としての生活をし、製作した鏡の貢上、 または労働の負担をするかわりに、租税の一部が免除されたとみられる。



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