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第299回講演会
四道将軍たちの墓


 

1.4世紀

謎の4世紀と言われ、4世紀の実態はよくわからないと言われている。

それは、津田左右吉氏の意見に従い、『古事記』『日本書紀』を全く無視していることが原因である。

文献学者は、古い天皇の時代の話は作り話だと述べ、考古学者は発掘には熱心だが、文献には関心を持たない。

文献をないがしろにせず『古事記』『日本書紀』をきちんと研究すれば、4世紀のイメージはかなりはっきりする。けっして謎の世紀ではない。

以前にも下図で説明したように、崇神天皇が活躍した年代が4世紀の中頃の358年頃と推定できる。

これは、崇神天皇陵とされる古墳の年代を4世紀半ばとする多くの学者の見解と整合している。



これも以前説明したが、下図で古い古墳は左下に、新しい古墳は右上に来る。

これに、円筒埴輪の形式を記入すると、古い円筒埴輪は左下に、新しい形式は右上にくることになり、古墳の新旧形式と整合する。

崇神天皇の時代に四道将軍が各地に派遣されたとされる。

大吉備津彦の陵墓、大彦の墓とされる川柳将軍塚古墳、会津大塚山古墳、丹波の道主命の墓など、四道将軍に関係する墳墓は、4世紀型古墳の領域に集まる傾向が見える。



下図は、造出しの有無と三角縁神獣鏡の出土状況を一緒にプロットしたものである。

造出しのある古墳は前方部の発達した5世紀以降の新しい古墳に多く見られる。これは、前方後円墳の前方部が大きく発達してくると、当初、前方部で行われていた祭祀を、くびれ部に設けた造出しで行うようになったものと思われる。

また、三角縁神獣鏡は4世紀の崇神天皇の時代前後に流行したことがわかる。これらにより、古墳の年代の大まかな分類が可能である。



同様に、下図のように埋葬形式を併記すると、おおまかにいえば竪穴式石室は4世紀の古墳、横穴式石室は5世紀、6世紀の古墳といえる。



碧玉製品を出土した古墳と、馬具類や馬形埴輪出土古墳をプロットすると、碧玉製品を出土するのは4世紀の古墳で、馬具類や馬形埴輪出土古墳は5世紀以降の古墳であることがわかる(下図)。



このように、古墳の形式や出土遺物などの特徴を見ることによって、古墳の築造時期を大まかに知ることができる。

4世紀の古墳の特徴は、前方部が発達していないこと。造り出しがないこと。竪穴式石室を持つこと。碧玉製品や三角縁神獣鏡を出土することなどである。


2.四道将軍の墓

四道将軍について、広辞苑は次のように記述している。

「記紀伝承で、崇神天皇の時、四方の征討に派遣されたと いう将軍。北陸は大彦命、東海は武渟川別命(たけぬなかわわけのみこと)、西道 (山陽)は吉備津彦命、丹波(山陰)は丹波道主命(たにはのみちぬしのみこと)。 古事記は西道を欠く。」

これは『日本書紀』の第十代崇神天皇紀十年九月の四道将軍派遣記事である。

埼玉県の稲荷山古墳出土の鉄剣銘文に大彦の名前が記されている。

従来、四道将軍や大彦を架空の人物とする意見もあったが、この銘文の発見で、大彦は実在の人物の可能性が高まった。

纒向遺跡から、各地の土器が出土しているが、これは四道将軍の派遣と関係するのではないか。

49%を占める東海地方の土器は武渟川別命の派遣された地域の土器である。

同様に、17%の山陰・北陸は丹波道主命や大彦命が遠征した地方、7%の吉備は吉備津彦命と関係しているように見える。

また、関東方面の土器は、日本武尊の東国遠征と関係しそうである。

垂仁天皇の皇后で景行天皇の母に当たる日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)の墓が大正5年に盗掘された。

犯人が逮捕され古墳は埋め戻されたが、出土品の詳細が明らかにされている。4世紀型の古墳では内容が最もよくわかる古墳である。

くわがた石や車輪石、石釧などが出土し、直径30センチを超える大型の鏡が出ていることも注目される。

■ 大彦の命の墓の伝承地

大彦の墓とされる古墳がいくつかある。

  • 川柳将軍塚古墳

    長野市の千曲川を望む標高480mの山頂上に川柳将軍塚古墳という古墳がある。

    この前方後円墳については、地元の『石川村誌』『布施五明村誌』などに、「崇神天皇十年、詔あって大彦の命、本村長者窪に本貫(本籍地)をうつし北陸を鎮撫し、ついに本村にて薨ず。その埋葬せし墳墓を将軍塚と いう。」という伝承が記されている。

    4世紀ごろの古墳は山の上や尾根の上にあることが多く、5世紀になると仁徳天皇陵のように平地に築かれる。川柳将軍塚古墳は、山の頂に築造されていて、この古墳が4世紀のものであることを思わせる。

    川柳将軍塚古墳は竪穴式石室で、第U型の円筒埴輪や内行花文鏡、方格規矩四神鏡類など42面の鏡がでている。

    ここは古戦場で有名な川中島の一画で、すぐ近くに、式内社の布施神社がある。

    布施は、古代の布施氏に由来するもので、布施神社は布施氏がその祖の大彦の命を 祀ったものであるという。

    この付近は五世紀、六世紀を通じて墳墓が築かれている。大彦の命の子孫の一族のものであろうか。

    今後の探求がまたれるが、川柳将軍塚古墳は大彦の命の墓である可能性がかなりあるといえよう。

  • 御墓山(みはかやま)古墳

    御墓山古墳は、三重県上野市佐那具字天王下の上野盆地北東隅、拓殖川左岸平地に突き出た丘陵末端部 に営造された前方後円墳である。主軸全長188mで、三重県下最大の規模をもつ。

    『日本書紀』孝元天皇紀に、天皇の長子大彦命は阿倍臣・阿閇(あへ)臣・伊賀臣など7族の始祖と記される。これら3氏はいずれも伊賀国の古代豪族である。

    伊賀最大の前方後円墳・御墓山古墳には、これらの豪族の祖先である大彦命を葬ったとする伝承があり、古墳の2キロ南には、大彦命を祀る伊賀一の宮の敢国(あえくに)神社がある。

    しかし、御墓山古墳を大彦命とするにはいくつか問題がある。

    この古墳は前方後円墳の墳形からは4世紀後半のものと考えられるが、古墳のくびれ部の東側に造出しと考えられる平坦な張り出しがある。また、V式の円筒埴輪が出る。

    造出しやV式の円筒埴輪は5世紀以降の古墳の特徴なので、大彦の時代よりもやや新しい古墳のようである。

    近くの敢国神社の祭神が大彦命とされたのは、近年になってからのようである。正徳3年(1713)国学の勃興を反映して度会延経が『神名帳考証』を著し、敢国神社の祭神を阿倍氏の祖・大彦命とした。

    そして、この説に基づき明治のはじめに時の宮司が政府に願い出て、大彦命を主祭神とし、右に金山比当ス、左に少彦名命を配した国幣中社となった。

  • 桜井茶臼山古墳

    歴史学者の塚口義信氏は、桜井市にある桜井茶臼山古墳が大彦命の墓ではないかと紹介している。

    桜井茶臼山古墳の南に高屋安倍神社があり、この地域が大彦命を祖先とする阿倍氏の本貫地であることを根拠にしたと思われる。

    しかし、安本先生はこの古墳は大彦命の娘の御間城姫(みまきひめ)の墓ではないかと考えている。

    御間城姫は崇神天皇の皇后で垂仁天皇の母であるが、この時代は、皇后は天皇とは別の墓に葬られ、その出身地に墳墓を築くことが多かった。

    桜井茶臼山古墳がある地域は大彦を祖先とする阿倍氏のテリトリーであり、そこに大彦の娘の御間城姫の墳墓が築かれた可能性があると考えるのである。

    先年の調査で、ここから大量の鏡が出土したが、女性の墓であることと関連するかもしれない。
以上のように、大彦の命の墓の伝承地は3箇所あるが、長野県の川柳将軍塚古墳が一番可能性が高いのではないか。

■武渟川別命の墓
  • 会津大塚山古墳

    会津という地名は、北陸を遠征していた大彦命と、大彦命の息子で東海地域を征討していた武渟川別命(たけぬなかわわけのみこと)とがこの地で落ち合ったことが語源であるとされる。

    会津には、東北南部の代表的古墳である会津大塚山古墳がある。

    ここからは、製の三角縁神獣鏡や碧玉製品が出土しており、出土品の特徴は4世紀型の古墳であることを示している。

    また、この古墳は、会津盆地の東南部標高270mの独立丘陵上の最高所に立地しており、これも山上に築かれる4世紀型古墳の特徴である。

    伝承から見ても年代から考えても、武渟川別命の墓としてもおかしくない。

    会津大塚山古墳は全長90mあり、前方部の長い柄鏡型古墳と呼ばれる種類の墳形を持つ。そして、桜井市の桜井茶臼山古墳も同じ柄鏡型古墳である。

    上述のように桜井茶臼山古墳を大彦命の娘の御間城姫の墓、会津大塚山古墳を大彦命の息子の武渟川別命の墓と考えれば、これらが兄弟の墓なので墳形が似ていることも納得できる。
■吉備津彦の墓
  • 中山茶臼山古墳

    中山茶臼山古墳は、岡山県岡山市尾上並びに吉備津に所在する大形前方後円墳で、岡山平野の中央に位置する独立小山塊の吉備中山の山頂直下の南尾根筋上に立地する。

    山の上や尾根の上に築造されており、この古墳も4世紀型古墳の特徴を備えている。

    『陵墓要覧』によれば、中山茶臼山古墳は吉備津彦の墓となっている。吉備津彦は、箸墓の被葬者の倭迹迹日百襲姫とは兄妹である。

    中山茶臼山古墳からは、特殊器台型埴輪片が出土している。また、箸墓からも特殊器台型埴輪が出土しているが、吉備津彦と倭迹迹日百襲姫が兄妹であるならば、同じような埴輪が出土することに不思議はない。

    吉備津彦の墓とされる中山茶臼山古墳は、崇神天皇古墳と正確に相似形で、ちょうど半分の寸法である。

    中国の洛陽晋墓からものさしが出土しているが、これによれば当時行われていた東晋の尺度では、1尺が24cmなので、崇神天皇陵は全長がぴったり1000尺、中山茶臼山古墳は全長500尺となる。

    形状や寸法の相関をみれば、崇神天皇陵と中山茶臼山古墳は4世紀のほぼ同時期の築造と考えて良い。

    したがって、吉備の中山茶臼山古墳は、崇神天皇の時代に四道将軍として活躍した吉備津彦の墓である可能性がかなり高いと思われる。

    尚、森浩一氏や石野博信氏が、崇神天皇と景行天皇の古墳の指定が逆ではないかと述べているが、景行天皇陵と崇神天皇陵を比べると、崇神天皇陵の方が前方部が発展しておらず古いかたちであることと、この吉備津彦の墓と相似形であることから、現状のままの比定で良いのではないかと考える。
■丹波の道主の命の墓

開化天皇の息子の日子坐王(ひこいますおう)の子が、四道将軍の一人として丹波に使わされた丹波の道主命である。道主の命の娘は垂仁天皇の后になった日葉酢媛命である。

丹波方面には、黒部銚子山古墳、神明山古墳、網野銚子山古墳などの古い古墳がある。これらの古墳は墳形から、四道将軍が活躍した4世紀ごろの古墳と推定できる(下図)。

丹波の道主の命の墓は、陵墓要覧に明確に記載されてはいないが、丹波方面にはそれらしい墳墓があるのである。



丹波地域の古墳について、被葬者を次のように推定する。
  • 黒部銚子山古墳

    丹波の道主の命の墓と考える。

    地元に丹波の道主の命の墓とする伝承がある。崇神天皇陵古墳や中山茶臼山古墳とほぼ相似形である。

    墳丘全長は100mで、大吉備津彦の墓と伝えられる中山茶臼山古墳(全長120m)にほぼ近い規模である。

    丹波の道主の命の館跡と伝えられるところや、中古の丹波郡の郡家(郡役所)の近くである。

  • 神明山古墳

    竹野(たかの)媛の墓と考える。

    地元に竹野媛の墓とする伝承がある。

    崇神天皇陵古墳や黒部銚子山古墳などと、ほぼ相似形である。

    竹野郡の竹野川の河口に位置し、竹野神社のそばにある。

    「竹野媛」と地名とが合致する。竹野神社の祭神の一人が竹野媛である。

    なお、竹野媛については、史料によって丹波の道主の命の娘とするものと、丹波の大県主・由碁理(ゆごり)の娘で開花天皇の妃とするものがある。

    神明山古墳の被葬者は開花天皇の妃と考える。

  • 網野銚子山古墳

    阿邪美(あざみ)の伊理媛(いりひめ)の墓と考える。

    これは「網野(あみの)」と「阿邪美(あざみ)の」はやや音が近いことによる。

    「網野神社」の名は、『延喜式』にみえる。

    この地に「浅茂川」が流れるが、「浅茂」も「阿邪美(あざみ)の」に音が近い。

    網野銚子山古墳は全長198mで、日本海側第一の規模を持つ。

    前方部が日葉酢媛陵古墳よりは発達しているが、景行天皇陵古墳よりは発達していない。おそらく、日葉酢媛陵古墳よりも後で作られ、景行天皇陵よりも前に作られたものであろう。

    とすれば、丹波の道主の命の娘で、垂仁天皇の妃となり、皇子、皇女を産んだ人のうちで、最も年の若い人を当てるのが妥当か。

    神明山古墳は、葺き石と埴輪をもち、家型埴輪、盾型埴輪、蓋(きぬがさ)型埴輪、円筒埴輪などが出土しているが、これらの形象埴輪は、丹波の道主の命の娘で、垂仁天皇の皇后となった日葉酢姫の命の陵墓からも出土している。

    古墳の造形といい、出土物といい、奈良の日葉酢媛陵古墳と、丹波の神明山古墳とが、同一の文化のもとに成立していることは明らかなように見える。

    そして、ともに、天皇の后妃の墓という点でもつながるように見える。
このように、四道将軍とその関係者の墓が、4世紀型の古墳として存在している。4世紀は謎の世紀ではない。

3.その他の4世紀の古墳

  • 椿井大塚山古墳

    京都府南部の相楽郡山城町の椿井大塚山古墳から方格規矩鏡1面、内行花文鏡2面、画紋帯神獣鏡1面、三角縁神獣鏡32面、そのほか素環頭大刀、鉄刀などが出土している。

    三角縁神獣鏡を出土するのは4世紀型の古墳である。

    椿井大塚山古墳の被葬者は武埴安彦(たけはにやすひこ)ではないか。

    『古事記』『日本書紀』は武埴安彦について次のようなことを記している。

    「崇神天皇のとき、山背(やましろ)の国にいた武埴安彦(第八代孝元天皇の子)が、反乱をおこした。

    崇神天皇は討伐のために和珥(わに)の臣の遠祖、彦国葺(ひこくにふく)を遣わした。武埴安彦は木津川で、彦国葺をまち、さえぎった。京都府相楽郡木津町でのこととみられる。

    両軍は川をはさんで対陣した。彦国葺は武埴安彦を射殺し、さらに、武埴安彦の軍兵を京都府相楽郡精華町の祝園(はふりその)で、斬り葬った。」

    武埴安彦が射殺された木津町の近くに椿井大塚山古墳がある。時代的にも伝承的にも椿井大塚山古墳は武埴安彦の墓である可能性が強い。

  • 東大寺山古墳

    京大の小林行雄氏は椿井大塚山古墳は武埴安彦の反乱を平定した彦国葺の墓ではないかと述べていた。

    しかし、彦国葺の墓は、天理市櫟本(いちのもと)町東大寺山にある東大寺山古墳ではないかと考える。

    彦国葺は和珥(わに)の臣の遠祖である。和珥氏は天理市櫟本町和邇(わに)の地を本拠としていた。

    和邇の地には、式内社和爾下(わにした)神社があり、その東側に東大寺山古墳がある。

    東大寺山は標高134・2mの丘陵である。この付近は近世まで東大寺領であったので、東大寺山といわれていた。

    『日本古墳大辞典』によれば、東大寺山古墳の造営は、4世紀中葉から後半頃とされる。

    彦国葺が出身地の和邇の地域に墳墓を作ったとすると、地域的にも年代的にも整合する。
4世紀については『古事記』『日本書紀』に多くの内容が描かれており、そこで活躍した人々の墓も、考古学的な年代が整合している。4世紀は暗黒でも謎でもないと思われる。

また、箸墓古墳も、『日本書紀』に描かれたように4世紀の崇神天皇の頃の造営とすれば、様々なことと整合的である。

もし、畿内説の学者が言うように箸墓古墳を3世紀の卑弥呼の時代にもっていったら、ここで述べたいろいろな話をすべて3世紀に持って行くことになり、つじつまが合わなくなる。


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