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第302回 邪馬台国の会
仏教の伝来と聖徳太子の時代


 

1.仏教伝来年論争(538年か、552年か)

■仏教公伝
仏教公伝について、戦前は「仏様イチニイチニとワタッテキ」と習い、皇紀1212年に仏教伝来があったとしたことで、西暦552年説であった。戦後は『日本書紀』が否定され、538年説となった。
●552年説
・『日本書紀』
戦前は「仏様イチニイチニとワタッテキ」と習った。これは皇紀1212年に仏教伝来があったしたことで、皇紀1212年は西暦552となる。
『日本書紀』に「欽明天皇13年(552年)の冬十月に、百済の聖明王〔またの名は聖王〕は、西部 姫氏達率 怒?斯致契(ぬきりしちけい)らを遣わし、釈迦仏の金銅の像表一軀、幡蓋(はたのきぬがさ)若干、経論若干巻をたてまつった。別に上表して仏法を流通(るずぅ)し礼拝するこの功徳を讃え、・・・」とある。

『日本書紀』では仏教を受け入れるにあたり、豪族が対立したとあり、
・蘇我大臣稲目宿禰・・・・・・賛成
・物部大連尾輿と中臣連鎌子・・反対
その後、蘇我氏が物部氏を滅ぼして勝つのだが、最終的には中臣氏(藤原氏)が蘇我氏を滅ぼし、藤原氏として栄える。国粋的な考えが勝ったといえる。

●538年説
・『元興寺伽藍縁起』
「大倭国佛法、創自斯歸島宮治天下天國案春岐廣庭天皇御世・・・治天下七年歳次戊午十二月度來、百済聖明王時・・・」と、 欽明天皇の戊午年に百済聖明王から仏教が伝わったとある。
・『上宮聖徳法王定説』
「志癸島天皇(しきしまのすめらみこと)[欽明天皇]の御世、戊午(つちのえうま)年の十月12日に、百済の国主明王(こにきしみょうおう)、始めて仏像・経教并(あわ)せて僧等を度(わたし)奉りき。・・・」とある。

●552年説と538年説の両説について、比較検討する。
・『日本書紀』による欽明天皇の年に壬申年[552年]は存在するが戊午(ぼご)年[538年]は存在しない。戊午年は宣化天皇の年となる。

しかしこれに対し、戊午年が欽明天皇の年になる説がある。①②とも、欽明天皇7年が戊午年[538年]となる。
①喜田貞吉説
「『日本書紀』にある安閑・宣化天皇はそのまま認める。しかし欽明天皇が532年に即位し、安閑・宣化天皇と両朝並立で存在した」とする説。
②平子鐸嶺(たくれい)説
「継体天皇崩御の年は『日本書紀』記載の531年ではなく『古事記』記載の527年で、527年から安閑天皇、続けて宣化天皇が即位、532年に欽明天皇が即位した」とする説。そうすると戊午年は欽明7年となる。しかし、『古事記』『日本書紀』は安閑天皇が亡くなった年は535年と書いてあるが、それを無視している。

・安閑天皇・宣化天皇の母は尾張の豪族の娘の目子媛(めのこひめ)。かつ、『日本書紀』の記す在位年数では、安閑天皇は2年、宣化天皇は4年である。いずれも、短い。いっぽう欽明天皇の母は仁賢天皇の皇女手白香媛で、血筋がずっとよい。安閑天皇・宣化天皇については、中つぎ的な人(幼年の正式の後継者[のちの欽明天皇]が成長するまで一時的に政務をとった人)で、正式な天皇として認めないという考えもあったのではないか。
各文献の成立年代は『古事記』が712年、『日本書紀』が720年。『元興寺伽藍縁起』が747年(天平19年)。共通の表記では「馬子」が「馬古」など、『古事記』『日本書紀』の記載より、『元興寺伽藍縁起』の方が古い表記となっている。

また、家永三郎氏の『上宮聖徳法王定説の研究』(三省堂1951年刊)には他の文献
・『三国仏法伝通縁起所引大安字審祥記』
・『仮名本末追考所引最勝王聊簡略集』
・『古今目録抄所引建興寺縁起』
があるが、いずれも成立が『古事記』『日本書紀』より新しく、『日本書紀』を参照しているものもあり、仏教伝来の史料として参考にならないと思われる。

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●結論
①『古事記』『日本書紀』ともに安閑天皇の没年を535年と記す。この結果、538年が欽明天皇の御世にはありえない。
②『古事記』の没年干支は、仁徳天皇の没年以後はあまり無理がない。
③仏教伝来538年説をとると、欽明天皇の在位期間は、40年となり、古代の在位期間として長すぎるようにみえる。
*確実な歴史時代にはいって、明治天皇よりまえ(孝明天皇以前)に、40年以上在位した天皇は91天皇中に一人もいない。用明天皇以後、後鳥羽天皇(平安時代最後の天皇)までの、最長在位は推古天皇の36年(欽明天皇は『日本書紀』では32年在位)

・仏教伝来538年説は、『日本書紀』は信用できないという暗黙の前提のうえに成立しているように思われる。

このようなことから、仏教公伝の『日本書紀』記述の552年説でも良いように考える。


■仏教公伝以前の伝来
①大唐の神
『扶桑略記』欽明天皇12年(551)条に継体天皇16年(522年)に司馬達止(しまたっと)が大唐の神を拝むことが書かれている。

②三角縁仏獣鏡
仏教伝来の6世紀中頃以前に仏像の鏡が日本に存在した。
「三角縁仏獣鏡」と呼ばれる仏像を鋳こんだ鏡が、4世紀ごろとみられる古墳から出土している。
・岡山県一宮天神山1号墳出土の獣文帯三角縁三仏三獣鏡。天神山2号墳の築造時期が
4世紀後半。
・奈良県新山古墳出土の獣文帯三角縁三仏三獣鏡。古墳は、4世紀後半ごろの築造。
・京都府寺戸大塚古墳後円部出土の櫛歯文帯三角縁三仏三獣鏡。古墳は4世紀末から5世紀初期の築造。
・京都府百々ケ池(どどがいけ)出土の櫛歯文帯三角縁三仏三獣鏡。古墳は5世紀末前半の築造か。


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2.聖徳太子実在非実在論争

■聖徳太子非実在説の波紋
・曽根正人『聖徳太子と飛鳥仏教』(吉川弘文館)から
旧来推古朝仏教を主導していたとみなされていたのは、政権の中枢にあった蘇我馬子、そして没後早くから「聖徳太子」として尊敬されて信仰を集めた厩戸(うまやど)皇子であった。なかでも推古朝のみならず飛鳥仏教全体を代表する人物とされてきたのが厩戸皇子である。だが「聖徳太子」という呼称からしてそうなのでが、この人物は没後早くから神話に覆われる。人物像についても史実と神話とが混合した造形がなされ、歴史学においてすら、時代の仏教から掛け離れた理解水準の仏教者という非現実的な人間像が語られてきた。よしんばそんな高水準の仏教理解者だったとしても、それならば同時代の日本仏教からは遊離していたはずである。ところがさらに奇妙なことに、そうした彼をもって飛鳥仏教を代表させる、といった矛盾した図式がまかり通っていたのである。そこに近年、大山誠一の研究によって一気に正反対のベクトルが形成されるに至った。

『隋書倭国伝』『日本書紀』『天寿国繡帳銘』、法隆寺法隆寺諸像の光背銘などいわゆる聖徳太子関係史料すべての信憑性に疑義を呈することにより、「聖徳太子は存在しなかった」と結論した。この刺激的でかつ誤解を招きやすい結論は、発表当時から大きな反響を巻き起こした。

・大山説の概説
大山氏の研究は、本来推古朝の政治状況から聖徳太子関係資料成立期(奈良時代初期)の政治状況などにわたる広い領域を踏まえたものである。そこから本書で取り上げる仏教者としての厩戸皇子に関わる部分を取り出すと、以下のようになる。

A:『隋書倭国伝』に見える「王、多利思比孤(たりしひこ)」「倭王」とは厩戸皇子のことではなく、蘇我馬子のことである。よってそこに見える仏教事跡を厩戸皇子に帰することはできない。

B:『日本書紀』で厩戸皇子の仏教行業として記されている事績も、他の仏教関係記事同様ほとんどすべて道慈(どうじ)[奈良時代の僧]による捏造である。

C:法隆寺金堂薬師像・釈迦像の光背銘や『天寿国繡帳銘』『三経義疏』(以上いわゆる法隆寺刑史料)、あるいは『上宮聖徳法王定説』『法起寺塔露盤銘(ほっきじとうろばんめい)』といった『日本書紀』より古い時期の別系統の厩戸皇子関係資料とされてきたものは、いずれも『日本書紀』以後に政治目的から創作されたものであり、記されている内容は史実とは無関係である。

D:今日なお学界で流布している聖徳太子像は、『日本書紀』によって創出された原型が、「C」で挙げた後世の創作物によって肥大化して形成されたものである。

E:したがって厩戸皇子の仏教事跡として認め得るのは、斑鳩寺(法隆寺若草伽藍)の造営くらいしかない。

・聖徳太子はいなかった
もともと『日本書紀』記事の多くに人為的操作が加えられていることは、周知の事実である。厩戸皇子の記事にしても、神話的エピソードはもちろん事績の記述すべてが、事実をありのままに記したものと見る研究者は少ない。また法隆寺諸像光背銘・『天寿国繡帳銘』『法起寺塔露盤銘』にしても成立期や信憑性について意見は分かれており、無批判に依拠し得ないのは学界の共通認識であろう。ただ大山氏の場合、旧来信憑性に疑問が呈されてきた史料はもちろん、『隋書倭国伝』の「王、多利思比孤(たりしひこ)」を厩戸皇子とする解釈、比較的信用度の高いとされて来た『上宮聖徳法王定説』、『日本書紀』でも比較的信憑性が高いとされて来た記事までほぼすべてについて、創作であり歴史上の厩戸皇子とは無関係な捏造としたのである。さらにこれを受けて『上宮聖徳法王定説』、そして『日本書紀』に次いで古い史料で問題視されることの少なかった『元興寺縁起』についても、最近吉田一彦氏から根本的疑義が呈されている(「「元興寺伽藍縁起并流記資材帳」の信憑性」[大山誠一編『聖徳太子の真実』所収])。こうした大山・吉田氏らの論を全面的に肯定するならば、厩戸皇子の仏教に関する史料で使えるものはほぼ皆無ということになる。
かくして以下のような結論が導かれる。厩戸皇子=聖徳太子の事跡として記録された事柄はすべて創作だった。人間離れした超人説話が史実でないのはもちろんだが、時代をリードする先進的指導者という造形も含め、すべての聖徳太子像は捏造だった。すなわちいわゆる「聖徳太子」に相当する人物は、そのモデルを含め歴史的には存在しなかった。厩戸皇子という王族は存在したが、その実像は「聖徳太子」のモデルたり得るほどの大層なものではなかった、というわけである。

■それに対する反論として、
『上宮聖徳法王帝説』は最古の聖徳太子伝である。聖徳太子の誕生、一族のこと、仏教興隆のための記事などを記す。編著者は、未詳である。
『上宮聖徳法王帝説』は性質の異なるつぎの五つの部分からなる。
その分類から、成立時期が異なると考えられており、その最初とされるものは、『古事記』『日本書紀』より古いとされる。この古い時代の表記に「聖徳法王」などの記載がある。
『上宮聖徳法王帝説』の「用字・用語」の研究で、家永三郎はその年代推定をおもに、「用字・用語」の研究によって行っている。
すでに、江戸時代の考証学者、狩谷掖斉(かりやえきさい)は『上宮聖徳法王帝説』について、つぎのように述べている。「その文詞を味わうに、すこぶる『釈日本紀』引用するところの『上宮記』に類す。いまだ『古事記』『日本書紀』を見ざるものの作るところか。」

市川寛氏の「『御字』用字考」[『季刊邪馬台国』67号に転載(1999年)]による研究から、
・677年につくられた「小野毛人墓誌金堂版」や686年(674年とする説もある)につくられた「奈良長谷寺法華説相図銅版」に「治天下」の文字が用いられている。
・それに対し710年につくられた墓誌銅製蔵骨器には「御宇」の文字を用いている。
・『上宮聖徳法王帝説』『古事記』は「治天下」を使っており、『日本書紀』は「御宇」を使っている。『上宮聖徳法王帝説』は『日本書紀』より古い表記であるから、『日本書紀』より前に書かれたものと言える。。

以上から、大山氏の主張する『日本書紀』以後の捏造とは言えない。





3.『法華義疏』は聖徳太子の自筆の本か否か

聖徳太子撰になる三経の義疏の実在について、記した最も古い資料は747年(天平19年)の法隆寺伽藍縁起并流記資材帳で、次いで761年(天平宝字5年)法隆寺東院縁起資材帳である。法隆寺東院縁起資材帳では『法華義疏』の注に「正本者、帙(ちつ)[和とじの本を包むおおい]一枚、着牙、律師法師行信、覓求奉納者」とあり、僧行信がこれを探し求め奉納したものであると記している。

・聖徳太子の『法華義疏』の大委国
聖徳太子は『三経義疏』をあらわしたと伝えられる。
『法華義疏』は四巻、『推摩経義疏』は三巻、『勝鬘経義疏』は一巻である。成立年代は、『上宮聖徳太子伝補?記』によると、
『勝鬘経義疏』が、609年から三年、『推摩経義疏』がそれにつづいて二年、『法華義疏』が二年、合計七年かかって(聖徳太子、36歳~42歳の時期に)完成したという。

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・東野治之氏「ほんとうの聖徳太子」(『日本列島に生きた人たち』岩波書店2000年6月)によると、
『法華義疏』に「大委国」という表現がある。この「委」は「倭」とも表記される。しかし「委」の表記は藤原宮の時代までは見つかるが、それより後は見つからない。このことは奈良時代より古い時代に書かれたものであると推定できる。
・『法華義疏』は生原稿であること
・この原稿を成立直後からそのまま保存しようとした形跡があること
・その草稿を太子の著作とする伝えが、7世紀代に確立していること
などから、『法華義疏』は太子の生原稿ではないのか、ということ。

また、疑撰説には、法隆寺に撰者不明のままに伝えられてきたものに747年に寺の資材帳提出のさいに、「上宮王私集」という題箋(だいせん)を付したものであるとする説がある。

これに対し、『法華義疏』をみると、「大委国上宮王私集非海彼本(大委国[やまと]の上宮王の私集、海彼[かいひ](外国)の本にあらず)」という、題箋の筆跡は本文と同じようにみえる。別人が後から題箋をふしたようにみえない。(例えば、「是」「非」の字を比較)

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4.「唐本御影」は聖徳太子像か否か

「唐本御影」は聖徳太子が真中にいて、その両側に王子がいる。昔の一万円札はこの絵の図柄からを使用したものである。肖像画の真偽が問われるのは源頼朝、足利尊氏などの議論と同じである。

武田佐知子氏は「『唐本御影』は聖徳太子像か」で聖徳太子像であるとする説。ただし三尊形式の信仰の対象画説。これは法隆寺金堂釈迦三尊像と同じで信仰の対象するもので、聖徳太子を写実的に描いたものではないとしている。

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5.文献批判説について

「何々は存在しない」とした、論理構造
津田左右吉氏がとったのは、19世紀的な文献批判学の方法である。文献批判[テキスト・クリティーク]は、史料が、史実をさぐる材料として役立つかどうか。もし役立つとすれば、どの程度役立つか、などを吟味する。文献を本文にしたがって分析究明し、それを現代の理性にしたがって判断し、さらに、異本、伝説などを参考にして、史料の価値をさぐろうとする。ドイツのドイゼン、ベルンハイム、フランスのラングロイア、セニョボスらは、19世紀に、文献批判の方法を概論風にまとめた。
19世紀的文献批判学は、文献の記述内容に対して、批判的、懐疑的、否定的な傾向が強い。このような傾向のため、19世紀的文献批判学は、史的真実の把握にあたって、これまでしばしば大きな失敗をくりかえしてきた。おもな例をあげる。
①19世紀の文献批判学者たちは、『イリアス』や『オデュッセイア』などを、ホメロスの空想であり、お伽噺にすぎないとした。しかし、この結論は、学者としてはアマチュアのシュリーマンの発掘によって崩壊した。
②19世紀から20世紀にかけて、インド学が成立した。・・・ブッダ・ゴータマの歴史的存在・・・(この項は長いので省略します)
③中国においても、康有為が『孔子改制考』をあらわし、夏、殷、周の盛世は、孔子が、古にことよせて説きだした理想の世界にすぎないとのべた。殷王朝は、星体神話に過ぎないともいわれた。しかし甲骨文字の解読、殷墟の発掘は、『史記』の「殷本記」に記されていることが、王名にいたるまで、作為でも創作でもないことを明らかにした。古人は、私たちが考える以上に誠実だった。
このように失敗をくりかえしてきた19世紀的批判学に対しては、外国ではすでに多くの再批判がみられている。たとえば『数理哲学の歴史』をあらわした哲学者、G」・マルチンは、19世紀的文献的批判学を、「自己自身に対して無批判な批判」と鋭く論評している。

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津田史学は非生産的な水かけ論をもたらしている
行きつくところは「聖徳太子も実在しなかった」「いや、聖徳太子は実在したのではないか」「大化改新は偽りだ」「いや、そうともいえない」式の、およそ、非生産的な水かけ論に熱中することになる。そこでは、肯定するにしても、否定するにしても、科学的・客観的な判断基準が提出されていない。読者はどの説を、どこまで信じてよいのか、わからなくなる。
津田左右吉の文献批判学のトレーニングをうけたはずの何人かの日本史学者は、現代人制作の完全な偽書である『東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)』などを、本物であると主張したりした。『古事記』『日本書紀』を疑って、『東日流外三郡誌』を信じるのでは、「石が浮かんで木が沈む」ような議論である。
津田左右吉流の文献批判の発展の結果は、「文献学は、古代史探求にあたって、無用の長物である」ことを証明することになっている。学問としての自己否定をもたらしている。
イエス・キリストものべている。
「木の良否は、実の良否によって知ることができる」と。最近の聖徳太子論や、大化の改新論は、新しい資料を提出しているわけではない。『日本書紀』などの文章の観念的解釈論に、ほとんど終止している。客観性、実証性の欠けた観念的論争というべきである。




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